第2話 初めての反抗(前編)

微かに声が聞こえて、リチャードは重い瞼を開けた。


「レイノルズさん!!

携帯電話がずっと鳴ってますよ。生徒さんからの着信音だし、僕は運転中で取れないから。お疲れでしょうけどお願いします。」


リチャードは、20代半ばの若いマネージャー、マルク•エルンストの運転席からの声で目を覚ますと、言われたとおりにそこそこ大きい音量で鳴っている携帯をトレンチコートのポケットから取り出す。

チャイコフスキーのセレナーデの着信音は、ヴァイオリンの生徒や門下生用に設定した着信音だ。とは言っても、自分はどちらかと言えば演奏活動に重点を置いているので、マスタークラスやごく限られた基準をクリアした若手しか見ていない。なので限られた人数ではあるが、着信音だけでは誰かはわからなかった。かと言って、眠くて画面で情報を確認する気は起きない。


「、、もしもし、、、誰だか知らないが感心しないな。こんな深夜に電話とは。」


リチャードは、自分の弟子には深夜にかけてくる非常識な人物は見当たらないため、訝しみながら英語で話す。

リチャードはイギリス出身だが、現在はベルリン在住なので普段はドイツ語を話している。母国語の英語で常に接するのはマネージャーのマルクくらいだ。しかし、ヴァイオリンの弟子はグローバルな出身の生徒たちなので、基本的に英語で接していた。


「申し訳ありません、レイノルズ先生。

でも、私と明さんのところにヨハンくんが来てるんですよ!

オーケストラ公演からリサイタルに直行でお疲れとは思いますが、迎えに来て下さい!」


声は、日本人で、ちょうどマルクくらいの歳の女性の弟子、レイからだった。レイの名前は日本語ではお辞儀や礼儀を表す「礼」の字だが、本人は比較的堅苦しくない性格で、業界でも名の知れた自分にも物おじせず、しかし嫌味なく接してきたのが第一印象だった。

リチャードの父親はイギリス人だが、母は日本人なので、リチャードは漢字や日本語も簡単なものなら理解ができる。礼は英語もドイツ語も苦手であるため、礼を初めてレッスンしたときは多少なりとも日本語を知っていて良かったと強く感じた。


「何を言ってるんだ、ヨハンが君の家にいるわけないじゃないか、冗談もほどほどに、、ヨハンが!?君の家に来てるのか!!

なんで!!」


リチャードは寝ぼけながら、数年ぶりに話す礼のことを思い出していたが、話を理解して途中から大声で叫ぶので、マルクは肩をびくつかせて運転をする羽目になった。


「うっ、、先生声が大きいです、、びっくりしたし、私英語は速いと聞き取れません。先生はご存知じゃないですか、私が語学苦手なのは。」


「ああ、すまない、だってびっくりだろ?

なんでヨハンがこんな時間に君の家に上がり込んでるんだ?

明は?なんであいつ何にも連絡しないんだよ。もうオケの公演は何時間も前に終わったから帰宅してるんだろう?」


リチャードは、礼の夫であり、楽団の同僚の中本明の名前を出し尋ねる。礼からは自分が車で爆睡している間にかなり着信があったようだが、自分に気軽に連絡しやすいであろう、友人でもある明からは全く着信がない。


「明さんは、ヨハンくんを見てくれてます。

ヨハンくんが、、、先生と話したくないから家に帰らないって言っていて。説得しようと。」


「、、なるほど、、、。なあ、ヨハンはもしかして君や明にヴァイオリンでも教わりたいって来たのか?、、私は教えないって突っぱねたからな。」


リチャードは、礼が少し言いづらそうに言葉を切りつつ話したことや、楽団の同僚である明の性格から想像して全てを察し、口調が強くなるのを止められないまま、せめて声のトーンは抑えて話す。


