第29話 仲直りはいつも私から

 何度も繰り返し強請って、やっとカオは私が研究室に着いていくことを了承した。蒸気が篭った一般公開用のドームを通り抜け、ラボに続く滑りやすい金網の通路を通る。以前ミケルの事件の話を聞きに来た時は照明が夜間設定だった為か気がつかなかったが、ドームのうち公開されているのは半分のみで、研究棟に面している半分は隔離されたより小型のドームを内包しているようだった。六角形の強化ガラス越しに、オレンジの霧が対流しているのが分かる。その横を早足で通り過ぎながら、彼が私を連れて来ることを渋っていた理由に気付く。


「説明すればよかったね、ごめん」


「大丈夫よ。私のトラウマは今は別の事件で上書きされているから、なんとも無いわ」


 カオは私の肩に手を回し、そのジョークはあまり面白くないと諭した。それから何か考え込んで立ち止まると、実験ドームの中を指差す。


「でも、君がそう言ってくれて、僕は嬉しいかもしれない。ここはね、ドーム化された船外有人農地の設計案だ。セレストの居住区は拡張し、KMT政策が進められ、そして人の心はいずれまた青空の下に生きる事を求めるようになる。どれだけ惑星グロムスの大気が生身の人間を内側から腐らせんと襲いかかってきたとしても、いずれこの鋼鉄都市から出なくちゃならない時が来るし、それは段々と可能なことになってきている。確かに、回帰派のやり口は完全なテロリズムだった。巻き込まれた君に無理に克服しろと言う権利も僕にはない。だけど、それでもやっぱりセレスト人は、一度冷静になるべきなんだ。恐怖の過去の記憶を捨てて、せっかく発見した新たな新天地で生きること、そしてそのさらに未来について、全ての可能性を知った上で考えるべきなんだ」


 中に立つ職員がカオに向かって軽く手を振った。カオは私の手を持って一緒に振り返す。職員のマスクは粘膜を隠しているだけで、彼らの表情には恐怖の念は見られない。ドームの中は地球的な大気組成ではないというのに。惑星学的には地球化に容易い環境、それは学者的な算段が出来なければ到底理解することのできない過酷な条件だ。植物にかけられたビニールや花粉媒介ドローン、簡易式のガスマスクを着けて背負式散布機を携帯した庭師たちは、惑星グロムスにおける自然の営みの確立を目指すカオ達にとって、外的環境から身を守ってくれる壁ではなくただの異物なのだ。


「いらない話をしてしまったね。早く研究室に行こうか。ウォッシャーは共有設備だから、誰かが先に使ってしまうかも」




 私たちが休憩している間、禿男のFWチップが取り込まれた微細チップウォッシャーを、真菌研究チームの研修生が電源ごと持ち去ってしまうというあり得ない事故があった。それでも、博物館の最新設備は最終的には完璧な洗浄をこなして見せた。


「求めた通りの出来よ。経過はともかくとして」


 各ノードがプレートの表面で独立を維持し美しいバタフライ模様を取り戻した禿男のチップをケースに嵌め込み、私は平謝りする研修生を思い出して苦笑いをする。


「全く、恥ずかしい限りだ。もしこの先それが君の役に立たない事があったら、いつでも持ってきてくれ。なんでも責任は取るよ」


「きっと大丈夫。カオ、あなたは本当に最高よ」


 欠伸しながら首を横に振るカオの腰に手を回し、今朝お預けにされた優しい口付けを交わす。それから彼の部屋に戻って軽いブランチを済ませて、私は久しぶりの家に帰ることにした。




 環状トラベレーターの上を歩き、文化地区のゲートを潜り抜けて旧官庁街との境界近くで降りる。中規模キューブ、パルテーレの無機的な集合住居が、人気のない大通りを圧迫するように迫り出して立ち並んでいる。ロビンから渡された鍵を読み取り、全く同じ形状のエントランスが規則的に影を落としている、記憶にない細い連絡路を突き進む。


--ラフカ・クナーグ-現住・委員会承認--


 扉に手をかざすと、特になんら手続きを要さずに鍵が開く音がした。ゾフィーの研究室に泊まるようになってから一度も帰っていなかった部屋は、確かに記憶を掠める程度には知っていると言える匂いがしたが、玄関の飾り戸棚には何ひとつ個人的な所有物は置かれていなかった。


「......灯りをつけて」


 ウェルカムライトが足元のステンドグラスを彩らせる。新品のマットレスで靴の底を擦り、規則的な足の運びでまっすぐ奥に伸びた廊下を進む。そして大きな違和感を直感した。家族の居なくなった私の家は、建物の所有権を有する政府によって部屋数を減らされていた。


