大晦日の朝、太陽は灰色の緞帳(どんちょう)のような雲を裂いて現れ、尖った光を地上に届けた。雪は夜のうちに降りやんで、道路や線路を覆ったりすることはなかったが、溶け残った雪が庭の芝生や木の枝、石塀の上で無数の透明なビーズのようにきらきらと光っていた。

 ねおの熱は、朝にはすっかり下がっていた。

 そよも手伝って前日の夜のうちに荷物を作ってあったので、ねおはゆっくりと朝ごはんを食べてからソウヤさんが運転する軽トラックに乗り、駅へと向かった。

 予約していた新幹線の切符が無駄になることはなかった。


 冬休みが終わると、学校では卒業や進学という言葉がいっそう実感を伴って語られるようになっていた。三学期が始まったばかりの一月のある日、帰りの会が終わった後に、つぐが教卓の方に歩いて行き、意を決したような表情で先生に言った。

「先生。あの、ちょっと相談があるんですけど」

 先生は黒いファイルを手に持ったまま少しの間つぐの顔を見て、じゃあ職員室に行こうか、と言った。つぐは帰り支度をしていたももえに目配せをし、先生の後について教室を出て行った。

 ももえは「しょうがないな」と小さな声で呟き、そよはももえの様子を見て、鞄を肩に掛けたままそっと椅子に座った。

 十五分ほどで、つぐは教室に戻って来た。ももえに「ごめん」と謝ったつぐは、そよの姿に気付いて驚いたような顔をした。

「そよも待っていてくれたの?」

「そよちゃん、あなたのこと心配してくれたんでしょ。ありがとうは?」

 ももえは娘をしつける母親のような口調で言った。

「いいよいいよ。なんとなく」

そよは、半分困ったような顔で笑った。

 三人は学校から同じ方向に帰って行くのだが、普段、揃って下校することは少なかった。つぐとももえは毎日必ず二人で教室を出る。帰りの会が終わってすぐに席を立つこともあれば、席に残り少しおしゃべりをしてから帰ることもあった。そよは二学期の半ばまでは補習で残ることが多かったし、そうでない時も二人の邪魔をしないように、様子を確かめながら時間をずらして帰り支度をするのが常だった。ダンスの練習をしていた一時期、火曜日に三人で揃って学校を出てそれぞれの家で身支度をし、そよの家の近くのバス停で待ち合わせてさくらベースに行ったことが何度かあったが、それもバザーが本番を迎えるのと同時に終わってしまっていた。


 昇降口で靴を履き替えて外に出ると、つぐとももえは手を繋がずに並んで歩き、そのすぐ後ろからそよが二人を追った。

「あのさ」

 広い通りの横断歩道を渡り、住宅街の坂道をゆっくりと上りながら、つぐが口を開いた。

「わたし、志望校を変えようと思ってる」

 その言葉を聞いて、ももえは驚いたように立ち止まった。

 つぐとそよもその場で足を止め、坂の途中の電信柱の陰でももえとそよがつぐに向かい合うような格好になった。

「三者面談の時に希望した学校、やっぱり、わたしには少し難しくてさ」

 二人の視線を受けて、つぐは少し気後れしたような様子だった。

 二学期末のテストの後におこなわれた面談では生徒と親、先生が話し合ったうえで、その時点での志望校を決めなければいけなかった。ももえは転校してきた頃からずっと同じ高校への推薦入学を希望していた。K市から少し離れた場所にある、県内でも上位の進学校だった。そよは都内の私立高校を希望した。その学校名を聞いて先生は少し驚いたし、面談の少し後に三人で雑談をしていて進路の話題が出た時には、つぐとももえも意外だという顔をした。そよが私立高校を第一に希望するのは、学校を休んでいた期間が長かったことも関係しているのかも知れないと、つぐは思っていた。

 そして、つぐは、ももえの志望校ほどではないが、それでも合格するのが簡単ではない県立高校を第一希望にしていた。

「元々、お母さんに勧められた学校なんだ。その時は、自分自身で入りたいって思う学校が見つからなくて、ちょっと難しいけど人気があるその学校を受けて滑り止めで私立を併願して…って、お母さんと先生の間で話が進んじゃうの、止められなくて」

