遊技場の壁の四角い小窓が、青白く光っていた。

 さくらベースに着いた時にはもう夜八時を過ぎていた。そよは母屋に立ち寄らず、薄い雲が膜のようにかかった半月を見上げながら石畳の上を遊技場へと歩いた。

 遊技場の扉を横に引いて開けると、思っていたとおり、かのが姿見鏡に向かって独りで踊っていた。かのは緩く波打つ長い髪の毛を頭の後ろで一つに束ね、黒いTシャツと濃い赤紫色の膝下までのジャージで、ずっと下駄箱に置いたままにしてある黒いスニーカーを履いて踊っていた。

 遊技場の光景はあの時と同じだった。

 かのの後姿は野生の動物のように躍動的で、しなって跳ねる総髪の毛先や、Tシャツの上からでも分かる逞しい肩と背中、引き締まって固く盛り上がったふくらはぎの筋肉、それから、かのの姿を映す姿見鏡のくすんだ鏡面も、青白く滲むような蛍光灯の明るさも、ニスが塗り込まれた木目の床も、何もかもが、あの夜、そよが遊技場の扉を開けて独りで踊るかのを見た時と同じだった。

 そよは靴を脱ぎ、靴下のままで遊技場に上がった。薄いコットンの生地を通して、遊技場の床がひんやりと冷たかった。

 床に置かれたCDプレイヤーから、小さく音楽が流れている。プレイヤーの横には、かのがきちんと荷物をまとめて詰め込んだ大きなリュックサックと、リボンで飾られた赤い手提げの紙袋が置いてあった。

 紙袋は、ゆめがあげたチョコレートに違いなかった。

 かのは踊り続けていた。

 そよに気付かないのか、気付かないふりをしているのか、分からなかった。

 そよは手に持っていたかばんを床に置き、かのに歩み寄った。

「かの」

 そよは言った。

 かのは踊るのを止め、振り向いた。

 その顔は、ばれちゃったか、と苦笑いしているようだった。

「本当なの?」

 そよは、かのの大きな目を見据えながら言った。

 かのはうなずいた。

「いつ出発するの?」

「三月二十九日」

「どこに行くの?」

 かのは街の名を口にした。北米大陸の端にあるその都市の名は、そよにも聞き覚えがあった。

 そよは息をのんだ。

「遠いよね…?」

 馬鹿げたことを訊いていると自分でも思いながら、そよはたどたどしく言った。

「遠いね。飛行機で十時間くらいかかるんだって」

 かのはリュックサックの中からスポーツタオルを取り出し、顔と首筋をぬぐった。

 二人はしばらくお互いの顔を見つめ合っていたが、やがて、かのが言った。

「今度は、わたしがお父さんのわがままを聞いてあげる番なの」


 かのの父親が勤めているのは、登山服や寝袋、登山用の道具などを作る外国の企業だった。学生の頃から登山や岩登りを本格的にやっていた父親は、自分の好きなことを少しでも仕事に活かしたいと思ってその企業の日本支社に就職をし、入社して二十年で念願であった本社への赴任が実現した。

 父親は既に十二月から支社と本社を行き来していて、二月の終わりには先んじて単身で海を渡り、森と国立公園の山岳地帯に囲まれた自然が豊かな街にあるその企業の本社で、登山やクライミングの環境を実際に見ながら製品の開発に携わるのだという。

 そして、かのは出発までの間、祖父の家で生活するという事だった。

「こっちに残ってそのままおじいちゃんの家で暮らしてもいい、って言われたけれど」

 かのは、そよの目を見つめながら話を続けた。

「一緒に行くって、自分で決めたの。お母さんが居なくなってからもずっと、お父さんはいつもわたしに笑って接してくれたし、ダンススクールにも通わせてもらった、さくら寮に行くことも嫌な顔をせずに受け入れてくれた、わたしがやりたいことはなんでもやらせてくれた。今度はわたしがその恩返しをしなきゃいけない。お父さんを独りにすることはできないの。それにね」

 かのの顔が、ぱっと明るく輝いた。

「わたしにとっても、本気でダンスに取り組めるチャンスなんだ」

 胃がふわりと浮いて締め付けられるような感覚を、そよは覚えた。

 かのはゆるぎない目をしていた。幼い頃から、そういう目をした時の彼女は何があっても自分の考えを変えることはないという事を、そよはよく知っていた。

「もう決めたんだね」

 そよは、半ばあきらめたような声で言った。

「みんなにはまだ話してない?」

 かのはうなずいた。

「そして、波子さんにはもう話したのね」

 かのは、もう一度うなずいた。

 そよはふと不思議に思い、尋ねた。

「外国へ行くこと、いつ決まったの?」

「話を聞いたのは夏休みの終わり近くかな。色々な準備を始めたのは十一月に入ってからだけど」

 かのは淀みなく答えた。

「夏?それじゃあ…」

 二人で初めて少女たちのダンスの映像を観た時には、もう、かのの心は決まっていたのか、と、そよは思った。

 そよはこの数ヶ月の間に見たかのの姿を思い出していた。

 時間はいくらでもある、と言ったかの。わたしはずるい、と言って自分を責めるような表情をしたかの。瞳に力を漲らせ、前髪を汗で濡らしながら、嬉しそうにダンスを教えてくれたかの。思っていることを上手く伝えられずに、苦しそうだったかの。舞台に上がる直前、十一人をひとりひとり抱きしめてくれたかの。