「なら別の家でよかったじゃない」


 リビングルームの奥には、母の書斎と両親の寝室に繋がるもう一つの廊下があるはずだった。それが、しっとりと雨が降る針葉樹林の風景が投影されたスクリーンによって封鎖されている。慣れない涼しさに他人の家の気配を感じるが、部屋の真ん中には見慣れた傷の残ったダイニングテーブルが新調された食器の山を載せて鎮座していた。


 私は目を閉じて、壁にもたれかかった。記憶の中に意図的に閉じ込めていた経験が、内側から激しく戸を叩く。情動の変化を捉えて、ペグの居なくなった筈の脳内から通知音が鳴った。目を開けると、私の視線の先に洗面台の鏡があった。その表面に、マスターとのコンタクト経路を探して左右に動く赤い瞳のマークが浮かび上がっている。


--再同期が必要です。マスター、以前の設定を覚えていますか?--


「......知らない」


 カオの部屋で聞いた声だ。少しの安心感と共に壁に背を張り付け、心拍が治るのを待つ。私の知らない木目の保護材が背中でざらざらと摩擦を伝える。次第に、私の意識は部屋に残された痕跡とそれが発する情報から離れて行き、自分自身への苛立ちによって上書きされていく。


--再同期を行なってください--


「黙って。邪魔しないで」


--承知しました。私はいつでもあなたを助ける用意があります--


 そこにある物語を知っていようが知っていまいが、部屋は部屋だ。それ以上でもそれ以下でもない。不愉快なら周りを意識しなければいい。他の作為に身を任せて、順番に慣れていけばいい。鏡に映った情けない私に対して、繰り返し言い聞かせる。


 左右が反対になった手が、コートのポケットの方へと動いていく。爪先が樹脂製のケースに触れた感覚を伝える。鏡の中から視線を逸らして、私は大股に洗面室の敷居を潜った。コートを脱ぎ、タオル掛けにぶら下げた。純白のライトが私の顔を病的に照らした。


「メンテナンスキット、バスキュラー400標準型」


 鏡の横に設置された埋め込み式収納箱が、抵抗の少ない音を立てて滑らかにカバーをずらす。そこから二の腕程のサイズの純白なスティックが、扇子の骨組みのように目の前に展開された。私はそのうちの生体対応モジュールを選択し、左腕の受容磁気装置を近づけた。鏡の向こうからバスキュラー製品共通の起動音が響く。


--起動しました。用法を遵守してください--


 電源が接続され、視界の左下にモザイクのかけられたマニュアルが共有される。2度瞬きすると、マニュアルの文字列の上で点滅を続ける空枠の中に、ストライブ技師資格証明書の登録番号が打ち込まれた。同時に技師に課せられた安全配慮義務について注意書きが現れ、マニュアルへのアクセスが許可される。深呼吸し、右手に麻酔注射器を握りしめ、後ろ髪を括り肩の前に流す。そして斬首台に登った罪人さながらに、頬をセラミックの冷たい器に押し付けた。


「拡大鏡を同期」


 右目の瞼を閉じる。左手の小指が髪を掻き分け、小型カメラから送られてくる映像を確かめながら人工頭蓋の始まりを示す溝を探す。見つけるのにそれほど時間はかからなかった。前にゾフィーのチップを取り込んだ時、切断した人工皮膚の再生がまだ完全には完了していなかったのだ。


「大丈夫。前はうまく行った。前は......」


 FWチップの機能停止は主観上に特段の影響を与えない。従って精神場統合の結果を模倣する脳の重要部分に手が加えられようとしたところで、何かしらの警告が生じるわけではない。監視システムの中の私という存在に対しての電子的紐付けが一部途絶えるわけだが、FWのデータが不足したところで保安局に通報が届くわけでもない。物理心理学で認められた唯一の自己の証明、それを補強するシステムを破壊する事がいかに簡単な事であるかに気づいた時、私の緊張は抑えられないものになる。


 慣れた手続きを踏んで気を落ち着かせる。義体側の痛覚探知システムの感度を僅かに下げ、単純触覚以外の信号にフィルターを掛ける。右手から少しずつ力を抜いていくと、ひんやりとした感覚が点々と頭皮に突き刺さる。吐いた息が洗面器の中をぐるりと回って額にまとわりつく。唾を飲み込み左目の瞼も下す。もう一度右手の指先に力を込めて、ノードを引き抜く時の鈍く深い痛みと、左脳コンピューターにゾフィーの複製チップを取り込んだ時に感じた高揚感を必死に思い出す。


--電子情報の保全を実行してください--


 吐く息を長くして、心の中で5つ数える。あと少し。あと少しで、私はもう一歩前に進む事ができる。


 突然のことだった。誰もいない筈の背後から、ピカの声が聞こえた。


「やめて。それ前と違って複製物じゃないんだよ。ラフカが本当にラフカじゃなくなっちゃう」


 私の手からゆっくりと注射器が取り上げられる。私は息を忘れて視線を少し上にずらす。鏡には、確かに緑がかった金髪が映り込んでいた。

 

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