第38話「黒乃すみかの独白」

 どうしてだろう。


 どうしてあの人は、私のモノにならないのだろう。


 どうしてそこまで、あの子のために命を懸けるのだろう。


 あの人の話を聞いても、それでも納得がいかなかった。このまま幼いあの子を守るだけに留めていればいいのに、なぜ時を越えてまで助けに行こうとするのか。同じ時間軸の中に、同一人物が二人いることはできないというのに。


 理解できない。理解できない。


 いや。理解できないのは、私の方。修正機関〈リライト〉に身を置いていながら、ただの人間——それも時の流れを破壊する恐れのある、イレギュラーに恋をした。


 普通ならあり得ないことだ。


 私は〈リライト〉から生まれた身であり、厳密には人間ではない。人間らしく振る舞うこともあるが、それは真似事に過ぎない。すでに時の止まったリューズもベゼルも、人間らしい感情があるように見えるが、それは彼らが〈クロック〉から生まれて長い時間が経っているから。最初はそう、あの五分針のように、感情など持ち合わせていなかったはずだ。


 いつからだろう、こんな狂おしい想いを抱いたのは。


 最初はただイレギュラーを——時を乱す可能性のある分子を——監視するだけのはずだった。養護教諭である彼を初めて見た時には、未来でタイムマシンを開発する人間には見えなかった。


 そこまでするだけの知識、技術、そして理由を持っているようにも。


 きっかけは、ごく些細なものだった。


 ふとしたことで指を切ってしまったのだ。割と深いものだったが、この程度の傷ならばすぐに治せる。ただ、イレギュラーの監視と調査も兼ねて、保健室に寄ってみることにした。


 初めて保健室に入った時、妙な匂いがして——薬品の匂いだと気づいた。


 椅子をくるりと回転して、「どうしたんだい?」と彼は怪訝けげんそうにしていた。私の指を見て、「ああ」と納得したようにうなずいた。


 絆創膏ばんそうこうだけもらうはずが、わざわざ消毒液まで持ち出して、丁寧に手当てされてしまった。


「細い指だな」と、彼は言った。


「悪いですか?」と私は険を込めて言った。


 すると、彼は苦笑して——


「気を悪くしたなら謝る。綺麗な指だなと思ったんだ。こっちの方を先に言えばよかったな」


 そう言って彼はほんの少しだけ、笑みを見せた。なんとか相手を安心させようとするみたいな、口の端を無理に持ち上げた不器用な笑み。


 それだけだった。


 そんな馬鹿らしいきっかけで、私は感情を乱した。指に巻かれた絆創膏——彼の手に触れた感触が、忘れられなかった。


 そしていつの間にか、保健室に入り浸りになってしまった。


 彼の笑った顔が見たくて。


 彼の困った顔が見たくて。


 彼の心配する顔が見たくて、何度も嘘をついた。


 私が来ることにすっかり慣れても、追い返そうとはしなかった。学校はどうとか、授業はどうとか、クラスメイトとはとか、そういうことを無理に聞いてこようとはしない。


 生徒ときっちり距離を取っているんだ——と理解した。


「仕事だからね」


 ある時、そう言われた時には少し……いや、かなりショックだった。


 それでも。それでも——好きになっている。


 なのに、彼はあの子のことばかり気にかける。大切にしている。愛している。


 彼の人生観を変えるほどの、輝きと生命力に満ちたあの子のことを。


 妬ましかった。


 羨ましかった。


 あの選択を突きつけたのは、〈リライト〉としての役割を果たしただけじゃない。


 ただ、私の嫉妬をぶつけただけ。


 どんなに彼が悲しみ、苦しむかなんて、想像するのはたやすかったはずなのに。悲しんでいる彼の心につけ入ることができれば、それでよかったはずなのに。


 だが、今、彼は私と敵対している。


 彼は私を許さないだろう。リューズみたいに殺されてもおかしくない。


 たとえ世界中を敵に回してでも、〈リライト〉を敵に回してでも、彼はあの子のために命を懸ける。だって——あの子が死んだら、彼の世界は終わってしまうから。


 ならばせめて、私が終わらせてあげよう。


 彼の愛するものすべてを奪って、自分は無力だと、非力だと、絶望の底に叩き落そう。そして最後に、私のモノにする。タイムマシンなど造らせないように、私が彼を支配する。


 そういう流れになっている。そういう運命になっている。


 そういう——結果に収束しなければいけないのだ。

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