「みんなにはわたしからちゃんと話すから、心配しないで。ももえとつぐには、そよから話してもらえる?」

 少し呆然としていたそよに、かのが言った。

「わたしは…」

 そよは助けを求めるような視線をかのに向けた。

「わたしは何をしたらいいのかな。残りの時間で、わたしにできることはある?」

 かのは少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んで言った。

「いつもどおりのそよでいてくれれば、それでいいよ」

 かのは、そよの右肩に左手をかけ、掌に力を込めた。

 何と言っていいか分からずに、そよは、べそをかくような顔で笑った。


   §


 それから一週間後の日曜日に、かのはさくらベースのみんなに留学のことを伝えた。

 ここな、さな、みく、ねお、さきあ、みき、みこ、そしてゆめの八人は、遊技場で日曜日のダンスの練習が終わった後に、かのの話を聞いた。八人は膝を抱えた格好で座り、かのの話を真剣に聞いていた。

 話を聞くみんなの様子はそれぞれだった。真剣な顔のまま深く何かを考えている子もいたし、慮るような眼差しでかのを見る子もいた。うっすらと目に涙をためている子もいた。

 かのはつとめて明るく話をした。

 会えなくなるのではなく新しい出会いがはじまるのだということを、何かを失くすのではなく違う何かを手に入れるのだということを、そして、短いけれどみんなで一緒に居られる時間をちゃんと楽しもうということを、時々言葉に詰まりながらも、真っ直ぐに伝えようとしていた。

「二学期の途中から土曜日に英会話の教室に通って、少しずつ英語もできるようになってきた。向こうで正式に高校に入学できるのは九月だけど、四月から学校で勉強することはできるみたいだし、生活に慣れる時間もある。何よりも、その街には古くて立派なダンススクールがあって、そこでダンスを教わるのが、今からすごく楽しみなの。出発までの間ここにはできるだけ来るようにする。約束するから、みんなでたくさん遊ぼう」

 かのは外国での生活を本当に楽しみにしている様子だった。

 熱っぽく話すその言葉に嘘がないのは明らかだったし、その姿を見ていると、子どもたちも、とにかく彼女のことを応援してあげるしかないと、思い切った気持ちになるようだった。

 ただ、多少無理やりにでも明るく振舞おうとみんなが気持ちを固める中で、ゆめの様子だけが他の子と違っていた。ゆめは、かのが話を始める前からなんとなく勘づいたような顔をして話の途中でそっぽを向いてしまったし、話が終わると一人だけ立ち上がり遊技場を出て行ってしまった。

 いつものようにかのが独りで遊技場に残り、みんなが母屋へ戻る時間になっても、ゆめは姿を現さなかった。


 三月の前半は不思議な感覚の中で過ぎて行った。

 かのは三月に入ってからさくらベースに足を運ぶ日をできるだけ多く作るようにしていた。父親と暮らしていたマンションの部屋を引きはらい、祖父の家から電車とバスを使って来なければならなかったので、もちろん毎日は無理だったし、ベースに居る時間も短かったが、遊技場でみんなに約束をしたように、自分にできる限りのことをしようとしているようだった。

 かのが訪れるとみんなは勉強部屋から出て遊技場に行き、以前と同じように遊んだり、ダンスを踊ったりした。一日ごとにかのが旅立つ日は近づいてきたが、みんなはことさらにそれを意識しないようにと自分に言い聞かせ、一方で確かに少なくなっていく時間を一分でも無駄にしたくないという想いを滲ませながら、全力で笑い、全身に汗をかき、遊んだり踊ったりしていた。

 それは静穏なようでいて性急であるような、不思議な時間の感覚だった。


 ベースの子どもたちは、かのが出発する三月二十九日に、お別れの会を開くことに決めた。出発の直前は忙しい日が続くので、出発当日のお昼前にかのが荷物を持ってベースにやって来てお別れ会に参加し、終わったらそのまま空港へ向かうということになったのであった。最初に提案したのはみくで、さなとここながすぐに賛成し、みんなでかのに日程の相談をした。日時が決まると、みきがつぐに伝え、つぐからももえとそよにも伝えられた。

 ゆめは、かのの留学を知って以来、かのにぶっきらぼうな、冷たいとも言えるような態度で接していた。かのは特に気にする様子もなく、ゆめをからかったりふざけたりしていたが、ゆめは他の子に対するのとは明らかに異なる、よそよそしくぞんざいな受け答えをしていた。かのと一緒に居る時にはそんな風だったが、ゆめは、ベースの子どもたちだけでお別れ会のことを話し合う時はいちばん積極的に発言をしたし、精力的に動いた。

「せっかくのお別れ会だから、みんなで心を込めて飾り付けを作りたい。あと、みくちゃんとねおちゃんは、お菓子や飲み物の相談をお母さんとしてほしいの。かのちゃんが好きなものを揃えたい」

 ゆめはまるで自分が会の主催者であるように色々な案を出し、他の子どもたちに頼み事をしたりもした。それでいてかのがさくらベースに来ると、またぶっきらぼうなよそよそしい態度を取るのだった。

 そんなゆめのことを、子どもたちは少し心配そうに見守っていた。


 多くの受験生たちにとっては、二月の下旬からがいよいよ本番の季節であった。

 二月の終わり近くに公立高校の推薦入試の結果が伝えられ、ももえは希望していた高校に合格した。ももえは、つぐやそよには心配いらないと言っていたが、やはり結果が出るまではそわそわしていたようだったし、合格を知って心からほっとした顔を見せていた。

 つぐは、自分で決断をして希望を変更した県立高校に願書を提出した。私立高校の併願をしないつぐにとって、一回勝負となる受験は大きな重圧になっているだろうと思われたが、本人はいたって落ち着いているという様子であった。

