第4話 キメラの声の伝導師

 陽の傾き始めた住宅街の石畳を、ケルベロスは駆けていた。カツッ、コツッ、カツッ、コツッ、爪で石を削る音が漆喰の壁に吸い込まれていく。

 ケルベロスの背中の上では、レイラ先輩が器用に手紙を書いていた。それが済むと、伝書ハヤブサの脚にくくりつけて空へ放る。手紙を託された配達人は、天高く舞い上がっていった。

「各所でキメラ管理局の監視員たちがパトロールしているから、博士もノーガンにはまっすぐ行けないはず。恐らく着くのは夕方だ。それまでケルベロスで走っていけば間に合うだろうか、ジェシカ?」

「行けるだろうけどさ、あの手紙は一体誰宛てなんだ?」

「それは乙女の秘密さ」

「いいじゃん、説明してくれよ、主任殿!」

「その代わり、私の推理を教えてやろうじゃないか。ジェシカ、博士がなぜ逃げたのか分かるかい?」

「何か悪いことをしてたからでしょ?」

 そこに僕はあえて口を挟んだ。

「もしかして、スレイプニールに会いに行ったんですか?」

「その通りだ、エヴァン君」

「どうしてそうなるんだよ」

「鍵になるのは、さっきメアリー氏から聞いた言葉だ」

「『キメラの声の伝導師』ってやつ? 主任殿は、博士がキメラと会話ができたって言いたいの?」

「その通りさ。容易には信じられないだろうが、まずはこれを読んでくれ」

 レイラ先輩は鞄に入っていたものをジェシカに手渡した。

「何、これ? 博士の講演要旨みたいだけど」

「研究室から持ってきた。それの序文が面白い」

 僕も首を伸ばして、それを後ろから覗き込んだ。


『果たして我々は一匹のキメラを生み出すために、何匹の動物を解剖し、F細胞を取り出し、それを無理やりくっつけては喜んできたのだろうか。私は覚えている。顕微鏡のレンズの下でこれから融合されようというF細胞たちの、あの憎悪に満ちた悪態を! 諸君、もうこんなキメラ研究は終わりにしよう。そして目指すのだ。素体を殺めずにキメラを創る方法を!』


「『F細胞たちの、あの憎悪に満ちた悪態』……」

 口の中で反芻しながら、ジェシカはその意味を理解し始めているようだった。

「僕の想像ですが、それってこんな感じですかね。『俺を殺したお前を絶対に許さない! キメラになったら、いつかお前を殺してやるからな!』」

「実際にそうだったかは分からない。しかし仮説としてはあり得るだろう」

 それを聞いたジェシカは、まだ混乱しているようだった。

「ちょっと待って。もし博士がF細胞から嫌われていたのだとしても、脱走したキメラに会いに行く理由が分からない。博士は何のために昔の研究室の場所へ行ったの?」

 ジェシカの問いに、レイラ先輩は淡々とした声で答えた。

「殺されるためさ。生き物を慈しみ愛する人間なら、きっとそうするだろう」

「……そっか」

 それ以上、ジェシカはもう何も言わなかった。ケルベロスが風を切り裂く音が、僕たちの耳を貝殻のように閉じてしまった。無言のまま、ジェシカは手綱を振るった。何かを考えているような、何も考えていないような、何も考えられないような、そういう時間が過ぎていった。




 紺色のカーテンが天を覆い始め、雲一つ無い西の空が紅く滲んでいる。見渡す限りに広がる牧草地は、それを反射して褐色の素肌を晒していた。葉を落とした広葉樹が所々にポツンと立って、細い枝を届くはずもない空へ伸ばしている。空は刻一刻と色を深めていきながら、嘲笑うでもなく、同情するでもなく、ただただ空であるために高くあろうとしていた。日の入りは近い。

 そしてノーガンの町も、近付いていた。牧草地の端にある丘の上が、地図の指し示す場所であった。

 町の門をくぐると、一本道が丘の斜面をくねくねと這いながら頂上まで伸びている。その道に沿って家々が並んでいる。夕焼けを浴びる煉瓦が眩しい。手書きの地図にしたがって、ジェシカは相棒を走らせた。

 道沿いの家々からは夕食の支度をする音が漏れ、香ばしい匂いが漂っている。子どもたちが遊ぶ声も聞こえてくる。監視官一行の姿を見た町民は、その張り詰めた空気を奇妙に思ったことだろう。

 太陽がいよいよ地平線へと沈みにかかったところで、道の先に丘の頂上が見え始めた。暗闇を背景にして、小高い丘は燃えるような橙色に染まっている。かつての建築物の跡が、そこにはあった。あちこちに欠けた煉瓦が散らばっており、かつてのツェーナー研究所の大きさを物語っている。

 その隣で、一本の枯れ木のようなものが細長い影を地面に落としていた。業火でその身を焼き焦がすように腕を広げて西日を浴びているそれが人間だと分かったのは、さらに近付いてからだった。