 つぐはもじもじと両手の指を動かしながら話していた。

「でも、よく考えたら、本気で行きたいと思っていない学校を二つも受けるの、なんだか申し訳ないっていうか、勿体ないっていうかさ」

「申し訳ないとか勿体ないっていう言葉は違うと思うけど…」

 そう言いながら、ももえは上目づかいにつぐの顔を見た。

「そうか。そうだね」と、つぐは言った。

「とにかく、そんな気持ちでいろいろ調べてみても、やっぱり、ここに入りたいと思えなくて、冬休みの間もずっと考えてた」

「つぐちゃんは、他に行きたい学校があるの?」そよが尋ねた。

「ももえやそよみたいには、ちゃんと考えていないかも知れないけれど、十二月に見学に行ってみて、いいなと思う学校は、あった」

 つぐが口にしたのは、駅から歩いて二十分ほどの場所にある高校の名だった。市の北側を流れる川に面した、のどかな風景の中に建つその学校は、つぐが初めに希望した高校よりも成績は劣るが、地域に根差した様々な活動と自由な校風で知られていた。

「わたしの今の成績だったらよほど変な失敗をしなければ合格できると思うし、家から自転車で通えるし、そこだったら、なんとなく…うまくやって行けそうな気がする」


 一生懸命に話すつぐを、そよは少し心配そうに、ももえは何か言いたげな顔で見ていた。

「あとね」つぐは、声に少し力を込めて続けた。

「私立の併願はしない」

 ももえとそよは、同時に、えっ、という声を上げた。

「でも、それは…大丈夫?」気遣うような目でつぐを見ながら、そよが言った。

「大丈夫かどうかは結果が出るまで分からないけど、わたしは大丈夫なつもりでやるよ」

 それまでとは違う、はっきりとした言い方で、つぐは答えた。

「それに正直に言うと、わたし、滑り止めっていうのがどうしても嫌でさ。最初から滑るかも知れないって思いながら勉強するのが」

 つぐは美しく整った白い歯を見せて笑い、答えを求めるようにももえの顔を見た。

「つぐが自分で決めたんなら」と、ももえは言った。

「わたしは応援するよ。先生は何て言ったの」

「ももえと同じことを言われた。応援するって。ただし、お母さんにはわたしから説明してちゃんと納得してもらいなさい、って」

 ももえはつぐの目を見つめて、うなずいた。

「わたし、がんばるよ。わたしが決めたことだから、がんばって勉強する。万が一の時は二次募集もあるし、なんとかなるよ」

 つぐはそう言って歩き始めた。

 ももえはつぐの左隣に進み出て、そよは二人の後を追った。

「ありがとう。ももえとそよに聞いてもらえてよかった」

 歩きながら前を向いたまま、つぐは言った。ももえは少し寂しそうな、それでいて安心したような不思議な表情でつぐの横顔を見ていた。


 一月の半ばを過ぎる頃まで、その時期にしては暖かい日が続いた。

 年が明けてしばらくは、さくらベースはひっそりとしていたが、冬休みが終わるとともに、家に帰っていた子どもたちが賑やかさを連れて戻ってきた。

 みきとみこは、新しく手に入れた遊び場に飽きることなく通うように、さくらベースに足を運び続けていた。

 みきは主に火曜日と水曜日、それと週末にベースにやって来た。みきはさくらベースに来ると、勉強部屋で宿題をした後、学校で休み時間に興じている流行りの遊び(しりとりやなぞなぞを変化させたものであったり、文房具などを使ってできる簡単な遊びだった)をみんなに教えてくれたり、カードゲームやパズル、盤上ゲームなどを家から持って来てくれたりしたので、みんなでああでもないこうでもないと言いながらそれらを楽しむ時間が新しい日課のようになっていった。

 みこは木曜日と土曜日、日曜日に訪れることが多かった。遊技場で遊びながらダンスを踊るというのは、かのがさくらベースに来るようになってから始まったものだった。それ以前も、身体をほぐしたりする目的で学校で教わるような簡単な踊りを踊ったりすることはあったけれど、かののように自分で考えた振り付けを教えてくれる人はベースにはいなかった。秋のバザーの為に十二人で本格的な練習を始めて以来、その機会はほとんどなくなってしまっていたのだが、一月になると、みこが遊技場でダンスを教えるようになった。

