エピローグ
翌朝、僕はキメラ管理局情報部の図書保管庫の扉の前にいた。扉をノックするが応答はない。問答無用で扉を開ける。部屋の中は、論文の海になっていた。いつもの光景だ。その海の中で、レイラ先輩は眠りこけていた。窓から差し込んだ太陽の光に、ちょうど照らされている。僕はその眠り姫を、海の中から引き揚げた。
「ん……おはよう、エヴァン君」
まだ半開きの目を擦りながら、レイラ先輩は体に似合わず大きな欠伸をした。
「また夜更かしですか」
昨日は、あの後すぐにキメラ管理局の輸送部隊が到着した。レイラ先輩が手配していたのだ。手際よくスレイプニールを檻に入ると、四頭のドラゴンで吊り上げ、まだ空が赤みがかっているうちに飛んでいってしまった。まさに輸送のプロフェッショナルだった。
「レイラ先輩、昨日、スレイプニールはどうして博士を殺さなかったのでしょうか」
「まだ分からないのかね? 私の使役するキメラだというのに」
「レイラ先輩の推理だって間違っていたじゃないですか」
「それならまずは、私のように仮説を説明したまえ」
「…………」
僕は言葉に詰まってしまった。
「やはり分からないのではないかね?」
「いえ、仮説が無い訳ではないのですが……不完全な仮説しかないというのが正直なところです。あの時、スレイプニールは博士を許したのだろうというのは状況的に理解しました。それは間違っていませんよね?」
レイラ先輩は、再び欠伸をしながら頷いた。
「しかしなぜ許したのかというのが疑問なんです。スレイプニールは博士を憎んでいたはずですから。闘技場で執念深く生き残り続けたことからも、それは確かだと思います。しかし脱走してからここまで来る途中で心変わりするというのは無理があります。恐らく憎しみがあったのだろうとは思うのですが……」
僕の言葉を聞いているうちに、レイラ先輩は堪え切れなくなって笑い出した。
「そこまで考えて、どうして気付かないのかね?」
「えっ?」
「スレイプニールは闘技場にいる間に心変わりしたのだよ。あくまでも推測だがね」
「しかしなぜ? 原因は?」
「スレイプニールの気持ちになってみたまえ」
僕はハッとした。そこで初めて、僕の心の中のスケッチブックにスレイプニールの姿が描かれ始めた。
輪郭は八脚馬。色は白。額に角。
「初めは博士を憎んでいた。そして闘技場で勝ち続けて生き残った。それはつまり、闘った相手のキメラを殺し続けるということだ」
蹄にこびり付いた泥。肌に刻まれていく傷跡。角の先に滴る鮮血。
「自分が生きるために相手の命を奪う。博士と同じだよ。だから考えを改めたのだろう」
黒いつぶらな瞳。それは何を見ただろうか。
目の前で息絶えていく、生まれるべきでなかった命。ある命は、感謝の涙と共に。ある命は、憎悪の眼差しと共に。
おかしいと気付いて振り返れば、知らぬ間に背負っていた無数の十字架。いつの日からかスレイプニールは、その重みを八本の脚で受け止めながら、もう殺したくないのだと叫びながら、一角を紅に染めるようになっていた。
でもだからこそ博士に会いたかった。憎んでいたことを謝りたかった。ようやく気付いたことを伝えたかった。
きっと世界で一番死にたかっただろうに。
「なるほど。ようやく納得できた気がします」
「分かればいいのだ。では私は怠惰の誘惑に身を任せよう。おやすみ」
「それはダメです」
二度寝しようと論文の海へダイブしかけたレイラ先輩の背中へ手を伸ばし、それを止めた。しかし意図せず、抱きかかえるような格好になってしまった。瞼を閉じているレイラ先輩の顔が、目の前にあった。人形のような白い肌。気を抜いたら引き込まれてしまいそうな柔肌。
それから僕ははっとして、レイラ先輩を二本の足でちゃんと立たせ、一歩下がった。
「昨日は疲れたんだ。二度寝する権利はあるだろう」
「今日も仕事ありますから。早く顔を洗ってきてください」
レイラ先輩は渋い顔を浮かべていた。果たして僕はこの恩人の役に立てているのだろうか。
「レイラ先輩」
「また小言か?」
「いえ、先輩はどうしてあの時……」
「あの時?」
「……やっぱりなんでもないです。早く食堂に朝ごはんを食べに行きましょう」
振り返って僕の顔を不思議そうに眺めていたレイラ先輩の顔が、不意に緩んだ。
「ふふっ、そうだな」
君は儚いキメラの希望 葦沢かもめ @seagulloid
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