第8話 魂の貢ぎもの

 あれから、1年が過ぎた。

 彼は生活を一新すべく、住居、職場をすべて変えた。そして、彼女に言われた通り体を酷使する働き方もやめて、今は健全な生活を送っている。生憎と異性との巡りあわせはなく、独身を今も貫いているが、それも悪くないと思っている。

 ただ、このままでは彼女に言われた”いい人生”にならないかもと思い、今日は趣味を見つけるべく、都会に繰り出してきたのだ。


 駅を降り多くの人が行きかう中、道を歩いていく。どこに向かっているわけでもないが、多くの商業ビルが立ち並ぶここならば、自分に合った何かをきっと見つけ出せるだろう。そんな前向きな思いを持ちながら歩を進めていった。


 だが、30分も歩いたのちに迷ってしまう。ここはどこだろうか。少なくとも大通りではない、それどころか明らかに路地だ。慣れない都会を歩き、隠れた店を探そうと細道に入ったのが間違いだったようだ。


 そして、何とか大通りに戻ろうと歩んでいるときに、ふと違和感を覚える。人気のないこの道で自分にピッタリと後ろをついてくる人がいる。試しに立ち止まってみたり、歩みを早めたりしてみたが、それに合わせて後ろの人物はくっついてきているようだ。


 怖いと感じながらも急ぎ足で歩みを進め、何とか人通りのある道が見えてくる。後ろの住人もそれがわかってか、小走りになって自分との距離を詰めてきているようだ。もしかしたら通り魔やどこかで恨みを買った人からの復讐かもしれない。彼は自分事としてそれに思い当たる節がある。もはや、なりふり構わず大通りまで走り抜けようとする。振り返ってもよかったが、それよりも逃げたかった。彼は、一度は諦めた人生をちゃんと生き抜きたいと思っていた。だから、こんなところで終わるわけにはいかない。


 だが、何とか通りの手前まで差し掛かったところで声をかけられてしまう。


「あ、あの!!」


 その艶やかな女性の声に、彼はドキッとして、あと少しだったのにと思いながら立ち止まってしまう。止まらず走っていってしまえばよかったのにと後悔したが、踏ん切りがつかずにいた。


 何か悪意を持った人物だろうか。それとも宗教の勧誘や押し売りだろうか。一般的に、こうした商業街の道端でいきなり声をかけられるということはそうそうない。おまけにこの女性は後ろをつけてきた人物だ。警戒するには十分な理由がある。


 彼はゆっくりと振り返って彼女を見る。


 見た瞬間に、少なくとも悪意を持ってやってきたようには見えないと判断する。その女性が酷く思い詰めたような切迫感と、かすかに安堵感を持ち合わせたような表情をしていたからだ。息を切らしているのは小走りになっていたからだろうか、それとも何かに緊張しているからだろうか。顔を上気させ、こちらではなく地面を見つめている。


 そして、長すぎると思える沈黙の後、ようやく口を開く。


「えっと、その……地獄っていろいろしきたりがあるんだけど、え、閻魔さまって結構気まぐれだったりして、人間のことなんてどうでもいいとか思いながらも、たまーに規則を破ったり……って、ちょっと待って! 宗教の勧誘じゃないって! いかないでってば!」


 彼の中で宗教の勧誘の可能性が濃厚となったため、その場を離れようとしたが、彼女に腕を掴まれてしまい逃げそこなう。別に宗教を一概に悪だなんて思ってはいないが、彼は一切の興味がないため何とか逃げなければと思っていた。


「い、いきなり見知らぬ人から、しかもわけのわからない話しをされて、正直困惑しているよね。ごめんね。えーっと、そしたら、どこから話せば…そうだ! あなた住所変えたでしょ? 探すのに苦労したんだから。…え? ストーカー!? ち、違うって! 顔をしかめないでよ!」


 非常に訝し気な表情をしながらも、ふと、ある違和感を覚える。


 この感覚にはどこか………そう、懐かしさがある。たった数日だったが、死んだ俺の心に吹き込んでくれた、あの温かさだ。


 そうだ。


 何度も探しに出て、見つけられず諦めて、それでも諦めきれずに探して、また諦めて…。今日もその諦めから、自分の趣味を探しに出たんだったのを思い出した。


 それに気づいた瞬間、胸の中が熱くなり目尻が下がっていく。



「あの…い、意味がわからないだろうし、顔も変わっちゃっているから、わけがわからないかもしれないけど、もし、もしもよ。もし、わかったら、今日は…今日だけは、無視しないで、ちゃんと答えてね」


 彼女は胸に手を当て、天使に祈るように声を発する。






「魂の貢ぎものはいかがですか?」



 <完>

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魂を奪いに来たサキュバスだけど、相手がブラック労働過ぎるのを見かねて逆に魂を貢いでしまう ihana @ihana_novel

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