第三章――子供たち⑥――
「フェンリル、顔色が悪くない?」
不意にそう聞かれて、フェンリルは屈めていた腰をあげた。小魚を採るための罠をひとつ、川に設置したところだった。
ふり返ると、こちらを睨むように見つめるヘルガと目があった。
「水の中なんだから、血の気も引くだろ。そっちこそ冷たそうだ」
ヘルガは隣のロッタと川べりに並んで洗濯をしている最中だった。彼女達の指先は小川の水の冷たさで、木の実のように真っ赤になっていた。
「トルヴァに聞いたよ。今朝、外で半分も雪に埋もれてたって。眠りながら雪遊びでもしたわけ。寝付きも寝起きも悪いのに、夢を見ながら歩き出すなんて、手に負えないったら」
「半分もなんて埋もれてない。……多分」
下がる足元の裾をたくし上げながら、自信なくフェンリルは鼻をすすった。
老人のお下がりの着古した服は、あちこち垂れさがってくるのが難点だ。年の割の小柄さが、嫌と言うほど見てとれてしまう。
「強がりはいいからもう上がったら。罠は仕掛けたんでしょう?」
「まだひとつだけだ」
もうひとつくらいはと言い返そうとしたが、くしゃみが出てしまった。それ見たことかと言いたげなヘルガの後ろから、ルクーが優しく声をかけてきた。
「声が震えてる、フェンリル。ずっと水の中だったんだから、火に当たった方がいいよ。風邪をひいちゃうよ」
そこまで言われてから、フェンリルは素直に従うことにした。
水から上がって火の側までくると、凍えていたのがよくわかる。焚火に手を掲げると、全身がぶるりと大きく震えた。
かじかんだ指でぎこちなく、むきだしにしていた手足の裾を伸ばす。
彼らは魚採りと洗濯を兼ねて小川に来ていた。しかし、なかなか捕まらない小魚に苦戦するフェンリルを見かねて、ルクーが簡単な罠を作ったのだ。
目が見えない分、手先が器用な少年なのだった。
「引き際を見極めてよね。看病するのはこっちなんだから」
「そろそろやめるつもりだったさ。寒かったし」
「どうだか。声をかけなければ、凍傷になるまで続けたんじゃないの」
ヘルガの小言はあながち冗談ではなかった。
フェンリルが一度集中すると、まわりが見えなくなるあまりに、体の方が限界をむかえて倒れこむことが多々あった。
腕っぷしの割に意外と虚弱なのだ。だと言うのに、フェンリルは自分の体の状態に無関心だった。痛みにも気づいていないような時すらある。
そんな彼に、まわりは先回りして気を配ることを覚えてしまった。
無口なほうとはとはいえ、話しかけても返事がまったく返ってこなければ要注意で、きちんと応答するだけ今日はまともだった。
「もし、じいさまが戻ってくる頃に熱でも出してたら、十五にもなって情けないと言われるんだから。成人したのに、年下にばかり世話を焼かせているって」
「そんなとしだったか?」
「先週になったばかりでしょう!」
何を言っていると、ヘルガは仰天した。何も思い当たらないようにきょとんとしているフェンリルが、信じられなかった。
「本当なら成人の儀をして、剣と琥珀玉をもらっているんだよ。自分がいくつになったかもわからないだなんて、そんな話がある?」
「……そう言われても、そんな儀式ごととは無縁だったからぴんとこない」
「嘘でしょう」
口ごもるフェンリルにヘルガが呆れ果てた。そこへ洗濯を終えたロッタがやってきて、無邪気に首を傾げる。
「フェンリル、おじいちゃまよりもさきに、ぼけちゃったの?」
ルクーが吹き出した。すぐさま俯き、声を漏らさないように身を丸めたが、肩の震えまでは止められない。
それにつられて、ヘルガも顔をそらしてくっくっと笑い始めた。しだいに小川のほとりの笑い声は大きくなり、その原因を作ったロッタは、訳がわからず呆けている。
憮然としてルクーを睨んだフェンリルだったが、意味がなかった。
ルクーは目尻の涙をぬぐい、息も切れ切れに謝罪した。彼にしては珍しく目蓋を開き、焦点の合わない紫色の瞳を久しぶりに見せた。
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