第28話 恋人を頼って

「言ってくれれば迎えに行ったのに、下の騒ぎに巻き込まれなかった?」


「大丈夫だったわ。護衛も何人か尾いてきてたし」


 復興博物館の職員棟の小洒落たエントランスで、かれこれ3時間ほど待たされて、薬品の匂いを漂わせたカオが小走りでやって来た。私は彼とハグを交わす。数日ぶりに再開したとは思えないほど、彼の力は強かった。


「こんなにすぐ会えるとは思ってなかったから」


「ごめんなさい。忙しいことは分かっていたのに」


「そういうつもりで言ったんじゃないよ。君の方もてんやわんやだろうって少し疑問に思っただけだ。さあ、取り敢えず入って」


 彼の部屋は、人気のない清潔な通路の突き当たりに位置する、鑑賞用チシャから露の匂いが漂う広い角部屋だった。手動の扉を開けてカオの肩を借りながら靴の汚れを落としていると、私たちの会話を認識したのだろう。殺菌剤に浸されていた足下のマットレスから水気が消えて、如何わしい雰囲気を放っていた紫電球に代わり暖かい照明が灯る。


--連勤記録更新です、お帰りなさい--


「ウサギ、新しいコーヒーを淹れてマスターを労ってくれ」


 ペグシリーズとはまた違った安心感のある音声が部屋の奥で小さく鳴いた。正真正銘、マスターの安全と任務遂行を天秤にかけて故障なんてするはずも無い、プシケ社純正コンシェルジュドローン、u-SAG1だ。キャラクターコードは誠実性。加えてほんの少しの気の利いたジョークを出力する。


「コーヒーでよかったよね。この部屋に置いてあるのはうちの熱帯アグリ棟産だ。文化豆とでも名付けようか」


 私が頷くと、カオは一瞬いつもの笑顔をつくり、それから思い出したように少し慌てた様子で暖簾の向こうに隠れた。手当たり次第引き出しを開ける音がして、飲み差しの無地のマグを片手に苦笑いを浮かべた彼の顔が、可愛らしく目の前に現れる。


「こっちは来客を想定していなくてね、僕のマグでもいい?」


「今更でしょ」


「そうかな。君の無頓着さがプログラムでどこまで更生されたのか、まだ僕は知らないから」


 思わず怒った表情を作って、彼の指にぶら下がっているマグと簡易洗浄機の方を順に指差した。何故かカオは嬉しそうに笑うと、湯気の籠った調理ブースに向かった。私はその背後を静かに通り抜け、ブランケットが掛けられたソファに腰掛ける。目の前の大窓から、運行を停止して数十年係留されたままの数多の船外輸送艦が、艦首を人工空に向けて垂直に伸ばしている風景が望めた。透明な二重隔壁に覆われたドックと、プラズマと衝突した酸素原子のように絨毯状に揺らめく誘導灯、そしてセレストの柱のように伸びたカタパルトの行先を眺めて、今まさに復興博物館の上階にいるのだということを思い出す。しかし不思議と恐怖心はない。くつろぐ姿勢をとり、ムートンの中に手を埋める。


 部屋を見渡すと、官営住宅らしく必要不可欠な自動家具が埋め込み式で設置されていた。しかし流石はカオだ。小汚い清掃ドローンの格納された縦長のアルミ扉を、剥製やら娯楽フィルムやらがフィボナッチ的距離を空けて配置された棚で見事に覆い隠している。バイオハッキングにのめり込み生物学に準拠した彼の趣味は、どこか生得的な心地よさを生み出しながらも、ピカのような地球的古風さを感じさせない。


「すっかり忘れていたが、色々あって今週の配給には行けなかったんだ」


 背後から代替粉乳の塊が溶けきっていないコーヒーを渡された。私は左手でマグを受け取り、溢れないように制御をかけながらそれをゆっくりと揺らして混ぜた。カオが隣に座って、クッションが深く沈む。