 みこは、かのとは火曜日にダンススクールで顔を合わせていた。毎週ごと、レッスンが終わった後にかのが課題のような形で曲を選び、みこに簡単なダンスを教える。かのから教わったことに自分なりの工夫を加えて、みこはそれを遊技場でみんなに教えた。みこはバザーの練習の時にもかのの手伝いをした経験があったし、子どもたちは教わることに慣れていたので、練習はすぐにさまになっていった。さなやここなもみこに協力して、みんなでダンスを覚えるための道筋を考えるようになり、遊技場には夏までの日常が形を変えて戻って来たようであった。


 子どもたちは、以前にも増して踊ることを楽しんだ。

 踊ることができてただ喜んでいる、と言ってもよかった。

 それはもちろん、十二人で舞台に上がって踊った経験が大きかったのだろうし、冬休みに入る前にさきあとつぐから洋館での出来事を伝えられたから、ということもあった。話を聞いた時、その場にいた子たちは心から嬉しそうな顔を見せ、その後かのやももえ、そよにもその話は伝えられた。

 二人が持ち帰った手編みの手袋やマフラー、何よりも老婦人の「あなたたちの踊りは素敵だった」という言葉が、彼女たちの心に小さな、けれども確かな変化を起こしたのは疑いようがなかった。遊技場でのダンスは今やさくらベースの生活の中で彼女たちの一つの拠り所となっていた。

 かのは以前のようにさくらベースに足しげく通うことはなかったが、直接教えることができない分、練習をみこに託し、毎週日曜日の夕方にだけやって来て踊りの出来映えを確かめ、それから短い時間、みんなと一緒に踊った。そして、みんなが夜ごはんを食べに母屋に戻った後も、独りで遅くまで遊技場にいることが多かった。

 一月は、そうやってゆっくりと流れて行った。

 深い冬の中ですっかり色が抜け落ちてしまったような田んぼに囲まれて、母屋や遊技場はどこか物憂げに佇んでいたが、日常の風景には少しずつ新しい色が塗り重ねられ、馴染んでいくようだった。


   §


 二月。受験生たちの生活がそれぞれに大きく動く季節であった。

 ももえは、推薦入試を受けるために、二月に入ってすぐ志望校に願書と調査書を提出した。試験は二月の中頃におこなわれて下旬には結果が分かるという。ももえは転校してくる前の学校でも常に学年で上位の成績だったし、三年間を通して遅刻や欠席もなく、内申点には問題がなかった。先生はももえを信頼している様子で、普通にやれば大丈夫だろう、と、落ち着いた口調でももえに言った。試験は面接と小論文でおこなわれるらしく、つぐは心配をしたが、「面接は得意だよ。わたし、緊張しないから」と、ももえはつぐを安心させるように笑った。

 つぐは母親を説得して、希望している高校だけを受験することになった。一般入試は二月下旬までに願書を提出し、三月の初めが試験でその五日後が合格発表だった。つぐの母親はつぐから話を聞いて初めは驚き、心配をした様子だった。ただ、普段はあまり自分の意見を強く言わないつぐがそういう決断をしたことを嬉しくも思ったようで、大丈夫かと念を押しはしたが、つぐの考えを否定したり反対することはなかった。つぐはももえやそよ、母親のためにも、すんなりと合格ができるように頑張ろうとあらためて思っていた。

 一方、そよが志望する都内の私立高校の受験は、ももえの推薦入試が始まる前日におこなわれ、二日後にはすぐに結果が発表された。元々そよの学力であればその高校に合格するのは難しくないはずであったが、そよは十二月と一月も毎日のように勉強を続けてきたし、塾の講師にも助言をもらいながら試験への準備を怠らなかった。

 そよは自信を持って試験を受け、そして合格発表の掲示板に自分の受験番号を見つけた。

 三人の中で、そよの進路がいちばん先に決まったのだった。


 そよとももえが入試に臨んだ週の日曜日、つぐがそよの家を訪ねた。

 つぐはその日の午前中にももえと会い、駅前の雑居ビルの半地下にある喫茶店で、ももえの推薦入試が無事に終わったことをねぎらっていた。朝から弱い雨が降っていたが、湿った風がゆるく吹いてくると、ちょうど季節が冬から春へと移っていく時期であることを感じさせた。