「大丈夫?無理に平気なふりをしているんじゃない?」

 ももえは、つぐの気持ちを探るような口調で言った。

「自分でも不思議だけど、平気なんだよ。勉強に集中しているとあまり余計なことを考えなくて済むのかも知れない。受験まで一週間と少しだし、わたしは頑張るよ」

 つぐはそう言って笑った。


 三月に入って間もなくK市の公立高校の入学試験がおこなわれ、試験が終わった次の日曜日に、ももえとつぐ、かのの三人はそよの家を訪れた。そよの母親が手製の焼き菓子をかのに食べさせたいと言い、それならば、とそよが二人にも声をかけた。つぐの入学試験が終わった労いもできると、そよは考えたのだった。

 かのは午前十時過ぎにそよの家に着いて、その三十分ほど後につぐとももえがやって来た。三月に入ると暖かい日と寒い日が交互にやって来ていたが、その日は気温も上がらず細かい霧のような雨が降る天気だった。

 四人はそよの部屋で古いちゃぶ台を囲むように身を寄せ合って座った。全員が床に座ると狭くなってしまうので、そよはマットレスベッドに腰を掛け、身を屈めて三人に顔を近づけるようにしていた。そよの母親が作った生クリームを添えたポピーシードのパウンドケーキやジンジャークッキー、ドライフルーツなどが運ばれ、ほろ苦い柑橘の香りがする紅茶と一緒に、お菓子を食べながら色々なおしゃべりをした。

 つぐの合格を祈願し、かのが新しい生活を始める街について想像を膨らませ、夏休みやバザーの思い出を話した。話しているうちに、ダンスの相談を除けばこうして四人だけでおしゃべりするのはほとんど初めてのことだと気付き、みんなは何だか可笑しくなって、お互いの顔を見ながら笑った。

 ふと、ももえが少し不安そうな表情を浮かべて言った。

「最初で最後じゃないよね。かのちゃん、また四人でも会えるでしょ?」

 小さな部屋の空気が一瞬奇妙な緊張に包まれたような気がした。

「大丈夫」

 かのは顔いっぱいに笑い、胸の辺りで指切りをするように左手の小指を立てて「約束する」と、声に力を込めて言った。

 四人が一緒に過ごしたのはわずか二時間半ほどであったが、その短い時間は後々まで忘れられないものになったようであった。

 そよは、何か新しい記念日が一つできたみたいだ、と思っていた。


 かのは一時過ぎにそよの家を後にした。その日も、かのは午後からさくらベースに行くということだった。

「後でみんなも来る?」帰り際に、かのはみんなの顔を見まわしながら言った。

つぐとももえは首を横に振り、そよは「…うん、もしかしたら夕方過ぎに行くかも知れない」と、曖昧に答えた。

 かのは笑いながらうなずいた。

 かのは玄関でそよの母親にお礼を言って短く言葉を交わし、「じゃあ、またね!」と元気よく挨拶をして出て行った。

「つぐちゃん、ももちゃん」

 かのを見送ると、そよはつぐとももえに向かって言った。

「二人に相談があるんだけど…」

 そして、内緒話をするように、小さな声で話し始めた。


   §


「自分で決めてそれをやり切るのは簡単なことじゃないよ」

 職員室で、先生はつぐに言った。

「偉そうに聞こえたらすまないけれど、僕は誇りに思っている」

 眼鏡の奥で、先生の目が優しい光を湛えて笑っていた。

「おめでとう」


 その日は、一般入試の合格発表の日だった。生徒たちはそれぞれ受験した高校に出向いて合否を確認し、それから第五中学校に戻って結果を担任に報告することになっていた。つぐは一人で結果を見に行き、校舎の前に立てられたアルミ製の大きな掲示版に自分の受験番号が貼り出されているのを見つけた。

 試験を受けている時も、終わってからも、不思議と不安な気持ちが起こる事はなかった。つぐは自分の性格をよく分かっているつもりだった。普段から自分の行動にあまり自信を持つことができないのを直したいと思っていたが、ももえとそよに背中を押してもらって希望の高校を決めたことは間違っていないと信じていたし、試験のために集中して勉強することができ、そして無事に合格することができて、今までにないような達成感を感じてもいた。

 合否の報告をした時に、つぐは志望校を変えて心配をかけたことを先生に謝ったが、先生は謝るつぐを遮り「僕は誇りに思っている。おめでとう」と言った。それはつぐにとって嬉しい言葉であった。

 教室では、そよとももえがつぐを祝福してくれた。

 つぐは、照れながら二人にお礼を言った。


 その日もいつもと同じように、つぐとももえは二人で学校を出て、手を繋ぎながら通学路を家の方向へと歩いた。校舎の外は南から春らしい風が強く吹き、埃っぽい空気がアスファルトの道路の上に渦を巻くように舞っていた。

 三棟建ての大きな集合住宅の前まで二人で歩き、いつものようにももえがつぐの手を放そうとした時に、つぐが言った。

「ちょっとだけいいかな」

 つぐは真剣な顔をしていた。

 ももえはうなずき、二人は朝の待ち合わせ場所にしている集合住宅に隣接した小さな公園に入って、隣り合わせでベンチに腰を掛けた。肩が触れるほどに身体を寄せて、二人はベンチの中央に座っていたが、お互いに視線は前に向けたままだった。

 ももえはつぐが話し始めるのをじっと待っていた。

 ももえは少し心細そうな、何かを怖がるような表情をしていた。つぐと一緒にいる時にももえがそんな表情をするのは珍しかった。

「あのさ」

 つぐは、ためらいがちに口を開いた。

「うん」

 ももえは、自分の膝のあたりを見つめながら応えた。

「わたし、ももえにちょっと謝らなきゃいけないと思って」

「どうして?」

「ももえが受験した学校、わたし、一緒に受けようかなって、あまり深く考えずに言ったでしょ?それでその」

「なに?」

「期待させちゃったかな、と思って」

「別に、期待なんてしてないよ」

 いつもほんのりと紅いももえの頬が、少しだけ赤みを増した。

「つぐには初めから難しかったでしょ」

「そうだよね。余計な心配だった」つぐは苦笑いをして続けた、「でも、もうすぐ卒業式で、春休みが終わったら別々の高校。そしたら、ももえとこういう話もなかなかできなくなっちゃうかな、って」