「カーテン、閉めようか」


「私はどちらでも大丈夫だけど」


「ならこのままでいいかい?」


「ええ。驚いたわ。あんなに巨大構造物恐怖症を拗らせていたあなたが、今やこの部屋で休息をとることができるまでになったなんて」


「お互い知らないところで変わったからね。基本研究室に泊まり込むもんだから、実のところ僕もまだ慣れていないんだが。偶にここに腰掛けて、君たちとレーダー号の射出を観覧したあの日を思い出す時もある」


 私が彼の言葉を背景に宇宙船の向かう先を見つめていると、その間カオは何かを待つように口を閉ざしていた。私は程よく冷まされたマグを両手で抱えて、音を立てないように啜りながら横目に彼の姿を捉える。彼の長いまつ毛に隠された、茶に深く輝く生の眼がこちらをじっと伺っていた。


「本題に移りましょうか」 


「そうしよう」


 マグを窓枠棚に乗せて、私は義腕のトリガーを引き内蔵バッテリーの殻を外した。肘を伸ばし、右手の指であそびの部分を何度かほじくる。記憶解剖に情報が現れてしまわないように何も見ないで押し込んだものだから、眼の水晶体程の大きさのそれがマシンのどこに入り込んだのかを探し当てるのはなかなか困難だった。


「なんてところに隠したんだ」


 カオが笑いながら貝殻サイズの手元灯を差し込んでくれた。探し物が反射しないかと、彼の手が小刻みに明かりを揺らす。すると私が想像していたよりも遥かに腕の先端の方で、明らかに他と独立した樹脂製のケースが鈍く曲がった光を放った。ロビンたちにバレてはいなかったと、私は胸を撫で下ろしそれを引きあげる。


「断っておくと、これは公的な仕事の依頼じゃないの。知っての通り5課は解体された。訳があって、と言うのは私のある判断が彼らのポリシーに反したせいで、彼らの捜査に参加することを許されない身になった」


「見せて」


 カオの興味は既に私の手の中に向けられていた。ケースの摘みを爪で弾いて中を見たカオの表情が、怪訝そうな皺に歪み、そしてすぐに呆れたような無力な笑顔に移り変わった。いつでも笑い飛ばす用意はできていると言わんばかりに、背もたれに深く身をもたせかけて私の瞳をじっと見つめてくる。


「何かの、というか例の物騒な事件の証拠品のように見えるけれど。いいのかい、僕はまだロビン博士の部局外協力者だ。もし彼らがこれを探していたら、僕には君のことを話す責任がある」


 私が最適な返答を考えていると、彼は脚を広げて座り直した。ケースを持つ方の腕を肘おきの上に立てると、唇をうっすらと開けたままにしてそれを詳細に観察し始めた。個人の脳に適合した後のFWチップを実際に取り出してみるのは、カオにとっては初めてのことだったのだろう。口では話を続けながら、コンタクト型のルーペが彼の瞳の上に影を広げていく。金属針を覆うようにして脳内で適切に分裂した人工細胞が毛細血管を引き連れ、ぬらりと可視光線の波長ギリギリの暗い色を放っている。頭蓋の金属粉や体液が、蝶の翅の紋様さながらに細く放射状に伸びる筈のランビエ自己修復絶縁管に粘性を与え、何本かの束にしてしまっていた。


「構わないわ。そもそも、彼らはこの証拠品を私が持つ意義に気づくことはないと思うけれど」


 カオは少し身を起こして考え込んで呟いた。


「僕も分からないな」


「物理心理学を極めた私のような人でないと、分からなくて当然なことなのよ」


 カオは黙って頷いた。納得したと言うよりも、下手に踏み込んで私に幻滅しないために無意識に詮索を拒絶したと言うところだろうか。彼はそのまま、ケースごと中身を潰してしまわないよう丁寧に蓋を閉めると、窓枠棚のコーヒー入りのマグから1番離れた位置に寝かせた。