「どうだった?」

 つぐが尋ねると、ももえは「うん」とうなずき、ほっとしたような笑顔を見せた。

 それから、つぐは自分が志望校を変える決断をした時のお礼をももえに言った。

「ももえとそよに聞いてもらえて、ちゃんと気持ちが固まったって言うかさ。おかげでお母さんも説得できた」

 つぐは温かい紅茶にミルクを入れてスプーンでかき混ぜながら、ももえの顔を見た。

「またそんな風に…」ももえは口の中で小さく呟き、少し目をそらしてから気を取り直すように、「そよちゃんにもちゃんとお礼をしたの?」と言った。

 つぐは気まずそうに首を横に振った。

「バタバタしていて、合格のお祝いもしっかりできてないんじゃない?」

 ももえは、何かを促すような視線をつぐに送った。

 それで、つぐはももえと別れた後にそのままそよの家に向かうことにしたのだった。


 つぐがそよの家に足を運ぶのは、七月以来のことであった。ももえと二人でノートやプリントを持ってそよの家に通っていたのがもうずいぶん前のことのように、つぐには感じられた。

 そよの家に着き、アルミの門に付いている呼び鈴を押すと、インターホンからそよの母親の声が聞こえた。つぐは名乗ってから、そよを訪ねて来たことを告げた。

「あら、つぐちゃん。久しぶりね!」

 すぐに玄関のドアが開いて、そよの母親が現れた。夏よりも幾分髪の毛が長くなり、淡いグレーの柔らかそうな、毛先がふわふわしたセーターを着て、ゆったりめのジーンズを穿いていた。

「ごめんね。そよ、さくら寮に行っているのよ」と、母親は申し訳なさそうに言った。

「あっ、そうなんですか。でも、なんとなくそうかも知れないと思ってました」

 つぐが苦笑いをしながら言うと、そよの母親も同じように笑った。

 家に上がっていくかと尋ねられたが、つぐは丁寧に断り、すると母親は「じゃあ、ちょっと待ってて」と言って家の中に戻り、茶色い小さな手提げの紙袋を持って来てつぐに差し出してくれた。

「上手くできたかどうか分からないけれど、チョコレートを作ったから、ももえちゃんにも持って行ってあげて」

 つぐが、ありがとうございます、と言って紙袋を受け取ると、中には巾着袋のような形で口を赤いリボンで縛られたパラフィン紙の包みが二つ入っていた。

「あの、わたし、そよに合格のお祝いと、お礼を言いたくて来たんです。明日、学校で直接言いますけど、帰って来たら伝えておいてください」

「お礼って、そよが何かしたの?」

「何かというわけじゃないんですけど…。進路の相談をさせてもらったから」

 つぐが恥ずかしそうに言うのを見て、そよの母親は何かを思い出したというような顔をした。

「そう言えば、そよもつぐちゃんにずっとお礼を言いたがっていたこと、知っている?」

「えっ?」

 つぐは思いがけない言葉を聞いたという風な顔をした。

「学校を休んでいるそよに、つぐちゃんとももえちゃんが初めて会いに来てくれた日ね、そよ、来てくれたのがつぐちゃんで良かったって言ったの」

 そよの母親は、優しく微笑みながらつぐの目を見つめた。

「二年生の合唱コンクールでピアノの演奏をした時に、つぐちゃんが褒めてくれたのがとても嬉しくて、それからずっとお礼を言いたい、仲良くなりたいと思っていたんだって」

 つぐはその時のことを思い出そうとしたが、ぼんやりとした光景が浮かぶばかりで、自分がどんな言葉をそよにかけたのか、はっきりとは覚えていなかった。

「ピアノが上手いことと、弾いている姿がとても綺麗だったと言われて、あの子、それが本当に嬉しかったみたいなの。前から家で学校のことを話す時、つぐちゃんの名前がよく出ていたんだけど、そんな理由があったのね。五月からずっと、お礼を言う機会は幾らでもあったはずなのに結局できていないのは、そよらしいけれど」

 そよの母親は困ったような笑顔でそう言った。

 自分ではおぼろげにしか記憶していないような出来事を、そよが思いがけず大切にしていてくれたことを知り、つぐはむずがゆいような、申し訳ないような気持だった。けれども、初めてそよの家を訪れた時に、母親から、そよがつぐの話をしていると聞いて不思議に感じたことが思い出され、その答えを知ることができたような気がして、少しすっきりとした気分でもあった。

「つぐちゃんは、入試これからなんだよね?体調に気を付けて、頑張ってね」

 そよの母親は、優しく撫でるようにつぐの肩を触った。


   §


 つぐがそよの家を訪ねていた頃、そよはさくらベースにいた。

 その日、そよがベースに向かったのは、ゆめとの約束があったからだった。

 一月、そよは集中して受験勉強をするのに多くの時間を割いていた為、さくらベースに足を運んだのはわずかに二度だけだったが、そのうちの一度、母親が作った焼き菓子をみんなに持って行った日に、ゆめから頼みごとをされた。

