疲労と励まし [side 文彦]

[side 文彦]


 7月も半ばを過ぎた頃。俺が転勤先で仕事を始めてから、1ヶ月以上が経った。ここでの仕事にも慣れ、俺は充実した毎日を送っていた。

 ……それでも、俺の心にはどこか穴が空いているような感覚があった。


(姫井さん……どうしてるかな……)


 それは、姫井さんと会えていないからだ。仕事が忙しかったということもあるが、それだけじゃない気がする……。

 そんなことを考えていると、上司が話しかけてきた。


「星野君、ちょっといいかい?」


「あ、はい!なんでしょう?」


「君が来てくれてから、この課の業績が上がっていてね……。本当に感謝しているよ」


 そう言って、彼は嬉しげに笑った。

 そうか。だから最近、みんな親切にしてくれるのか……。そう思いつつ、俺は言った。


「いえいえ。そんなことは……」


謙遜けんそんしなくてもいいよ。君には期待しているんだから」


「ありがとうございます」


 そう返すと、彼は満足そうに笑って言った。


「じゃあ、またよろしく頼むよ」


「はい!わかりました!」


 俺は元気よく返事をした。



***

 そして、残業を終えて帰宅する途中、俺は疲れでボーッとしながら夜道を歩いていた。


(頼られるのは嬉しいけど……流石に疲れたなぁ……)


 そう思った時、ふとあの人のことを思い出してしまった。


「姫井さん……」


 無意識のうちに、その名前を呟いていた。……今頃、何をしてるんだろうなぁ……。

 そんなことをぼんやりと考えていると、誰かに肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。


「あなたは……」


 その人は『Bar Milky Way』の店主、カササギさんだった。


「どうしたのさ?そんな疲れた顔しちゃって……。悩み事でもあるの?」


「……まぁ、そんな感じです」


「ふぅん……。それじゃあさ……」


「はい……?」


 彼女はニヤリと笑うと、こう続けた。


「ウチで一杯やっていかない?疲れが吹っ飛ぶと思うよ〜?」


「はい……。そうさせてもらいます……」


 ……正直に言うと、今日はなんとなく飲みたい気分だったのだ。

 俺が素直に答えると、彼女は少し驚いたような顔をした。


「あれ?随分とあっさり決めたねぇ……?いつもの星野さんなら、『結構です』とか言いそうなのに」


「まぁ、たまにはそういう日もありますから……」


「そっか。まぁ、別に構わないんだけどさ」


 そう言って、彼女は店へと向かった。俺も彼女について行く。



 店に着くと、カササギさんは俺に尋ねてきた。


「星野さんって、お酒強い?」


「まぁ……普通よりは飲める方だと思いますけど……」


「そっか。じゃあ、強いのいっちゃう?度数高めのやつ」


「えっ……?まぁ、いいですけど……」


「よし!決まり!」


 そう言って、彼女は棚からボトルを取り出し、グラスに注ぎ始めた。そして、テキパキとカクテルを作り始める。


(何を飲まされるんだ……?)


 そんな不安を抱きながら待っていると、彼女が作ったカクテルを差し出してきた。


「はい。どうぞ」


「これは……何というカクテルなんですかね……?」


「『ロングアイランドアイスティー』っていうカクテルだよ」


「……アイスティー?」


 俺が首を傾げていると、彼女は笑った。


「ふふっ……。そういう名前のカクテルがあるんだよ。度数高めだから、ゆっくり味わってね」


「は、はぁ……。いただきます」


 俺は恐る恐るカクテルを口に含んだ。すると、口の中に紅茶のような香りが広がり、爽やかな甘さが広がった。


「美味しいですね……」


「それは良かった!今日はゆっくり話したいからさ……。それで、仕事の方はどうだい?」


 カササギさんはニコニコしながら言った。


「まぁ……順調ですよ。皆さん優しいですし」


「そっか……。でも、なんだか疲れて見えるよ?……大丈夫?」


 ……やっぱりそう見えてしまうか。


「えぇ。仕事は楽しいですし……。疲れているのは精神的なものですよ」


「ふーん……。例えば?」


「まぁ……姫井さんと会えてないから……みたいな……」


「……なるほどね」


 カササギさんは納得したように言った。

 俺はカクテルをグイッと飲む。……と、アルコールが効いてきたからか、頭がクラっとした。


「……でも、近いうちに嬉しいことがあるかもよ……?」


 ……ぼんやりしていた俺は、彼女の言葉を聞き逃してしまった。


「えっと……すみません。なんて言いましたか?」


 聞き直すと、彼女は微笑みながら答えた。


「いや、何でもないよ。それより、何か食べていく?」


「はい……。お願いします……」


 俺はそう答えて、再びカクテルを飲むのだった───。

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