「僕の所見を述べるよ。これを洗浄するのは、それほど難しくはない。元の所有者、いや所有者ではないか。なんと呼べばいいか全く分からないが、とにかくこれが体組織の一部として埋め込まれていた人物の固有の細胞は剥がれ落ちてしまうだろう。だけれど、模造的な部品に関しては今以上の傷をつけるような事にはならないだろうと、そう思う。接着結合が脆いんで手動の操作が必要になるが、幸いこの部品が本来有している機構についてはセレストの有りとあらゆるデータベースにナノ単位で正確に記されているからね。ただ、それで意味があるのかどうかは君にしか分からないことだけれど......?」


「それでいいわ。あなたの推測通り、細胞を削ぎ落とした時にそれが持つ情報量が大幅に低下するのは事実よ。でもその持ち主はもう死んでいるの。彼が構築した細胞が残っていたところでもう何の役にもたたないから」


 カオは首を縦に振って再び深く座り直した。肩を私の方に寄せて、窓の向こうで螺旋状に輝く文化地区の夜景に目をやった。私も彼と同じ方を見る。彼が言いたいことはなんとなく予想がついた。どことなくロビンに似た、自己の確たる正義感を抱いた優しい人だ。


「僕は1人ミケルが死んだ理由を暴きたいと、正義感を拗らせて政府のあちこちを駆けずり回った。それが今や明確な殺人性が認められて、その思いは更に強くなっている。その助けになるのなら、もちろんこの依頼は受けさせていただくよ。だけどその前に、君はこの道から自由になった。情報総局の判断は、君のことを考えての事のように僕は感じるんだ。君は十分な貢献をして、捜査の段階はこれ以上君が身を汚す必要がない所にまで達した。それでも、これからも捜査を続けるのかい?」


「もう捜査じゃないわ。個人的な信念よ」


「そうだったね。なら君のその信念に従って、最終的に目指すところは何なんだろう。自分のことを棚に上げていると非難されるのを承知で、恋人として言わせてくれないか。僕は君の人生を狂わせるような事に加担したくないんだ。今の君を見ていると、僕の経験が警告を鳴らすんだ。君はまだ、文書課に侵入して逮捕された、あの晩と同じ目をしている」


 カオの柔らかな手が私の頬に触れた。私の耳の下をなぞるように動き、束から溢れた髪を掬い上げる。私は瞳が泳がないように気をつけながら、渇いた口で息を吸った。


「あの日と同じなのは、なにも私だけじゃない。今度は合法的に彼らと行動を共にしてみたわけだけれど、政府は完全な無実。彼らはまたしても何も知らなかった。それに......」


「それに、ゾフィーの死の真相も明らかになっていない。なるほど、君の成すべきことはあの日からずっと変わっていないわけだ」


 成すべきこと。その文字列に何故か胸騒ぎを覚えて私の中から次の言葉が消え失せた。沈黙の中、カオが諦めたように私を見つめ、ため息を吐き、ぐしゃりと表情を崩した。


「分かったよ。君は成し遂げる人だ。この方法が君自身のためになると信じるし、その助けになりたい。いいかな?」


「いいの?」


「無条件とは言わないよ。君の主観を作り上げる信念には、僕はまだ共感できない。それが君の理性を打ち破るほどのものである理由を知る努力をしたい。君自身のことをもっと知りたい」


 彼の息が私の鼻をくすぐる。彼の突然の告白に何も言わずに頷くと、近づいた顔に悪戯っぽい笑顔が浮かんだ。彼は流し目で窓枠に置いたFWチップのケースを見る。


「あれだけど、明日の明朝でいいかな」


 私はカオが今まで演出していた重苦しい雰囲気が馬鹿らしくなり、あまり息が漏れないように気をつけながら笑い声を上げた。背中が肘掛けに当たり、私の手は支えを探してあたりを弄る。不安定に置かれたマグに指がぶつかり、カオの手が慌てて私の指を掴んだ。


「見事な誘導ね」


「まったく、全部僕の本心なんだけれど」


「明朝でいいわよ」


「本当に、久しぶりの家に帰らなくていい?」


「どうせ誰も待っていないし」


 私の指を握っていた手が離れて、彼の影に隠れて何度か揺れた。大窓から差し込んでいたドックの絢爛な灯りが、繊細なレースを透過してカオの横顔をほの赤く染めた。


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