「そよちゃんも、お菓子作れるんだよね?」

 みんなに焼き菓子を配り終わったあと、ゆめがそよに近付いてきて訊いた。

「うーん。お母さんを手伝うことはあるけど、一人だと自信が無いなあ…」

 困ったような顔をしたそよを見て、ゆめは少しの間じっと何かを考え、それから言った。

「ゆめ、チョコレートを作りたいの。そよちゃんに作り方を教えてもらいたいな」

「チョコレート?」

「バレンタインデーに贈るチョコレートを作りたい。教えてくれる?」

 ゆめは甘えるような表情でそよの顔を見上げて言った。大人びたゆめのことだから、想いを寄せる男の子にでもあげるのだろうと、そよは思った。

「チョコレートだったらなんとかできるかも知れない。でも、わたしの入試が終わってからになっちゃうから、十四日には間に合わないけれど、それでもいい?」

 そよの言葉を聞いて、ゆめは嬉しそうにうなずいた。

「バレンタインデーの次の日曜日に作りたいの。大丈夫?」

「二月十六日だね。うん、その日だったら平気だよ」

「よかった。ありがとう」

 ゆめはほっとした様子だった。

 二人はチョコレートを一緒に作ることを約束して、指切りをした。


 それからおよそ一カ月後の、約束の日曜日。

 そよは、お昼ごはんが終わった頃にさくらベースに到着した。朝からの弱い雨はその頃にはもうほとんど上がっていて、降り残りの雫が庭のツバキの花を濡らし、少し紫がかった紅い色をいっそう鮮やかに見せているようだった。

 ゆめとそよは、まずスーパーマーケットに買いものに出かけた。

「オレンジの皮をチョコレートで包んだのと、マシュマロのチョコ掛け」

 バスの座席に座ると、ゆめは自分が書いたメモ紙を読み上げた。

「それを作りたいの?」そよは微笑みながらゆめの横顔を見た。

「うん。チョコレートは、あまり甘くないやつがいいの」

 旧街道が終わるあたりのバス停で下車し、少し歩いて進むと道沿いに小さなスーパーマーケットがあった。洗剤や石鹸、ティッシュペーパー、台所用品、或いは肉、魚、卵や牛乳など、さくらベースで日常的に必要になるものの多くは、このスーパーマーケットで手に入った。

 そよとゆめはまず青果売り場でオレンジを探した。二月は柑橘類がたくさん売り場に出ていて、みかんもまだ箱で買えたし、ビニール袋に詰められたオレンジやポンカン、はっさくなども並べられていた。そよは袋に入ったネーブルオレンジを選んでゆめに見せたが、オレンジは少し小ぶりで色も薄かった。

「いよかんでも大丈夫だよね?」

 小さく独りごちながら、そよは目の細かいネットに入ったいよかんを手に取った。いよかんは丸々と大きく、夕陽のように赤みの強い橙色で、厚い皮にはみずみずしい張りと艶があった。

 ゆめは、うん、とうなずき、二人はそれを買い物かごの中に入れた。

 それから二人はインスタントコーヒーの小瓶をかごに入れ、お菓子売り場でちょうど良い大きさのマシュマロを選んだ。お菓子売り場の端の方、膝下あたりの位置にある商品ケースの中には、砂糖菓子入りのおもちゃのマイクが並べられていた。ゆめは何かを懐かしむような表情で、商品棚を見ていた。

 十二人がダンスの時に使っていたマイクは、バザーが終わった後、練習用のノートやユニフォームショップで作ってもらったTシャツと一緒に、それぞれが自分の部屋や家に持ち帰っていたが、一月に入って簡単なダンスの練習が再開されてからは、誰が言うともなく遊技場に持ち寄られ、道具箱の中にしまわれて、いつかまた使う事があった時にはすぐに取り出せるようになっていた。

 スーパーマーケットで必要なものを買い揃えると、二人は旧街道を歩いて五分ほど戻り、日用雑貨店に立ち寄った。波子さんが、チョコレートを溶かすなら日用雑貨店で売っている外国の製菓用チョコレートがいいと、ゆめに教えてくれたからだった。