 ももえは顔をゆがめた。掌にとげが刺さり、痛みをこらえているような顔だった。

「わたしね、志望校を変えることができたの、変えるって言うか、決めることができたの、本当にももえとそよのおかげだと思ってるの。ありがとう」

 その言葉を聞いて、ももえは視線を上げ、つぐの横顔を見た。

「まだそんなこと言ってるの?」

 ももえは、もどかしがるような声で言った。

「つぐが自分で決めてやり切ったんじゃない。自信を持ってよ」

「でもさ」つぐはそれでもまだ、曖昧にためらいがちな様子だった。

「やっぱり、わたしは駄目だよ」

 つぐは自嘲するように言った。

「かのはかっこいいよね。外国へ行って本格的にダンスをやるって。ももえもそよも初めから自分で進路を決めて、きっとこれからやりたい事も見つけて、それに向かってがんばって行くんだろうな。でもわたしは中途半端で、自分が何をしたいのかもはっきり分かってない」

 ももえはため息し、つぐの横顔を見る目つきが吃とした、厳しいものになった。

「自分で自分のことが見えないのは仕方がないけど、つぐは見えてなさすぎるよ。進路のことは、つぐが自分で決めてお母さんを説得したんでしょ?それに」

 ももえは、ちょっとむきになったように語気を強めた。

「最初は先生に言われたからだけど、わたしに声をかけてそよちゃんのところに通ったのは、つぐ。まりんちゃんに相談してさくらベースのことを聞き出したのも、つぐ。みきちゃんを連れてきて十二人を揃えたのも、つぐ。他のことだって…。つぐは自分が知らないうちに、ものごとを動かすきっかけみたいな役割をしているんだよ。つぐは中途半端なんかじゃない。きっと高校へ行っても自然なままで周りに人が集まってくる。やりたい事も見つかるし、たくさん友達もできるし、心配ないよ」

 そして、喉のどこかに引っかかっている言葉を無理やり押し出すように言った。

「わたしがいなくても」

 張りつめたような、ごく短い、だが永く感じられる沈黙があった。

「でもわたしは」

 やがて、つぐは独り言のように呟いた。

「ももえがいないといやだな」

 それは無造作な言い方だった。その言葉は意識もしないのにつぐの唇からこぼれ落ち、強い風に砕かれてあっという間に宙空に散っていくようであった。

 けれども、言葉はももえの耳に届き、とどまった。

 つぐは、左肩に触れているももえの身体が硬くなるのを感じた。一瞬の間をおいて、ももえはふっと細く息を吐き出し、身体から力が抜けたようにそっとつぐに寄りかかって、つぐの左肩に自分の小さな頭を乗せた。不思議なことに、ももえの身体は羽毛のように柔らかく、軽く、つぐはほとんど重さを感じなかった。

「よかった」

 つぐの耳に届かないほどの小さな声で、ももえは囁いた。


   §


 三月、第三週。

 月曜日に中学校の卒業式が、木曜日には小学校の卒業式がおこなわれた。朝方にはまだ寒さが残っても昼間は暖かくなる日が多くなり、合間に降る雨は十日前の冷たさとは違う優しい温度で道路や花壇、庭木や建物の屋根を濡らした。

 その週末には桜が開花した。

 さくらベースの遊技場の脇に立つ大きな桜の木の枝にも、まだ多くはほころび始めた蕾であったが、その中にぽつぽつと白やピンクの花が開いているのが見えた。

 そして、週が明けて火曜日が、小学校と中学校の終業式だった。

 一日ごとに開いてゆく桜の花に誘われるように、子どもたちにも春休みが訪れた。


 卒業式が終わってからかののお別れ会が開かれるまで、そよにとって目まぐるしい日々が続いた。そよはしばらく後になってからも、時々その時期のことを思い返すことがあった。進学や自分の将来のことで三月のうちに済ませたいと思っていた事が幾つかあったし、それとは別に、みんなに協力をしてもらいながら準備を進めなければならないこともあった。慣れない書類を書き込んだり調べものをしたり、お別れ会のことで、ももえやつぐに相談をしながら(かのを除く)さくらベースの子どもたちと連絡を取り合ったりして自分のやるべきことをやっていると、時間は驚くほど早く過ぎて行った。

 三月の半ば以降、かのは出発に向けて忙しくなっていて、ベースに足を運ぶことがなかなかできなかった。一方、みきとみこは相変わらず頻繁に顔を出していたし、そよ、つぐ、ももえも可能な時はさくらベースを訪れるようにしていた。お別れ会は段々と近づいて来ていて、みんなは飾り付けを作ったり、かのへの贈り物を作ったりして準備を進めていった。


 三月二十八日、お別れ会の前日の夕方。ソウヤさんがバンを運転してそよの家に向かい、玄関から何か大きな荷物を運び出して荷室に乗せた。そよの家にはつぐとももえが来ており、三人は一緒に車に乗り込んでベースに向かった。その日は遊技場に机や椅子を運んだり装飾を取り付けたり、お別れ会の会場を作ることになっており、ここなとさなは泊まりに来ていたし、みきとみこも午後からベースに来ていた。荷物は用具室の中に運び込まれ、十一人は夜まで遊技場にこもって準備を進めていた。

