2-7 痛みの名前
とりあえず何かやっておいた方がいいだろうと思って、あたしは
定時退勤できたらしく、咲子さんは早めに帰ってくるという連絡があった。「デザート買ってこうか?」と聞かれたので、素直に「プリンがいい」とお願いしておいた。
「
咲子さんの帰宅。深呼吸してから出迎えにいき、仁輔のことを謝ろうとする――のだが、あたしが口を開く前に咲子さんに抱きしめられた。
「咲子さん、」
「大丈夫だからね、義花」
どんな説明よりも先にあたしを安心させてくれる咲子さんは、やっぱりあたしに甘すぎるんだろうけど。
「……うん、ありがと咲子さん」
やっぱり嬉しくて、温かくて。今は咲子さんがさすってくれる手に甘えることにした。
「ご飯できてるけど、先シャワーだよね」
「そうね、準備ありがとう。すぐ上がるから、もう温めてて」
「うん!」
いつも通りに、一緒に夕飯を食べて。咲子さんは家事をこなし、あたしは勉強を進める。
夜も遅くなってきた頃、あたしから切り出した。
「咲子さん、さっきの話していい?」
「うん、聞こっか」
ソファの上、あたしの隣に咲子さんが座る。
「
「義花と気まずくなって動揺させちゃったから、今夜は一緒にいてあげてくれって」
「何があったかは聞いてないんだ」
「察しはつく、けどね」
説明はあたしに譲ってくれたのか、任されたのか。
「さっきね、仁と……エッチしようとしたの。仁がしたそうだったから、あたしから誘って」
「うん」
「けどね、できなかった。いざ一緒にベッドに入ったら……これじゃないとしか考えられなくて」
「そっか……怖かった?」
「うん、けど仁は何も悪くないんだよ。ただ……あたしは多分ね、男に抱かれたいとかヤりたいとか思えないっぽいんだ」
変に思われるかな、不気味がられるかな、とか思ったけど。
「そっか……ちゃんと気づけたね、偉い」
咲子さんはいつも通りに、あたしの頭を撫でてくれた。
「あたし、変、じゃないかな」
「変だって言う人がいたら、私が一緒に怒ってあげる。珍しいかもしれないけど、おかしくなんか絶対ないから」
気休めとか一般論じゃない、咲子さんの言葉には真摯な想いが乗っている、気がした。
「咲子さんが味方で良かった……けど、誰が好きなんだろね、あたし」
さっきまでぼんやり考えていたのだが、はっきりした答えは出なかった。
「もしかしたら義花、女の方が好き?」
「かもねえ……確かに、キャラでもアイドルでも好きになるのって女子が多かったけど。カプも男女より百合のが好きだし」
実際、女同士で付き合っていたクラスメイトの例も知っているし、その子たちのことはあたしも真剣に応援していた……けど、あたしがそうかとはよく考えなかった。なんとなく、仁輔への友情がそのうち恋愛になるんだろうと思ってだけいた。
レズビアン、ノンセクシャル、アセクシャル……当てはまりそうな概念は知識としては知っているけど、どれにも実感は結びつかない。
「……うん、分かんないや」
「そっか。どんな人を好きになっても、ならなくても、私は義花のこと大好きだよ」
「えへへ、あたしも」
ぎゅっと抱き合ってから、言わなきゃいけないことを言う。
「けどさ。やっぱり、仁のこと傷つけちゃったのは確かなんだよ。彼女になりたいとか抱かれたいとか、本当はできないことを引き受けて……あんなに好きになってくれたのに、裏切って」
「うん、確かに良くなかったし、仁も悲しかっただろうけど……高校生って、そういう時期だと思うの。自分がしたいことが何かも分からなくて、すれ違って」
自分の過去を重ねるように、咲子さんは語る。
「だから、仁も義花も、これからね。自分のこと見つめ直して、仲直りしていけるはずなの。だってあなたたち、昔から何度もケンカしてきたじゃん。だから今回も大丈夫」
「……今回はさすがにレベル違くない?」
「ベッドでの失敗なんて、大人になると結構出てくるもんだから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
咲子さんの微笑み、大人の余裕という奴だろうか。
「夫婦の秘密だけどね、お父さんとも色々あったんだから」
「へえ岳志さんとも、順調に仲良いところしか知らないからなあ」
意識してこなかっただけで当たり前だけど、咲子さんと
……あれ、あれ?
今の胸の感覚、なんだ?
なんで、咲子さんたちの昔のこと考えると……あたしが、苦しい?
嫉妬みたいな、苛立ちみたいな、このザワつきは、一体?
「どうしたの?」
戸惑いが顔に出ていたのか、咲子さんに訊かれた。
「なんか……考えすぎて疲れただけ」
はぐらかしつつ。顔を見られたくなくて、咲子さんの膝に頭を載せる。いつもの甘えだと思ったのだろう、咲子さんは頭を撫でてくれた。
普段ならすっかり落ち着く、咲子さんの膝枕だけど。
咲子さんの手に撫でられたあたしの頭は、記憶と情緒がフル回転していた。
あたしの主観において。物心ついたときから、咲子さんとの距離が一番近いのはあたしだった。あたしが咲子さんといるときは一番近くを独占してきた、と言ってもいい。
あたしが自宅にいるとき、咲子さんは仁輔のそばにいる。遠方で働く前は岳志さんもいた。そもそも咲子さんは岳志さんの妻である。
ただ、仁輔は昔から人前で母親に甘えたがらなかったし、咲子さんたちはいちゃつく夫婦でもなかった。親子並み、というか普通の親子以上に咲子さんに甘えたがりだったのはあたしだ。
けど、あたしの知らないところで、あたしが関係ないところで、咲子さんはその身体を夫に捧げてきたんだ。他の人に許さない女性の領域を、岳志さんには。
今さら気づいたそれが、妬ましい、悔しい――人に対してこんな感情があるんだって驚くくらい、痛いほど強く。
咲子さんの一番は、あたしじゃなきゃ嫌だ。実の子より夫より、あたしじゃなきゃ嫌だ。筋違いにも程があるって分かるのに、その欲望はあまりにも明確すぎる。
ずっと、娘が母代わりに向ける愛情だと思っていた、この気持ちは……まさか、もしかしたら?
「義花、もう寝ちゃおうか」
「……だね」
あんなに近くにいた人との、心の距離の本当の名前。
それを知るのが、こんなに怖い。
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