 店に入ると、ゆめはホットケーキの粉やジャムの瓶、四角い缶に入った紅茶などが並べられている棚に近付いて行った。そよも一緒になって、棚にひしめくたくさんの食材の中から製菓用チョコレートを探し出した。すり硝子のような半透明のビニール袋に見慣れない外国語で書かれた紙のラベルが貼ってあり、細かく砕けた流氷のようなチョコレートがたくさん入っていて、ずっしりと重かった。

「どっちが苦い方ですか?」と、ゆめが店主に尋ね、中のチョコレートがより黒っぽい方を選んで、二人はそれをレジカウンターに持って行った。買い物はそれで完了だった。


 さくらベースに戻った二人は台所に向かい、手を洗ってエプロンを身に付けた。

 オレンジピールの作り方は波子さんが詳しく紙に書いてくれていた。いよかんはオレンジよりも皮が厚いが、ゆでる時間を長くして柔らかく、苦みをしっかりと取れば大丈夫、と波子さんが言ったので、二人は安心をした。今さっき買い揃えた材料と砂糖、グラニュー糖、水、秤、温度計、まな板、フルーツナイフなどが台所に並べられ、ゆめのチョコレート作りが始まった。

 いよかんの皮を剥き、果実は薄皮も剥いて深皿に入れ、冷蔵庫にしまった。

「夜ごはんの後に食べる」と、ゆめは嬉しそうに言った。

 皮は表面の橙色の部分だけを使うので、白い綿のようなところをゆめが大まかにスプーンで削ぎ、更にそよがフルーツナイフを使って綺麗に削り取った。五ミリほどの幅で縦長に切ったいよかんの皮はステンレスの鍋にたっぷりのお湯で茹でて、それから氷水が入ったボウルに移して粗熱を取る。これを何度か繰り返すと皮の苦みが取れて柔らかくなるのだという。茹でこぼしを繰り返して柔らかくなった皮は、ホーローの鍋に砂糖と水を入れて弱火でとろりとするまで煮詰めたところに、水気を絞って入れる。

「蓋をしたら鍋をゆすりながら弱火でじっくりと煮ます。お箸で混ぜるのは、だめ」

 ゆめはまるで自分が料理の先生であるかのようにメモ紙を読み上げた。そよは、くすくすと笑いながら「はい、わかりました」と言った。

 煮詰まってきたら更に砂糖を加え、蓋をしないで水分を蒸発させるように煮るのだが、鍋をゆすって焦がさないように、しかも箸を使わずに煮るのは難しかった。我慢強く鍋をゆすり、砂糖が結晶のように乾いてきたら火を止め、グラニュー糖をまぶす。アルミ製のバットにクッキングペーパーを敷き、一つ一つがくっつかないように乗せてしっかりと冷ませば、あとはチョコレートをかけて完成だった。


 しばらく待つ時間があったので、ゆめはノートと筆入れを持って来て食事場のテーブルで宿題を始めた。そよはテーブルに頬杖をついてしばらくその様子を眺めていたが、ふと、珍しくいたずらっぽい口調で言った。

「ゆめちゃん、チョコレート、あげたい人がいるの?」

 ゆめはノートに鉛筆を走らせていた手を止めて顔を上げたが、応とも否とも取れるような表情でにこりと笑い、また宿題を続けた。

 ゆめにはいつも何かを演じているようなところがあると、そよは以前から思っていた。それは、たくさんの子どもたちが集まるさくらベースという場所で、ゆめが年少でありながらみんなを迎え入れる立場にいる事と無関係ではないように思えた。

 そよはまた、ゆめと波子さんの間に見え隠れする不思議な距離感のことも感じ取っていた。お互いが信頼し合い、仲の良い親子であるのは間違いないのだが、ゆめが波子さんに何かをねだったり甘えるようなそぶりを見せることはほとんどなかった。

 波子さんは子どもたちから慕われ、頼られていたし、ベースの日常生活の中では、もちろん、母親のような役割を果たす場面も多かった。ゆめは自分が波子さんを独り占めしないように気を配っているように見えた。それは誰に言われたからという訳ではなく、ゆめ自身が進んでそうしているのではないか。そよは、そんな風に感じていた。そして、ゆめが先ほどのような子どもとも大人ともつかない表情をする時、自分で自分を演じているように、そよには思われるのだった。

 