 翌二十九日の朝は寒く、空は重そうな黒い雲に覆われていた。

 桜は少し前に満開を迎えていて、さくらベースでは、遊技場脇の桜の木から落ちた花びらが敷地のあちらこちらでごく淡いピンク色の小さな水玉模様を描いていた。

「かのが飛行機に乗る頃にはすっかり晴れているはずだから、心配しなくても大丈夫よ」

 波子さんは台所で忙しそうに手を動かしながら、さきあの方を見て笑いかけた。ここなとさな、みく、ねお、さきあ、ゆめの六人で朝ごはんを食べている時に、さきあが、天気が悪いと飛行機が飛ばないのではないかと心配をしたからだった。

「桜が満開になる頃って、毎年、暖かい日に寒い日が混ざるのよね」と、ここなは不思議そうな顔をした。今日はお昼から晴れるけれど、風が強くなって桜の花がたくさん散ってしまうかも知れないと、みくが言うのを聞いて、子どもたちは少し寂しそうな表情を浮かべていた。

「でもそれってピンク色の雪みたいで綺麗だよね。わたしは好き!」

 さなが胸を躍らすように白い頬を紅潮させながら言った。


 九時頃にそよ、つぐ、ももえがやって来て、それから、みきとみこもベースに到着した。

 十一人が揃うと、みんなは遊技場の飾り付けの続きを始めた。飾り付けは前日のうちに大方が終わっていて、あとは細かい装飾を施すだけだった。

 遊技場の中央から少し奥の壁に寄せるようにして、子どもたちのための席が作られていた。納戸から運び出された長机と、(高さは合わなかったが)キャンプ用の簡易テーブルが連ねて置かれ、椅子は食事場から子どもたちが運び、足りない分はこれも納戸から引っ張り出されたスツールで補われた。長机とテーブルには、何枚かの綺麗な色合いのテーブルクロスが隙間を作らないように敷かれていたし、壁際のテレビとテレビ台にも暖かい色味のラグがかけられ、遊技場の中はいつもと違う特別な雰囲気に包まれていた。

 姿見鏡の横の壁には、何色もの色紙(いろがみ)で作られた「かのちゃん いってらっしゃい」という文字と、その下に、切り抜かれた写真とメッセージや絵で埋め尽くされた、縦六十センチ横百二十センチほどの長方形の桜色の紙が貼られていた。この大きな長方形の紙には縦横の折り目と裏側にゴム紐が付いており、三十センチ四方の正方形に折り畳めてそのまま手渡せるようになっていて、ここなとさながアイデアを出し、みんなで写真を集めて貼ったり言葉を書いたりして完成させたものだった。

 みんなは壁の空いている場所に、めいめいが折り紙で作った花や星、動物などを貼り付けていき、更に、ゆめが花壇や庭木から摘んできた花を花瓶や一輪挿しに挿して飾った。ゼラニウムやムスカリ、ハナモモ、ミモザ、カタクリ、ハナニラなどに遊技場が彩られると、同じように花瓶を置いたりみんなで宝物を持ち寄ったりした秋のダンスの練習が思い出された。

 花を飾ると、遊技場の飾り付けはそれで完成だった。


 かのは、十一時少し前にさくらベースに着いた。

 かのは長く伸びた髪の毛を顔の横でゆるく束ね、きなり色の薄手のニットにゆったりとした黒いズボン、うっすらとチェック柄が入ったベージュのトレンチコートを羽織り、よく磨かれた茶色い革のブーツを履いていた。リュックサックを背負い、引手と車輪の付いた黄色い大きなスーツケースを引きながら現れた姿は、旅に慣れている様子ではなかったが、いつもよりもどこか大人っぽく見えた。

 かのは遊技場の入り口にスーツケースを置き、来客用のスリッパに履き替えて遊技場に入ると、飾り付けられている壁を見て、わあと声を上げた。

「これ、みんなで作ったの?すごいね!」

 子どもたちは長方形の色紙に貼られた写真や言葉を指さしながら口々にかのに説明をし、かのはそれを聞いていちいち感心したような声を出した。それから〝主賓〟であるかのには、壁の飾り付けが一番よく見える席があてがわれ、子どもたちは手分けをして食事の準備を始めた。

 紅ショウガや錦糸卵で飾り付けがされ、四角い重箱に綺麗に並んだいなり寿司。一口大に切られてカラフルなピックが通され、白い大きな丸皿に乗せられた、ハムやチーズ、卵、野菜、ツナなど様々な種類のサンドイッチ。菜の花とベーコンのポテトサラダが入った、透明に花柄のガラスのボウル。岩のように重い橙色のホーロー鍋で調理され、そのまま運ばれてきたロールキャベツのトマト煮。赤と白のギンガムチェックのクッキングペーパーの上に、フライドチキンやソーセージが盛られた籐のバスケット…。それらは、ほとんどが波子さんの手作りであった。前日の夜からベースの子どもたちも手伝って準備をしていたが、波子さんは当日も明け方の四時過ぎに起きて、料理の仕上げをしていた。

 かのは、母屋から次々と食べ物が運ばれ、手際よく長机の上に並べられていくのを、大きな目をまん丸くしながら、嬉しそうに見ていた。

 

 長机とキャンプ用のテーブルには壁側に六人、向かいに六人が座り、かのは壁の向かいの真ん中の席に座った。いつも当然のようにかのの隣の席に座るゆめは、この日はそよを挟んで遊技場の入り口に近い端の席についていた。

 食事の時間は賑やかに進んだ。料理はどれも美味しかったし、十二人が揃って長い時間おしゃべりをするのは久しぶりのことだった。次から次へと、とりとめのない話題が現れては消え、すぐにまた顔を出し、笑い声が途切れることはなかった。

