第15話 半裂

 唇が塞がれている。

 水でも氷でもない。

 もっと柔らかく、温かいものだ。

 煙草の、焦げ臭い匂いがする。

 背中に痛みを感じる。石のような二本の感触。指が動き、水を掻く。そしてしがみついたのは弾力のあるものだ。

 唇が何かから離れ、自由になった。

 激しくむせて、喉の奥から苦い水が上ってきて、吐いた。

「よかった! 大丈夫か!」と男の声がした。

 気がつくと私は甘利助教に支えられて、水面にいた。胸に擦過傷でもあるような痛みがある。心臓マッサージの疼痛だと気づいた。

 あの古井戸の上部の狭い竪穴に、私たちはいた。

 甘利助教は背中と両脚を、石壁に踏ん張って支えていた。私はその両足に支えられていた。そして身体を捻じ曲げて、私に人工呼吸を施していたようだ。

 全身にまとわりつく物がある。布地のような浮力のある柔らかい何か。防水加工のあるシュラフだとわかった。ジムニーから彼が持ち出してきたものだ。

「・・・この古井戸には近づくなと・・言ったでしょ・・」

「まあ、そう言うな。いきなり水が噴き出してきて、結界も跳ね飛ばされて。俺は焦ったよ。無我夢中で飛び込んだ。何とか君を探して泳いできたんだ」

 彼がヘッドランプをつけて、目に滲みないように、上部を照らした。

 逆光ではあるが憔悴した顔をしていた。

 私はシュラフを巻き付けているが、全裸に近い。羞恥心などは覚えないが、彼は照れ臭いようでは、あった。

「すまないな。冷凍されるのはごめんだ。動けるか?」

「無理ね」という声にも力がない。

「ではおぶさってくれ。申し訳ないが自力でしがみついてくれ。俺はこの井戸を登らないといけない」

 意識を失いかけながらも、雪女の肌を自戒していて良かったと思う。この井戸は再び氷河になるだろうし、彼も数千年後に遺物として発掘されただろう。


 長い夜が明けた。

 私は、甘利助教の運転で病院へ向かっていた。

 何とか服を畳んだ場所に戻って、もたもたと身につけた。これほどの疲労困憊は珍しい。そういえばこの依頼で、私は何も喰べれてはいない。お腹が空いているはずだ。

 車窓には赤橙色の朝日が差してきたが、私たちは無言だった。この男は私の素性を知り過ぎたな、とぼんやりと考えていた。

 病院は朝靄の中にあった。

 まだ診療時間には早すぎて面会時間にはさらに早かったので、駐車場の側にある内庭のベンチに向かおうとすると、既に私服に着替えていた色葉が、膝を揃えて座っていた。

「まあ、朝帰りなの、お熱いことね」と口笛を吹いた。

 私は苦笑した。みんなお見通しのクセにと。

「そうじゃないわ。ボクだって夢の壊れそうな場面は見たくない。ボクが助けて欲しいと思った時だけ、六花姉に繋がるようにしたんだよ」

「身体はもう大丈夫なの?」

「もう六花姉が完全に治してくれたでしょ。肌の感じが全然違う。おっぱいも大きくなるかな」

「元気ねえ。私にはもう関わりを持たないように、ね。それから私に同期するのは危険よ。あの時は本当に危なかったの」

「だって、ちゃんと助けてって、一言伝えたでしょ」

 石女尼との一戦で色葉の顔が浮かんだとき、「大丈夫?」と聞かれたが、あれは「助けて!」という口の動きであったのかと思った。

 その様子を甘利助教は、緩ませた頬で眺めていた。

「朝食でも取りに行くか? ファミレスくらいしか開いてない時間帯だけど」

「・・・私は」

「ダメだよ、六花姉。ちゃんとしたものを食べないと。口に合わなくとも」

 そう色葉は笑って、私の手を引いた。

 

 朝食のプレートを緑茶を頼りに流し込んだ。

 全国展開のカフェのソファに色葉と並んで座っていた。

「今回のお祓いはどうなったんだ」と助教が尋ねてきた。

 むしろ聴きたくて堪らないだろうと思った。彼にしたって暗黒な井戸に飛び込んで、私を救助に向かってくれた。命を賭していたのは相違ないし、それなりに内訳を知る権利はあるだろう。 

「・・取り逃したわ。強敵だった。私としたことが、見事に陥穽にハマったわ。さらに面妖というものを扱う魍魎もいる。面妖鬼と呼ぼうかしらね」

「石女尼と面妖鬼か」

「・・あ奴か」と色葉が妙な口調で呟いた。

「面妖鬼については、全く手がかりがないの。それはどうも痘痕を介して、人格に憑依したり、転移ができそうなの」

「転送?」

「田所さんに憑依した石女尼を、色葉に転移しようとしていたのよ。それで貴方を襲ってきたの。恐らく・・」と言い淀んだ。

「ボクの前世に関係がある、ってことね」

 せっかく言葉を濁してあげたのに。

「その後、田所さんはどうなったの?」

「ボクがナースコールを押して運ばれていったよ。無事だよ」

「それと・・私の母なんだけど、風花と呼ばれていたらしいわ。望月の歩き巫女の中に記録はないの?」

「かざはな、か。俺の記憶にはないな。調べてみよう。君と関わりがあるのだろう」と彼は言い、また一歩、雪女の事情に踏み込ませてしまった。

 色葉は私の手をそっと取った。

「お姉、みんな助けてあげたいと思ってる。力になりたいと思ってる。遠慮しないで。強敵なんでしょ」

 私は不覚にも、慈母のような表情だと思った。

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風花の舞姫 半裂 百舌 @mozu75ts

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