 宿題は四十分ほどで終わった。ぱたりと音を立ててノートを閉じたゆめは、向かいに座って雑誌を読んでいたそよに声をかけた。

「ねえ、そよちゃん。かのちゃんは、小さい頃、どんな子だったの?」

「かの?そうだなあ…」

 突然の質問だったので、そよは少し慌てた。

 そよは自分の唇を触りながら、「でも今と変わらないかな。明るくて元気で、いつも何かをやろうとしていて…」と言った。

 ゆめはにっこりと微笑んでうなずいたが、そよは、ありきたりな答えでゆめをがっかりさせてしまったかも知れないと思った。それで、記憶の中にある幼い頃のかののことを話し始めた。

 ずっと昔から踊るのが大好きで、それを嬉しそうにそよに話してくれたこと。自分ではそのつもりが無くても気が付くとみんなの中心に居て、その周りにはいつも笑いが絶えなかったこと。一人で始めた事がいつの間にか周りを巻き込んで大きくなっていったこと。型破りな行動の一方、几帳面で周りへ気遣いもできて、その落差に何度か驚かされたこと。冒険に行こうと、かのに誘われて遊びに出かけ、そよが怪我をしてしまったこと…。

 ゆめは興味深そうに相槌を打ちながら、そよの話を聞いていた。

「やっぱりかのちゃん、小さい頃から、かのちゃんのまんまなんだね。ああ見えて寮ではいつも自分のことを後回しで、みんなのことをしてくれるじゃない?だからバザーのダンスでは、かのちゃんがやりたいと思うことをやらせてあげたくて、みんなが本気でがんばったと思うの」

 ゆめはうっとりとしたような顔で言った。

「そのあと、かのちゃん、受験で忙しくなっちゃったけれど、春になったらまた来てくれるようになるでしょ?そうしたら、またみんなで遊べるよね」

 そよは、ゆめの言葉に、そうだよ、というようにうなずいた。

 そよとかのは、受験について話したことはほとんどなかった。一度だけ、餅つきの時にそよが進路について尋ねると、かのはただ笑って「順調!」とだけ答えた。

 かのがどんな高校を受験しようとしているのか、そよは知らなかった。

「チョコレートね」と、ゆめが言った。

「かのちゃんにあげるの」

 そよは目を丸くしてゆめの顔を見た。ゆめはふっくらとした頬をわずかに赤くして、はにかむように笑っていた。

「そういうことか」

 そよは眩しいような目でゆめを見て、微笑みながら呟いた。


 ゆめとかのとの関係は、ゆめと波子さんとのそれよりも更に不思議なものであるように思えた。二人は本当の姉妹のようでもあり、時には恋人同士、あるいは長年連れ添った夫婦のように見える時もあった。ゆめは小学六年生、かのは中学三年生だが、年が離れているのに二人の立場は対等で、息が合っていて、時に年下のゆめの意見が主導権を握り、それでいてゆめはかのに心酔し頼り切っているような、少なくとも、そよが今までに見たことのないような関係性であった。

 かのに会える時間が少なくなり、ゆめはさぞかし寂しい思いをしているに違いない。表向きは彼女の大人びた部分がそれを覆い隠していても、心の中では寂しさや不安が募っているのだろう、と、そよは思った。

「よし、それじゃあ、がんばって美味しく作らなきゃ。かのに喜んでもらおうね」

 そよは腕に力こぶを作るような仕草をしながら、ゆめに言った。

 それから二人は、いよかんのピールが乾くまでの時間を使って、マシュマロのチョコレート掛けを作ることにした。

「マシュマロに掛けるチョコレートにはコーヒーの味をつけるの」

 ゆめはメモ紙を読みながら言った。

 マシュマロには二股のフォークのようになった平たい木のスティックを刺しておき、日用雑貨店で買ってきた製菓用チョコレートをステンレスのボウルに入れ、インスタントコーヒーの粉をひとさじ加えて、お湯を張った鍋にそのボウルを浮かべ、かき混ぜながら溶かしていく。溶けたチョコレートの温度を水銀の温度計で確認するのは、大切な作業だった。

