第3話 初めての反抗(後編)

「痛っ!!、、、ヨハン、、?」

リチャードは、ヨハンの手を引いたはずの自分の左手の小さな痛みに驚き、起きたことが信じられずにヨハンを振り返る。


ヨハンは、リチャードが掴んだはずの彼の小さな右手を自身の左肩に向けて斜めに上げていた。リチャードの左手を叩いて払ったのだ。ヨハンはリチャードを見上げて無言で睨む。


ヨハンに叩かれたことも驚いたが、そもそも手を叩かれるという事態が驚きだった。7歳以降にヴァイオリニストとして名が知れてしまってからは、弦を押さえる左手を叩く者はおろか引っ張る者も皆無で、周囲は自分の手を丁重に扱ってきたし自身もそうだった。


「帰らない!!父さんとなんか話したくない!!なんで僕はヴァイオリンを弾いちゃいけないの?父さんは忙しいから教えてくれなくても、他の人には習いたい!!

僕も父さんみたいに弾けるようになりたい!!

本当は父さんに教わりたい!!!」


「、、、だめだ。ピアノを習ってるじゃないか。サッカーや勉強だってあるんだ、そんなに両立できない。」


リチャードはヨハンの率直な言葉に心は動かされたが、気を取り直して首を振り、理由をこじつける。


「じゃあピアノもサッカーもやめる!!!

勉強をきちんとやれば良いんでしょう?」


「いくら言っても私は教えないし、先生も探さない。お前が自分で先生を見つけても、自分で楽器を買うお金もないしレッスン代も払えないぞ。ちょろまかしてもいずれ分かる。

二人に私に無断で教わるなら、私があとで二人にレッスン代を払い、お前を連れ帰るだけだが。」


リチャードもヨハンを睨む。二人はしばらく睨み合ったが、ヨハンは今度は先ほど借りて弾いていた子ども用サイズのヴァイオリン−分数ヴァイオリンを抱き、ソファに座る。


「じゃあ帰らない。なんとかしてお金を払ってレイさんやナカモトさんに教わる。」


「いい加減に、」

リチャードは思わず声を荒げる。ヨハンにレイノルズが本気で声を荒げたのは初めてだ。ヨハンは演奏で忙しいリチャードに反抗もしないし、無理難題はまず言わないからだ。そのため、ヨハンは初めて聴く父親の怒鳴り声に目を閉じて怯えたが、リチャードの前に明が歩いてきてヨハンとの間を遮った。


「らしくないよね。

リチャードのヴァイオリンの指導方針は、生徒自身に決めさせる、じゃなかった?

コンクールに出る出ないも、ソリストか楽団に入るかの方針も、ある程度示唆はしても生徒自身に決めさせる。


、、どう見てもソリストには向かない礼の指導も、リチャードは最後までコンクールに出てソリストを目指したいと言った礼を尊重した。


、、楽団でもそうだ。優れたソリストのキャリアがあって、楽団員の長でヴァイオリン奏者のリーダーたるコンサートマスターでもあるけど、みんなに自分の弾き方を押し付けたりしない。

ヴァイオリンの団員一人一人の弾き方をよく見てなるべく生かそうとしてきた。


なんで溺愛してきた息子にはそれができないのさ?不思議だな。」

明は、真剣な表情ではあったが、責めるニュアンスではなく疑問を投げつける。


それで、リチャードはバツが悪くなり明の穏やかだが座った印象もある瞳から目を逸らす。


「せめて、どうしてヴァイオリンを弾かせたくないのか、理由を話してあげなよ。

まだ8歳とはいえヨハンだって一人の人間だ。自分の意思でこんな夜中にタクシーでここまできたんだよ。お前に言われるまでもなく、深夜に来たことも着いたときに謝ってくれた。自分の言葉で理由すら話さないお前よりずっとしっかりしている。」

明はヨハンの隣にソファへ座り、ヨハンの頭を撫でた。


リチャードは、明の言葉で意を決し、180を余裕で超える長身の膝を折り、ヨハンに視線を合わせた。黒いトレンチコートの裾が床につく。


「ヨハン。よく聞いてくれ。

私は3歳からヴァイオリンを弾いてきた。

最初は父に教わって遊び半分で、5歳ごろからはレッスンに行き始めて、、7歳ごろからは、コンクールやコンサートに出始めてヴァイオリンが生活の中心になった。碌に勉強もスポーツもしなかったし、友達も作れなかった。毎日毎日ヴァイオリンヴァイオリン、、そうして人より時間を割いたから、割くことをおかしいとも思わない普通じゃない点が私にあったから、、人より弾けるだけだよ。

お前は、私の息子だ。顔立ちも似ているし、ヴァイオリンを始めたら絶対に私と比べられる。

お前が私と比べられて悲しい思いをしないために、、私はお前がヴァイオリンを始めたら優しくはできない。

私より5年も遅く始める。でも私はお前に、勉強も友達作りも学校も、疎かにはさせない。つまり、私より短い時間で厳しくやっていかなくちゃいけない。


苦しいことの方が多いし、さっきみたいに私が怒鳴ることが多くなるかもしれないぞ。

、、それでも、、ヴァイオリンを弾きたいのか?」


リチャードはヨハンに先ほどとは口調を変え、優しく、しかし真剣な声色で話す。表情は明らかに暗く瞳には悲しみすら映っていたが、ヨハンのほうは、ヴァイオリンを教われるということが全てだったらしく笑顔に変わり、元気に頷く。


「うん!!僕頑張るよ!!父さんから教われてヴァイオリンが弾けるなら何でも頑張る!!!ありがとう、父さん!!」


ヨハンは先程の態度からガラッと変わり、リチャードに抱きついた。

リチャードはそれで、歳のわりには賢いヨハンも自分の真意を理解できていないことが判り、不安や絶望が自分の中へより一層広がるのを感じた。


「、、、、。わかった。

でも、ヴァイオリンだけじゃなく、一応他の楽器も見てみてほしいんだ。

世の中にはヴァイオリンとピアノだけじゃなく、フルート、トランペット、チェロ、、明が弾いてるヴィオラもあるし、、きちんと選んで欲しいから。それでもヴァイオリンがやりたければ、、頑張っていこう。」


リチャードの声色は明らかに元気をなくしていたが、せめてと言う気持ちでヨハンの身体をしっかり受け止める。ヨハンを抱きながら、少しでもヨハンの興味がヴァイオリンから逸れることを願った。

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