「、、、はい。ヨハンくんから聞きました。

でも、やっぱり私、お父様である先生と、お子さんのヨハンくんがきちんと話すべきだと思いました。明さんは、、違うこと言ってましたけど。」


「明に勝手なことするなって伝えろ。

君たちに深夜に迷惑をかけたのは心からお詫びするが、これは君も言ってくれたとおり、私とヨハンの問題だ。

連絡してくれてありがとう、礼。

すぐに向かうから。」


リチャードは、ヨハンと明への苛立ちを抑えて極力落ちつきを払う様に気をつけて話すと、携帯電話を切り、マルクに方向を変えさせた。


リチャードが礼に出迎えられて、中本家の一階のリビングに入ると、明とヨハンがヴァイオリンを構え、ソファに向かい合って座り音出しをしていた。そんな二人の様子を、深夜だと言うのに明と礼の息子である司も見つめていた。


「そうそう、なかなか覚えが早いね!弓遣いもあまり曲がってないし良い感じがする。

その感じで隣の弦も弾いてみて。」


「ヨハンがいきなりきて迷惑をかけたな、すまなかった。この時間だからホテルのバーで買ってしまったけど良さそうなクッキーがあった。お詫びだよ。酒は入ってないから司くんも一緒に食べてくれ。


ヨハン、帰るぞ。

明と礼に謝りなさい。こんな深夜に人様の家に上がり込んで。」


リチャードは、言葉では明に詫びを述べたものの、憮然とした表情でマルクから包みを受け取り、プレゼント用に包装した高級なクッキーの缶の箱をリビングのテーブルに置く。それからヨハンには厳しく言葉をかけた。明はそんなリチャードにも全く動じず微笑んだあと、ヴァイオリンを構えるのをやめた。ヨハンもそれで渋々弾くのをやめる。

しかし、ヨハンは、リチャードのほうは見ずに置かれたクッキーの包装を見つめていつになく意地を張った表情をしていて明と礼に謝る様子は無い。


「謝れと言ってるだろう。

司くんのことだって起こした。

二人にも仕事後で疲れてるのに迷惑を。

人に悪いことや失礼をしたらどうするんだ?」


リチャードは仕方なくヨハンに歩み寄ると、両脇を掴んで立たせ再度促す。


「、、ごめんなさい。レイさん、、ナカモトさん、、ツカサ、、。夜に迷惑をかけてしまって。」


ヨハンは謝ることにはようやく納得したらしく、3人に丁寧に謝る。


「ヨハンくんのお父さん!!怒らないでください!

俺、楽しかったです、ヨハンと家が離れているから久しぶりに話したし、ヨハンがヴァイオリン弾くの見れて。」


パジャマ姿で厚手のカーディガンを羽織った司がリチャードを見上げてヨハンを庇う様子で言う。


「司くんは優しいな。ありがとう。

これからはもう少しヨハンを連れてこようか。

ヨハンとずっと仲良くしてくれたら嬉しいよ。

寒いから風邪をひかないようにね。」


リチャードは司には一度目線を合わせて膝を折り、優しく話したが、話した後立ち上がり、ヨハンにまた険しい表情で視線を落とした。


「ヨハン、ヴァイオリン上手いじゃない。

初めてなのにきちんとA線で音階がなんとか弾けたし、弦を殆ど雑音なくしっかり弾いていたよ。


リチャードが弾くのを近くでよく見てるからだね。上手い人のを聴いてみてれば子どものうちなら覚えも速い。」


明はリチャードの眼鏡の奥の黒い瞳から、鋭いものを感じたが流して微笑んだまま話す。


「そうか。

ヨハンは母親に似て頭が良いからな。勉強だってピアノだってサッカーだって、

ヴァイオリンに限らずなんでもすぐ覚えるよ。

もう遅いし帰って寝よう。行くぞ。」


リチャードは明の言葉に淡々と、当たり前と言わんばかりに無感動に返すと、ヨハンの手を引いた。だが、ヨハンの小さな手を掴んだはずの左手から微かな痛みを感じ、後ろを振り返る。

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