「五十度くらいまで温度が上がったら、一回冷ますんだよ」

 そよは、なるべくゆめが自分の手で作れるように、優しく作業の手順を教えた。

 溶けたチョコレートはいったん冷まし、再び湯せんにかけて三十度くらいの温度になったら、木のスティックを刺したマシュマロを浸す。

「飾りをつけようか」と、作り出す前にそよが提案し、クッキーとナッツをビニール袋に入れてめん棒で叩き砕いたものを皿に盛ってあったので、チョコレートに浸したマシュマロの先端にそれを散りばめれば、あとは冷蔵庫で冷やすだけだった。二人は、一袋のマシュマロ全てにチョコレートの衣をまとわせ、クッキーとナッツで飾り付けをした。

「たくさんできたから、かのにあげて残った分はみんなで食べられるね」

 そよの言葉を聞いてゆめは目尻を下げ、満足そうな顔をした。


 マシュマロのチョコレート掛けが出来上がった頃には、砂糖で煮詰めたいよかんの皮も冷えて乾いていたので、二人はステンレスのボウルを一度きれいにして、今度は製菓用チョコレートだけを溶かし、いよかんのピールチョコレートを作った。二種類の手作りチョコレートはクッキングペーパーを敷いたバットと大きなお皿に並べられ、ラップを掛けられて、どこか誇らしげに冷蔵庫の中段に陣取っていた。

 チョコレート作りが終わり、そよは夕方の四時少し前に家に帰ることにした。

「そよちゃん帰るの?もうすぐかのちゃん来るのに」と、ゆめは言ったが、そよは、ゆめとかのの邪魔をしたくないと思っていた。自分が一緒にいたら、きっとゆめは素直な気持ちをかのに伝えることができないだろうと、そよは思った。

「今日は寄る場所があるから帰るよ。かのに、ちゃんと気持ちを言葉にして伝えるんだよ」

「うん、わかった。そよちゃん、本当にありがとう」

 柔らかそうな頬を緩ませ、可愛らしい前歯を見せて、ゆめは笑った。

 そんな時のゆめは大人びた雰囲気が消え、年齢よりもずっと幼く見えるのだった。


   §


 そよはさくらベースを出てバスに乗ると、家の近くのバス停では降車せずに、駅に向かった。駅前の本屋で雑誌と文庫本とピアノの教本を買い、ファーストフード店で雑誌をめくりながらお茶を飲み、家に帰った時には六時近くになっていた。玄関で小さく「ただいま」と言い、靴を脱いで揃え、洗面所で手を洗ってリビングに入ると、台所で料理をしていたそよの母親が手を止めてそよのところにやってきた。

「そよ」

 母親は真剣な顔をしていた。

「あなた、知っていたの?」

「なんのこと?」

 そよは背負っていたリュックサックを降ろしながら、聞き返した。

 母親は、少し躊躇うような顔をしたが、すぐに心を決めたように言った。

「かのちゃんの留学のこと」

 そよは、母親の言葉がすぐには理解できなかった。

「え?」

 言葉の意味を噛み砕こうと懸命に考えたが、そよの口からは、その一言しか出てこなかった。

「かのちゃんのお父さんが仕事で外国に赴任することになったんだって。かのちゃんも中学校を卒業したら一緒に行くって」

 そよの母親は、午後に用事に出た先で、かのの母親が元気だった頃からの共通の友人にばったりと会い、今もかのの父親と親交があるその友人からその話を聞かされた。しかし、それ以上の詳しいことは、その友人も知ってはいないようだった。

「やっぱり聞いていなかったのね」

 母親は困ったような顔で言った。

「一度、ちゃんと話した方がいいよ。かのちゃんも言い出しづらいんだろうとは思うけれど。それからね…」

 母親は続けて、そよが出かけている間につぐが尋ねてきたことを伝えたが、そよには、途中から、母親の声がどこか遠くの方で響く現実的でないもののように聞こえていた。


 どうしよう。

 部屋に荷物を置き、お膳支度をして、夜ごはんを食べている間も、そよはずっと考えていた。胸がどきどきして掌に汗が滲み、食事は風邪をひいている時のように味気なく感じた。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 わたしは何をしたらいいのかな。

 ふいに、そよの瞼の裏に、さっき別れたばかりのゆめの顔が浮かんだ。

 かのは、子どもたちにもそのことを話していないに違いなかった。

 夜ごはんを食べ終え、母親を手伝って洗いものを片付けて部屋に戻ったそよは、勉強机の上に置いてある置時計を見た。七時半を少し過ぎたところだった。

 まだいるかも知れない、と、そよは思った。

 そよは小さな手提げかばんに財布とハンドタオルを入れ、コートを羽織って部屋を出た。

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