第一章――カザド⑨――
そういった傷にきく薬は、いくらかあったが、この子供は小さすぎて耐えられるとは思えなかった。体の汚れもできればもう少し、綺麗にしてやりたかった。
ふと、子供の目蓋が震えて開かれた。子供は虚ろな表情で何度か瞬いたあと、そばに腰かけるカザドに気付いて潤んだ青い目を向けた。
「よぉ、坊主……」
カザドはいくらか気後れしつつ呼びかけた。
また暴れるか叫ぶかするのではないかと警戒したのだが、子供はわずかに唇を動かし、かすれた声で呟いた。
「ねえさまはどこ?……」と。それから続けて、
「にいさまはどこ?とおさまとかあさまは?どこ?……」と。たったそれだけ。
耳障りな声に、カザドは子供が切り捨てられるまでの時間を思った。助けを求めて泣き叫んだのだろう。
声が枯れるまで、ずっと。
しかし誰にも、その声は届かなかった。
「……俺はな、坊主、カザドと言う。イル=カザドと」
カザドは話をそらして名乗りをあげた。
子供の身内がどうなったかを伝えることができなかった。どれほどの時がたとうと、できそうになかった。
「坊主はなんと言うんだ?俺はお前を、どう呼べばいい?」
子供はしばらく、じっと、カザドを見つめていた。敵か味方か、判別しようとしているのかもしれない。カザド自身、自分が子供にとってどのような存在なのかわからなかった。
命の恩人と呼べば、聞こえはいいのかもしれない。事実、それほど違わない。
だがすべてはなりゆきなのだ。
惜しむらくは、この楽園の滅ぶ日に居合わせたイル=カザドという
やがて子供が、疲れた様子でささやいた。
「……フェンリル」
「フェンリル?」
「ヴァナシア=ディア=サグム=フェンリル……」
その長い名前は、
「そうか、立派な名だ」
フェンリル、と口の中で確かめながら、カザドは言った。
「疲れただろう、フェンリル。もう少し眠ると良い」
うながすとその目に不安の色が見えた気がして、カザドはぎこちない手つきでフェンリルの額を撫でてみた。
「大丈夫だ……恐ろしいことなど、もう起こらない」
それを信じたのかどうか、フェンリルは再び目蓋を下ろすと思いのほか早く、寝息をたて始めた。
ふと、フェンリルの頭を撫でる指の間で、乾いた泥がぼろぼろと崩れ落ちた。
落ちた泥の中から柔らかな青い毛先が見えた時、カザドの胸中に言い知れぬ感情が去来した。止める間もなく、それはこぼれ落ちた。
慌ててカザドは外に出た。
岩のように硬くなった肌の上を、後から、後から、涙が転がり落ちてきて止まらなかった。そんなものとは覚えのある限り無縁だった。
誰かを憐んで泣くなど、信じられないことだった。
(何故俺なんだ、ここにいるのが。あの子供を見つけたのが……)
カザドはこれまで、この時まで、罪人であることを悔やんだことはなかった。明日の自分すら危ういのに。
天の助けかと言った青年の、たのむという言葉が思い出された。たのむと。追いかけることもできなくなった彼は、相手が何者であれ託すしかなかった。
その声を聞いた時からなのか、それともフェンリルが自分とそろいの青い髪の子供だったからなのか。見捨てると言う考えには、ついに思い至ることはなかった。
今はもう燃え盛るばかりとなった楽園の明るさが、目にしみた。カザドを責めるように炎はうねった。
――何故お前が、同族の血に濡れたお前が、その子を連れていくのだ。守りきる約束もできないのに――
きっと生き延びて見せると、カザドは鮮やかな楽園に誓った。必ず、と、声なき声で。
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