第1話:ジャンル
ゆなちゃんとひーちゃんは、新居の最寄り駅改札前で待ち合わせていました。
ひーちゃんは背が高いので、ゆなちゃんがホームからコンコース階に上がったらもう改札を出た所にひーちゃんの見慣れた栗色の髪が見えていました。
思わず笑みをこぼしながら、ゆなちゃんは二週間の海外旅行で使用したトランクとボストンバッグを引きずって改札を出て、
「ひーちゃん! 今日からよろしくお願いします!」
と勢いよく頭を下げました。
「こちらこそ〜! しっかしゆなちゃん、凄い荷物だねぇ」
いつも通り語尾がふにゃっとした口調で返すひーちゃんをよくよく見たゆなちゃんはビックリしました。
ひーちゃんが、仕事用のリュックと、仕事用のスーツが入った袋、貴重品が入っているボディバッグしか持っていなかったからです。
「え、ひーちゃんそれだけ? 服とか私物は?」
「え? ああ、今日中に必要なものは届くようにしてあるから」
それにしても身軽すぎないだろうか、とゆなちゃんは訝しみましたが、ひーちゃんはゆなちゃんのようにファッション好きで洋服を大量に持っていたりしませんし、化粧品も基礎化粧品もスキンケア用品もヘアアイロンも不必要ですし、そんなもんかな、と考え直しました。
「じゃあ行こうか、僕たちの家に」
「う、うん!」
ひーちゃんの柔らかい笑顔につられて笑い、手を繋ぐなんてずっとしてきていたことなのに、入籍してから初めてだからでしょうか、ゆなちゃんは少しドキドキしながら駅から徒歩五分ほどのアパート、キワヒト・ハイツまで歩きました。
軽量鉄骨の、比較的新しいアパートで、ここの305号室が今日から二人の愛の巣です。
大家さんと管理会社の人に挨拶をしてから305号室に落ち着いたゆなちゃんは、大家さんの厚意で先に置かせてもらっていたマットレスにばすんと身投げしました。
「もーう何してるの、ゆなちゃん! 危ないよぉ!」
「だってあっついし、荷物重いし〜!」
その時でした。
ピンポーン。
インターホンの音が、がらんどうの部屋に妙に大きく響きました。
「あ、僕の荷物来たかも〜!」
いそいそと玄関に向かうひーちゃんを尻目に、ゆなちゃんは、自分の実家から送られてくる荷物、ここに配送を手配してある家具、等々、今日は段ボールとの戦いになりそうだな、と思っていました。
しかし、その予想は外れます。
「四つ届いたぁ!」
ひーちゃんが細いくせに案外力持ちなところを見せつけて、中型の段ボール二つを二回に分けて寝室に運び込んできました。
「今開けなくていいもの?」
「いや、すっごく大事なものだから、ゆなちゃんに中身を確認して欲しいんだ。力仕事はさせたくないし、家具の組み立てとかは全部僕がやるから!」
そう言うひーちゃんはとても頼もしく見え、同時にゆなちゃんは、課せられた任務を完璧に遂行しようと張り切りました。
ひーちゃんが別室に行ってから、ゆなちゃんはカッターナイフで丁寧に一つ目の段ボールを開きました。
するとどうでしょう。
文庫本が、ぎっしりと詰まっていました。
——ひーちゃんって、こんなに読書家だったんだ!
しかもひーちゃんは『すっごく大事なもの』と言っていました。きっと愛読書に違いありません。ゆなちゃんは気を引き締めて、中身を改めることにしました。
これが混ぜ混ぜ地獄の始まりでした。
『夏目漱石全集? こっちは芥川? で、こっちが太宰! 近代文学好きなんだぁ!』
愛する人の知らなかった一面を発見した時の喜びは代えがたいものです。
しかし、その側面が多いと、それはそれで困ります。
『ん? この「相手にYESと言わせる方法」ってやつ、いわゆる自己啓発系? こっちは「企業で生き残る実践論二十一世紀編」? ビジネス書?』
ゆなちゃんはちょっとだけ驚きます。ざっと見てもそういった書籍が二十冊はあったからです。
『ちょっ……! えっ! 何このエロ本!!!』
次に手に取った本を見て、ゆなちゃんは思わず声を挙げそうになってしまいました。表紙に、頭より乳房の方が大きいような女の子の絵が描いてある本が出てきたからです。
しかし中身を見てみると、どうやら小説のようです。
『あ、これってアレかな、ライトノベルってやつ、かな……?』
ゆなちゃんにライトノベルの知識はありませんでしたが、五十冊ほどあるラノベを軽くめくってみると、どれも空白が多く、目に優しい印象を受けました。それに女の子が出てくるものばかりでもないようです。
一箱目はそれだけだったので、本にダメージがないことを確認し、丁寧に一冊ずつ箱に入れ直し、ひーちゃんの読書家ぶりを知れたことにちょっとした満足感を覚え、二つ目の箱を開封しました。
すると。
——え、また、本?!
