第30話 記憶を侵す
ピカは何も問わずに、取り上げた注射器をバラすと洗面台に中身を流してしまった。無知を装った沈黙を徹底して纏っているが、彼女の無口は嘘の現れであることを私は知っていた。ピカは明白に、私が今何をしようとしていたのかという問いの、正しい答えを知っている。
情報総局諜報部の青シャツに包まれた柔らかい手が、恐る恐る私の腕に触れた。反射的にそれを振り払うと、ピカの顔が私の背の後ろに隠れる。私は覗き込まれた不快感に身を任せて、体を回転させると彼女の目をまっすぐ見た。
朱色の瞳を静かな怒りが霞ませている。頬が黒く滲み、額をマットレスに押し付けた形跡があった。家に上がり込んでいることを非難する意思は一瞬にして失せた。とはいえ先に謝罪する気にもなれない。濡れたセラミックの上で体重を支える手が滑る。丸めた指の中に咄嗟に隠した禿男のFWチップがこぼれ落ちないように、爪が曲がるまで力を込める。
「知っていて、こんな仕打ちを?」
私が訊ねると、ピカは少し後退りしてから眉を顰めた。
「......ラフカ、どうしてこの家にすぐ帰ってこなかったの?」
「さっきFWを切ったわ。うっかり私の手が出る前に、ちゃんと質問に答えてくれるかしら」
言ってしまってすぐに、ピカの表情を伺う。怯えを隠すように唇の端を強張らせているのがわかった。しかし宥めようと近づけば更に拒絶されてしまいそうで、溜め息と共にやり場のない怒りを鎮める。ピカのふらついていた目線が、ゆっくりと私の体の表面を降っていき、最終的に、力強く握りしめている掌の中を貫く。
「裏切られていたことを知ってしまったからよ。ラフカが私たちに説明するよりも早く。ロビンの勘の鋭さは、お互いにとって痛い誤算だった」
「でも彼のは言い当てて終わり。それで物事の背後に隠れた大切なことを見落とすのよ。......私がFWを他人のものにしたから何。私の左脳は機械で、ゾフィーのFWは検証用の接続子を備えたコピー。両者が揃っていることを知っていれば、誰だって思いつく普通のアイデアじゃない。それでも尚私が彼らを裏切ったと?」
「倫理観の問題なの。囮に使うのはラフカのFWじゃないって、最初に教えてくれていたら違ったかもしれない。そうすれば、予定的な裏切り者としてでも、ラフカの行動を信用することができた」
「それは違う、1番最初にちゃんと伝えたはず。私の行動のわずかな異変も見逃してほしくなかった。それで、何か分かったのかしら。私がゾフィーのFWを埋め込んでいることに気づいたのは、私の判断に違和感があったから?」
ピカが顔を傾けて私を睨みつけるので、こちらも彼女の方に詰め寄った。
「ねえ、そうじゃないでしょ」
「ラフカあのさ、私たちはね、そもそもその作戦がまだ生きていた事自体が信じられなかったの」
「私のFWを調べた理由を言ってみなさい」
ピカの呼吸が一瞬速くなる。
「......そう、違和感があったからよ」
「嘘吐き。勝手に人の脳を開けて後から答え合わせをしておいて、気づいてたふうに言わないで」
今度はピカが被せ気味に異を唱える。
「違う、全部おかしかった。皆の理解を超えた1週間だった。奴らに振り回されて私たちの意思なんて無いみたいに。確かに、チップを調べたきっかけはラフカの意思に違和感を感じたからじゃない。ただ単に、死人のFWを漁っている記憶を見て、もしかしたらと思っただけ。ラフカがFWを弄ったことを知るまでは、エレベーターでの不可解な会話がFWへの干渉によるものだとか、煽動犯との接触だとか、そんなことは思いもしなかったのも事実。でもそれだけじゃない......!」
「......ケベデは死ななかったって?」
「それもそうね。ラフカの咄嗟の決断が変わっていたら、彼は死ななくて済んだのかもしれない」
私は反論しようとして、黙らざるを得ないことに気がついた。鼻先に痛みを感じながら口を閉ざしていると、ピカが片手を私の後ろに伸ばして、水音を立てながら何かを拾い上げた。いつのまにか禿男のチップを洗面台の中に落としてしまっていたみたいだ。
「起きたことは変わらない。これ以上責めるつもりはない。不運にも、エレベーターで誰よりも早く囮作戦の成功を悟ってしまったラフカが、あれから何をするつもりだったのかについて説明を受ける準備もある。ただ、もう誰も今のラフカを信用することができない。ラフカの作戦を理解することはできない」
ピカは禿男のFWを服の裾で雑に拭う。情報総局に持ち帰るのかと半ば諦めて眺めていると、彼女はそれを指先で摘み、予想外にも私に差し出した。
「今のラフカの立場を教えてあげる」