 食事が終わりに近づくと、食後のお菓子の時間だった。

 みくとねおが母屋から手作りのアップルパイを運んできた。アップルパイにはその場でバニラのアイスクリームが添えられ、シナモンの粉とスペアミントの葉で仕上げられた。

 もう一つ、可愛らしい模様の小さなプラスチック製のコップに入れられて一人ずつに配られたのはチョコレートをかけたマシュマロで、これはゆめが作ったものだった。

 そよと作った時に覚えた作り方で、ゆめがチョコレートを溶かし、マシュマロに掛けて、トッピングをした。形は少し不格好で不揃いではあったが、ゆめが初めから終わりまで一人で作ったのだ、と、ねおが説明すると、かのはひときわ嬉しそうな顔を見せた。


   §


「いいかな?」という声がして、遊技場の扉が開いた。

 遊技場の出入り口には、ソウヤさんと波子さんが立っていた。

「うん、大丈夫!」と、ここなが応えた。

 みんなはもうほとんどお菓子も食べ終え、お茶を飲みながら相変わらずおしゃべりを続けていて、いつの間にか午後一時半を過ぎていた。ソウヤさんと波子さんが遊技場に入ってくるのを合図にしたように、座っていた子どもたちは立ち上がった。

「じゃあ、かのちゃん、こっちに来て!」

 みきが、壁側の中央にある自分が座っていた席を指さして、不思議そうな顔をしているかのをそこに移動させた。

 ソウヤさんと波子さんに続いて、遊技場の入り口に何人かの大人の姿が現れた。それは、いつもさくらベースに野菜を持って来てくれる人や、田植えを体験させてくれる農家の人、バザーの時に協力してくれた町内会の係の人、或いは商店街の雑貨店の店主、駅前のユニフォームショップの人たちなどだった。

大人たちはここなとさなに手招きされ、かのが座っている壁側に寄って立った。

 子どもたちは、それと向かい合うように入り口側の壁に背を向けて立っていた。そよとつぐ、ゆめは用具室に歩いて行き、そよとつぐが協力して大きな荷物を、ゆめは遊具が入っている箱を持って戻って来た。

 大きな荷物は前日にそよの家から運んで来たものであり、電子ピアノとスタンドであった。ピアノは遊技場の壁とL字を描くように置かれ、そよを除く十人は壁に沿って五人ずつ二列に、市松模様を描くように並んだ。

 ゆめが遊具の箱からおもちゃのマイクを取り出して一人ずつに手渡し、そよは長机のところからスツールを一つ持って来て、ピアノスタンドの前に置いて腰を掛けた。

「かのちゃんに、もう一つプレゼントがあります」と、さきあが言った。

 かのはびっくりしたような、戸惑ったような顔できょろきょろと周りに立っている大人たちの顔を見回していた。

「かのちゃんは、歌を歌いたかった。でもバザーではわたしたち、歌を歌えなかった。だから今日は、かのちゃんが一番好きだと言っていた歌を、わたしたちが歌います」

 みこが良く通る低い声で言った。

 そして、そよがピアノを奏で、十人は歌い始めた。


 みんなでダンスを踊るきっかけとなった十二人の少女たちの映像は、かのが持って来たアルバムに付属していたものだった。映像は練習の時にみんなで何度も繰り返し観たし、アルバムも練習の合間にずっとCDプレイヤーで再生されていて、みんなはそれを聴きながら遊んだりおしゃべりをしていた。

 アルバムに収められている、電子ピアノとアコースティックギターの柔らかい音が印象的な少しゆったりとした大人っぽい曲を、かのはいちばん好きだと言った。

「歌詞が好きなんだ」

 かのは、その曲を聴きながらよく言っていた。

「わたしたちくらいの年齢だと、すごく共感できる言葉だと思う。いちばん好きな部分はここ。わたしは、生まれ変わっても同じ道を選ぶ、って答えると思うけど…」

 アルバムの歌詞カードを開いて、印刷された言葉を指さしながら、かのがそんな話をしてくれたことを、そよは覚えていた。

 かのが出発してしまう前に、何か自分にできることはないか。

 留学の事を知ってからしばらくの間、そよは考えていた。

 ももえが「本当は歌いたかったんでしょ?」と、かのに向かって断じるように言い切った時のことが、そよの心に強く残っていた。そよは、みんなで歌を歌うのはどうか、と思った。歌はかのへのプレゼントになるではないか、と思った。

 それで、まずももえとつぐに相談をし、それからベースのみんなに相談をした。みんなからはすぐにやりたいという答えが返ってきたが、それを実現させるためには、そよが色々な事を決め、動かなければならなかった。そよは、今度は、かのに頼ることはできなかった。


 かのが居ない時に遊技場に行き、木目の床に置かれた黒いプレイヤーのそばに積み重ねてあるCDの中から、十二人の少女たちのアルバムを持ち帰った。そして、そよはそのCDを持って、通っているピアノ教室の先生を訪ねた。かのが好きだと言った曲をピアノの伴奏で歌うためには、楽譜が必要だったからだ。

「いいよ。そよちゃんも手伝って、一緒にやろう」

 ピアノの先生はにこやかに笑いながら、そよに言った。

 作業はピアノ教室のレッスンが終わった後と先生の休みの時間を使っておこなわれ、先生が丁寧にそよに教えながら、四分弱ほどのその曲を何時間もかけて譜面に書き起こした。歌の一部には簡単なハーモニーも付けられた。

 先生のお手本の演奏に合わせて二人で歌った歌を、練習に使うために空のディスクに録音した。そして譜面とディスクを家に持ち帰り、そよは譜面を読みながら繰り返しピアノの練習をした。