ほとんどが文庫本で、どうやら海外文学のようです。
『ドストエフスキーは、ロシアだよね……? 「罪と罰」、「カラマーゾフ」、「悪霊」……。ナボコフって誰? あ、ロシアの人だ。え、何この「戦争と平和」ってやつ!! 文庫本全部合わせたら横幅三十センチくらいあんじゃん!! ひーちゃんこんなの読んだの?! 作者は……トルストイ、やっぱロシアの人だ……ロシア文学も好きなんだぁ』
本と言えばマンガか読みやすい女性向けのエッセイくらいしか読まないゆやちゃんはすっかりひーちゃんの猛読家ぶりに尊敬の念を抱きました。
が。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」の最終巻を箱から出すと、またしてもゆなちゃんは首を傾げることになります。
……「量子力学入門」?
ゆなちゃんの頭上にはてなマークが三つほど浮かびました。
りょうしりきがく???
何だか理系っぽいことは分かります。
他にも素粒子がどうとか、物理学がどうとか、相対性理論がどうとか、量子力学の応用や理論書がぎっしり詰まっていたのです。
——ロシア文学の時点で文系最強って感じがするのに、今度は理系の最先端?!
さすがにゆなちゃんもくらくらしてきました。
しかしここでゆなちゃんはひとつの可能性に気付きます。
——もしかしてこれは、世に言う『積ん読』、つまり未読本かも!!
ひーちゃんは元々好奇心旺盛で、なんにでも興味を持てば、ゆなちゃんと二人でチャレンジしてきました。
もしかしたらライトノベルも量子力学も、興味があって買っただけで、まだ読んでいない、という可能性は充分にあります。
——だったら残りの箱もチェックして、私も一緒にチャレンジしてみたい!
そう考え直したゆなちゃんは、次の箱を開けました。
もう言うまでもなく、やっぱり本が入っていました。
そして、一番上に入っていたのは……
……ケルト神話?
ゆなちゃんは思わず、『ケルトってどこだっけ?』と考えました。
続いて目に飛び込んできたのは、ギリシア神話、北欧神話、ローマ神話、ペルシア神話、エジプト神話、日本神話……、といったラインナップの、世界中の神話の本でした。
——し、神話?!
ギリシア神話くらいなら、ゆなちゃんも聞いたことがあります。ゼウスくらいしか覚えていませんが。
——これも、興味があって集めたのかな? 神話なら私も興味ある!
わくわくと意気込みながらメソポタミア神話の本を取り出すと、まだ奥底に文庫本が入っていました。
——え、これって……!
東野圭吾、綾辻行人、伊坂幸太郎等々、国産ミステリの本がぎっしりと詰め込まれていたのです。そういえば過去にデートで伊坂幸太郎原作の映画を一緒に見に行ったことがあります。
それにしてもその数には目を見張るものがありました。ゆなちゃんには知識がありませんでしたが、本格からアンチミステリ、新本格、社会派など、国産ミステリの古今東西を取りそろえたラインナップだったのです。
全ての本をチェックしてから、ゆなちゃんは四つ目の箱を開けました。
言うまでもなく本でした。
今度は海外SFが多いようです。
——フィリップ・K・ディック? あ、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は私も聞いたことある! この人の本が多いなぁ。それにこの『一九八四年』っていうやつ、村上春樹となんか関係あるのかな? にしてもあらすじ読むだけでも設定がややこしそう……。
その箱の奥底に入っていたのは、ひーちゃんのお仕事に関する本でした。
ひーちゃんはITエンジニアです。プログラミングに関する書籍、一冊の厚さが四センチくらいの本が何冊もありました。各々、RubyだとかPythonだとかC+だとか書いてありましたが、こればかりはゆなちゃんもお手上げです。
「あ、ゆなちゃん! 全部チェックしたくれたんだね! ありがとう!! こっちも家具があらかた整って、その本を入れる組み立て式の本棚もさっき届いたから、夜にでも組んで収納するよ」
「え、あ、うん! あの、ひーちゃん」
「なに?」
「あのね、私ひーちゃんがこんなに読書家だったなんて知らなかったんだけど、もしかして積ん読とかあるのかな、って思って。だったら一緒に読んでみたいなって思って」
ゆなちゃんがそう言うと、ひーちゃんは目を丸くしてぽかーんとしました。
「ツンドクって何?」
今度はゆなちゃんが凍り付く番でした。
「え、えと、未読本ってこと。読んでない本」
「え、僕全部読んだよ」
「え、神話も? 量子力学も?」
「え、うん」
「え、じゃあアレかな? 読んだ本の内容とか結構忘れちゃうタイプ?」
「え、割と覚えてる方だと思うけど」
「え、にしてもなんか、ジャンルが多岐にわたりすぎじゃない?」
「え、そう? 普通じゃない?」
「え、ごめん私、読書家じゃないから『普通』が分からないんだけど、ちょっとビックリしちゃって」
「え、それはごめん」
「え、別にひーちゃんのせいじゃないよ」
その後二人は引っ越しそばを食べましたが、美味しそうに食べるひーちゃんとは対照的に、ゆなちゃんは、『普通』って何だろう、ラノベと量子力学とドストを読むことは普通なのだろうか、いくらなんでもジャンルが混ざりすぎではなかろうか、いや、それを疑う私の心が狭いのだろうか、と眉間にしわを寄せながらそばをすすることとなったのでした。
よもやこれが、ひーちゃんの『混ぜ混ぜ生活』の序章とは知らずに。
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