引っ掻くようにピカの手からそれを奪い取って、続きを促した。ピカは一語一句を強調して告げた。
「ストレンジとまったく同じ。煽動犯に辿り着く可能性があるから、泳がされているだけ。だからこれからも煽動犯のことは好きに追って構わない」
「そう。それで?」
「ジュラ・ホーンが示した条件は2つ、装着済みのFWチップを現状維持することと、何をするにしても監視の中に留まること」
「それを伝えに、ここに?」
「そうね、そう。これで私の役割は終わった」
私がこれ以上彼女に当たる事ができないように、できるだけ早く家を出て行って欲しかった。ピカを押すようにしてバスルームの入口まで動き、ドア枠に手をかけて彼女の俯いた頭を見下ろす。しかし暫くしても彼女がそこから立ち去ろうとする気配はなかった。
「何よ」
「......」
「私たちの友情はここで終わり。ピカにとって私は敵になったんだから、それで納得でしょ?」
「そうね、私はラフカを追う側になった」
「残念だわ」
「勝手に部屋に入って、覗きもした」
「酷い野郎ね」
「でも全部任務のせい。私の意思は違う。立場は忘れて個人として、ラフカと和解しておきたい」
「別に私もピカの立場は理解しているわ。私がした決断が、たとえ親友であっても受け入れ難いことだということも」
「でも怒ってるでしょ」
「そんなことない。ここで独りピカの将来を祈ってるわ」
適当に彼女の後ろ髪を撫でて手を離す。しかしピカの手が思わぬ速さで私の手を追い、彼女の耳の下に固定した。そして蚊の鳴くような声で、まるで私を本当の悪者に仕立て上げるように囁いた。
「チャンスを頂戴」
「......どんな?」
「前から思ってたの。ご飯を食べて、一泊したい」
冷たい箱中華が2人分届き、予備のコップに黄酒を注いで席に着く。氷を入れようとすると、ピカは飲み口に手で蓋をして断った。酒は彼女が持ち込んでいたものだ。3日前からこの部屋を我が物顔で使っていたというが、その時の彼女は私と口論になることを想定していなかったのだろうか。たとえ私がカオの元へ行かずにここに帰ってきていたとして、情報総局に籍を置くことを許されたピカを前に晩酌を交わす事ができたかと問われれば、自信を持って肯定することはできない。
「ここに来たもう一つの理由があるの」
どのような態度を期待されているのか全く読み取れないまま、ひたすら肉団子をつついていると、ピカが箸を置いて私の方を見た。
「ロビンたちに言われて?」
「違う。むしろ、彼らの意思に反すること」
「聞いてあげる」
早くも酔いが回ったのか普段の調子に近づいてきたピカは、私の不遜な態度に非難の目を向けることもなく、咀嚼音を立てて口の中のものを飲み込んだ。
「ラフカがこの先も煽動犯を追う必要はないってことを、伝えたかった」
「当然よ。そもそもの話、私が知りたいからそうしてるだけ」
「聞いて。理由は単純」
蓋の端にのけていた辛そうな見た目の肉切れを、ピカの箸が攫っていく。こういった気分がすぐに変わるところが扱いづらくて、私は気に食わない。
「煽動犯はすぐに捕まる。ホールの監視システム、映像系は裏切った保安局員に消されていたけれど、禿男の検屍で凶器になった義足モジュールが特定できた。煽動犯らしき人影もストレンジの記憶装置にもばっちり」
「饒舌ね」
私は立ち上がりもう一度洗面台へ向かう。ダイニングを離れても、ピカは声色を1段階高くして話を続けた。
「そしてそいつは例の記者のすぐ後ろに。ケベデは、彼らの最終標的だったのよ。あの場所で完遂の演出と、政治的な宣言がなされる筈だった。奴らのアジトの特定ができたら、きっともうそこから先でラフカの出番はない。煽動犯が捕まったら、FWの観測可能性の話は間違いなく有耶無耶に」
席に戻って、彼女のコップに酒を注ぎ足す。化粧の落ちた頬が再び暖かさを取り戻していた。私は向かいに腰を下ろし、彼女がコップを煽る姿を見つめる。
「そのアジトって、特定できそうなの?」
「んふふ、それは言っちゃだめ」
「じゃあなんで私にそんなことを?」
「どうせすぐにニュースになる」
「じゃあ教えて」
「だめ、ラフカに正しい道を進んで欲しいから」
「いいじゃない」
「......知らない」
私の手元のグラスが空になり、甘い香りの残った氷が唇を湿らせている。自分の吐息が冷気となって、不規則に繰り返し纏わりつく。分厚い硝子越しに、ピカの頭がぐったりと前に傾き、微かに震えて机に突っ伏したのが見えた。
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