 歌は、かのがさくらベースに来ない日しか練習できなかったし、そよが使っている電子ピアノを遊技場に持って行くこともできなかったから、その時にベースに居る子たちだけで、先生の演奏が録音されたCDを使って練習をするしかなかった。当然、練習は思うようには運ばなかったが、その曲を以前からみんなでずっと聴いて口ずさんでいたことと、別々の場所で作った部品を組み立てるようなダンスの練習を経験していたことが、子どもたちを助けた。ほとんどの子が、片付けてあったダンス練習のノートを引っ張り出してきて、歌の練習に使っていた。

 春休みに入り、かのが出発に向けて忙しくなった頃に、やっと十一人全員で集まる時間をわずかに作ることができたが、結局、実際にそよがピアノを弾いて歌を合わせることができたのは、遊技場にピアノが運ばれてきた、お別れ会前日の短い時間だけであった。

 ピアノの演奏に合わせてみんなで声を揃えて歌を歌うのは難しかった。ダンスよりも難しいかも知れないと、そよは思った。けれども、プレゼントは自分がピアノを弾き、みんなで歌うのでなければいけないと、そよは思っていた。

 練習が足りないのは明らかで、綺麗な和声を響かせることはできなかったし、そよも何回かピアノを間違えたりしたが、みんなは恥ずかしがることなく大きな声で歌った。かのは今までに見たことがないくらい嬉しそうな顔をしていた。歌を聴いている間、握りしめた両手を揺すってリズムを取り、唇は歌詞を追って小刻みに動いていた。そよの奏でるピアノの最後の一音が遊技場の天井に吸い込まれて消えると、かのは大きな音を立てて手を叩いた。ほんの少しだけ遅れて大人たちも拍手をし、十一人は恥ずかしそうにお辞儀をした。かのは立ち上がり、十一人の顔を順繰りに見つめながら、ありがとう、と何度も何度も言っていた。

 

 歌の贈り物が終わると、お別れ会の時間はもう残り少なくなっていた。

 かのはまず波子さんとソウヤさん、それに遊技場に来てくれた近所の大人たち一人一人に丁寧にお礼を言った。そして荷物のリュックサックの口を開け、分厚い手紙の束を取り出して十一人に手渡していった。

 かのは一人一人の目を見て笑いながら言葉を交わし、手紙を手渡した。かのは、しんみりするのを嫌ったようだった。少し無理矢理のように明るい調子で、苦し紛れの冗談も交えながら、かのと子どもたちの別れの時間は過ぎて行った。自分で手紙を書いて来て、かのと交換するように渡す子も何人かいた。

 そよは、ゆめのことが気になっていた。

 ゆめはこの日一度もかのと直接言葉を交わしていなかった。ゆめは、一ヶ月以上ずっと続けてきた塞ぎ込んだ態度をこの日も変えることはなかったが、そのわりに食事のメニューのアイデアは出したし、会場の飾り付けも率先しておこない、デザートのマシュマロチョコレートは自分で作っていた。それぞれがおしゃれをして来ていた他の子たちと比べても、ゆめはいちばんきっちりとした恰好をしていて、その姿からも、お別れ会への思いは人一倍強いように見えた。

 ゆめはその日、白いワイシャツにV字のラインが入ったクリーム色のニットのベスト、首元にはリボンを結び、スカートは紺、灰色、えんじ色のチェックで、紺色のふくらはぎ丈のソックスを履いていた。その上に濃紺のブレザーを羽織った服装で、ゆめは小学校の卒業式に出席していて、それはいわば彼女なりの正装であったが、この日は足元が上履きのスニーカーだったから、どことなく微笑ましい感じだったし、髪型は頭の高い位置に二つのふわりとした短いおさげを作り、女の子らしさと幼さが強調され、人形のように可愛らしく見えた。

 そよは少し離れた場所から、かのがゆめに手紙を渡すのを見ていた。

 かのはゆめの頭を撫で、優しく頬をつねり、何かを語りかけていた。ゆめは目を逸らしながら曖昧にうなずき、しまいにそっぽを向いてしまった。

 かのは、背中から覆いかぶさるように、ゆめを柔らかく抱きしめていた。


   §


 かのは午後三時にはさくらベースを出発しなければならなかった。

 大人たちは残された時間が少ないことを慮ったのか、口々に挨拶をしながら遊技場から出て行き、後には十二人の子どもたちが残った。みくとそよが写真とメッセージの色紙を壁から剝がし、綺麗に折り畳んでゴム紐を掛け、かのに手渡した。

 かのは思い出したように、持って行かなきゃいけないものがあるんだ、と言った。

 用具室や勉強部屋にかのの私物が置いたままになっていた。かのはばたばたと動き回ってそれらを集め、きちんと整えてリュックサックやスーツケースに仕舞った。

 そよは、プレイヤーのそばに積み重ねて置いてあったCDを手に取って、かのに差し出した。それらは全てかのが持って来たもので、その中には、もちろんあの十二人の少女たちのアルバムもあった。

 かのは笑いながら首を横に振った。

「それは置いて行く。ダンスの練習にも使えるし、ここでみんなで聴いて。知ってる?みんなすごく上手になってるんだよ、ダンス。そよやつぐやももえも、たまにはみんなと一緒に踊ってみなよ」