 ケルベロスは言われずとも自然と歩調を緩め、それとほぼ同時にツェーナー博士も来客に気付いたようだった。腹の底から張り上げた渋い声が、だだっ広い丘の空気を震わせた。

「それ以上は近付かない方がいいだろう。未来ある若者たちよ」

 警告と言うよりも僕たちたちを諭すように、ゆっくりと言葉を選んで語りかけていた。

「無理だ。我々は博士から、スレイプニールの合成実験に関する資料を頂かなければならない」

 レイラ先輩が声を掛けたが、博士はまるで稚拙な質問をする学生を退けるかのように微笑した。

「そうか。そういえばそうだったな。それなら好きに持って行くといい。研究室の書庫を探せば見つかるはずだ。さぁ、早く行きなさい」

「それはできない」

「どうしてかな?」

 しばらく間を置いて、レイラ先輩は答えた。

「細胞は、何と言ったのですか?」

 キッと見上げた眼光は、博士の瞳を貫いた。遥か彼方の闇まで払ってしまうかのようなそれは、博士の心証を一変させたようだった。表情こそ変えないが、まるで子供のように好奇心を露わにした眼で、監視官の顔を観察し始めている。

「ほぉ! そんなことまで気付いていたか。それならとっくに予想はついているんだろう? 言ってみなさい」

「F細胞は、博士への復讐を誓ったのだろう。そして博士は、その日がいつか来ることを確信していた」

 博士はそれを頷きながら聞いていた。

「およそ間違いではない。ただ一部に誤りがある。よくある誤差だがね。あのスレイプニールのF細胞が発した言葉は、こうだ。



 楽しく生きてきた私は、何になれるのでしょうか?

 自由に生きてきた私は、何にされるのでしょうか?

 私を殺したくないあなたに、それが分かりますか?

 分からないのなら、私はあなたを恨み続けましょう。

 あなたの命を、貰い受けるまで。



 スレイプニールは私が殺すという行為を嫌っていることに気付いていたんだ。あの歌うような声は、まだ頭にこびり付いているよ」 

 博士の顔には恐怖など微塵も無く、むしろ大事な約束を懐かしむかのように、煌々と燃える空を眺めていた。いよいよ地平線へ差し掛かった太陽は、その日一番の輝きを見せている。

 そこでふと、ざあっと風が吹いた。丘を撫でるように一陣の風が駆け上がり、丘が震え、冷たい大気が肌を刺す。

「さぁ、来たようだ」

 博士の見遣る方へ視線を移すと、僕たちが通ってきた丘の中腹あたりに黒い影が見えた。

「エヴァン君!」

 僕はスレイプニールを止めようと、サラマンダーに変身してその前に立った。突進してくるスレイプニールに、なんとか掴みかかった。が、それは無謀だった。その強大な力を止めることなどできず、僕は路傍に放り投げられてしまった。

 次の瞬間には、スレイプニールは博士の前に迫っていた。その桁外れに太い筋肉が、逞しい骨格を覆い尽くしている。全身の至る所には大小の古傷が走り、時計の代わりに時を刻みつけている。夕日の中でもはっきりと分かる絹のような白毛は、どこからともなく巻き上がる風で波立ち、大人しくなることがない。その白毛から鋭く突き出した角は、生き血で濡れることを欲しているかのように夕日に燃えていた。この美しい要塞を八本の脚で支えながら、スレイプニールは博士に丸い眼を向けて動かない。落ち着き払った表情で、ただ息をしている。

 博士はその白い巨体に静かに近寄っていった。

「覚えているかい。君を殺したくなかったのに殺した、あの馬鹿な人間だよ。君のお陰で自分を騙していた自分に気付くことができた。本当にありがとう。今の私が生きているのは、あの時に君を殺したからだ。君を殺さなければ、私が死んでいただろう。だから君は、今の私を殺す権利がある。さぁ、思う存分突き刺してくれ。私の心臓の最期の音で、君の角を震わせたい」

 長い角を両手で弱々しく掴んだ博士は、その先を下げさせて自分の胸元へ当てた。

 止めどなく湧き出る涙が一つ、また一つと大粒の雫になって大地へと還っていく。後悔の涙だろうか。嬉し涙だろうか。そこまでは博士も露わにしなかった。

 角を掴まれたスレイプニールに、動き出す気配はない。

 もはや僕たちには手を出すことなどできなかった。できるのは、ただ見守ることだけ。

 風が吹き抜ける。

 空気は冷たい。

 息は白い。

 光は弱い。

 空は紅い。

 闇が近い。

 影が動いた。

 角が両手を振り払う。

 大きな口が開く。

 舌が伸びる。

 涙を舐める。

 涙が溢れる。

 涙を舐める。

 涙が溢れる。

 涙が溢れて、溢れて、止まらない。

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