「わたしがまたダンスの練習を始めたら、きっとさくら寮に泊まりこんじゃうよ」

 そよは困り顔のような笑顔で言った。

「確かに!」

 かのはまた破顔して笑い、それから遊技場全体に響き渡る大きな声で言った。

「ねえ、まだ少しだけ時間があるから、最後にみんなで椅子取りゲームをしよう!」

 十一人はびっくりしてかのの方を見た。

 かのはもう長机を壁に寄せて、椅子を丸く並べる場所を作ろうとしていた。


 結局、最後はみんなの笑い声をうるさいほどに遊技場に響かせながら、かのはさくらベースを去って行った。出発の時間が来て遊技場から外へ出ると、朝に波子さんが言ったとおり重そうな黒い雲はすっかりいなくなり、水色の空に強い風が舞っていた。かのは、ソウヤさんのバンで空港まで送ってもらうことになっていた。さくらベースから空港までは車で一時間ほどだったが、みんなで付いて行くことはできないので、空港までの見送りはみくとさきあが代表して行くことになった。

 石造りの門を出たところにバンが駐車してあり、かのは二列目の座席に荷物を先に乗せると、石畳の上に立つ子どもたちと波子さんに向かって、千切れそうなくらいに激しく左手を振った。

 じゃあね。

 うん。じゃあね、また。

 短い言葉が交わされ、かのはバンの助手席に乗り込むと、窓を開けて言った。

「身体は離れていても、心はいつもみんなと一緒だから」

 口に出すうちに恥ずかしくなったのか、かのは照れ笑いをしながら窓を閉めた。

 バンは田んぼ沿いの道を走り去り、けむたい排気ガスが残像のように残った。


 遊技場に残った九人は、お別れ会の後片付けをしなければならなかった。

「かのちゃん、なんだか嵐のように行っちゃったね」と、ももえが言った。

 つぐは疲れたように笑ってうなずいた。

 いつもはてきぱきと動く子どもたちも、何となく重苦しい、気乗りがしないような顔でのろのろと後片付けをしていた。寂しいとか悲しいとかいうよりも、どこか空っぽであるような、気の抜けたような感覚がみんなの中に等しくあるようだった。寂しさや悲しさはこの後に襲ってくるのかも知れなかった。

 片付けが始まってしばらく経った時、そよは、遊技場の出入り口に佇んでいるゆめの姿に気が付いた。ゆめは何かに打たれたように、出入り口にある下駄箱をじっと見つめていた。

「どうしたの?」

 そよは声を掛けながらゆめに近付いた。

 ゆめは肩に力を入れ、腕を少し前に曲げて身じろぎもせずに下駄箱を見ていた。

 下駄箱にはたくさんの靴が並んでいた。ナイロンやキャンパスのスニーカー。スリッポン、バレエシューズ。タッセルの付いたローファー、少し底が厚い編み上げのショートブーツ…。

 そよは、ゆめの視線の先に一足のスニーカーがあるのに気付いた。

 それはそよにも見覚えのあるスニーカーだった。

 それは、かのが遊技場の中で上履きとして使っていた、黒いスニーカーだった。

「かのの靴」そよは言った。

 ゆめは力なくうなずいた。

 そよは下駄箱に近寄り、スニーカーを手に取った。

 合成皮革のつま先は色褪せ、靴紐がほつれかかり、外側を覆うナイロンは穴があきそうなほどに薄くなっている。靴底の丈夫そうなゴムは体重がかかる部分に沿って削れるように減っていて、薄い灰色の中敷きは足の親指の付け根のあたりが黒ずんで擦り切れていた。

 それは、かのの身体を支え続けた靴であった。

 かのはみんなで踊っている時も、そよと二人で練習をしている時も、疲れたという言葉を口にすることはほとんどなかった。かのは学校に行き、家の用事を済ませ、その後で遊技場に来た時も、いつも楽しそうに、嬉しそうに、ずっと踊っていたいという気持ちを身体から溢れさせながら踊っているように見えた。

 だが、かのの身体を支え続けた靴は、彼女がどれだけ自分に負荷をかけていたか、どれだけ無理をして踊り続けていたかを、かの自身が言葉にするよりもずっと雄弁に語っているようだった。

「忘れていったのかな」

 そよは、かののスニーカーを両手で包むように持って呟いた。

 ゆめは黙って首を横に振った。

 そうだ。と、そよは思った。

 忘れていったんじゃない。

 さっき、用具室や勉強部屋から自分の物を持って来た時に、かのならば下駄箱にスニーカーが置いてあるのに気付かないはずはなかった。

 置いていったのだ。と、そよは思った。

 突然、ゆめがそよの手からスニーカーを奪うようにして取り、上履きのまま遊技場の外に飛び出した。そよは驚き、慌てて靴を履き替えてゆめを追った。ゆめは遊技場を出てすぐの場所に立ち、左手にかののスニーカーをぶら下げながら、茫然と空を見上げていた。

「ゆめちゃん、大丈夫?」そよは心配そうに言った。

「どうしよう」

 ゆめは空を見上げたまま言った。

「どうしよう。かのちゃん、行っちゃった」

 ゆめは振り向き、途方に暮れたような目でそよを見た。

「わたし、かのちゃんにありがとうを言えなかった。そよちゃん、どうしよう。かのちゃん、行っちゃった」

 大きく見開かれた、夜の水たまりのように黒く光るゆめの目から、涙が溢れた。

 ゆめはそよから目を逸らし、うつむいて身体を小刻みに震わせた。その姿は哀しく心細くて、頼りなかった。その姿は、まるで母親を見失った幼い迷子のようだった。

 そよはかけるべき言葉が分からず、ただ、そっとゆめの背中をさすっていた。

 ゆめはしばらく声を潜めて泣いていたが、やがて何かを決心したように顔を上げた。

「靴」ふたたびそよの方を振り向いて、ゆめは言った。

「ゆめが履く。大きくなるから」

 その声はかすかに揺れながら、決して弱くはなかった。そよの顔を見つめるゆめの瞳はまだ濡れていたが、頬は涙の跡を残して乾いていた。

 水色の空に強い風は舞い続け、桜の花びらが雪のように降り落ちていた。

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