第4章 5人の標的達

第27話 囮作戦を続行させよ

「君がワタナベと戦うのはまだ早い」


 事件から丸一日。疲れた様子を見せないペトレンコ経済金融担当委員が、隣の席から上半身を傾けて私に耳打ちした。


「というと」


「内務総局の例の報告書を読んだ。保安局の潜入班が手違いで君の潜入部隊を拘束しようとしたとか。いやいい、君の憤りは分かるが、君の部隊は非公式で、かつあちら側が殉職したとなれば、勝ち目はないだろう」


「助言ありがとうございます。心配せずとも、あなたに迷惑をかけるようなことはしませんよ」


「ならいい。ところで次期司法担当委員は、とうとう逃げ出したのか?」


「さあ」


 私は興味がないという仕草をしてから柔らかなソファに身を沈める。そして空席の目立つ司法部門のテーブルに目をやり、同じく副委員の動きを訝しむ仕草を見せていたリント委員と目線を交わした。リント委員も同じ考えのようだった。


 非着席討議の動議を提出するタイミングを合わせる為、ワタナベ委員の方に合図を求める。しかし彼女はなにやら保安局の職員から報告を受けていてこちらを向く気配もない。水を口に含んで、会議延期を告知する議長の声を聞き流しながらワタナベの手が開くのを待っていると、事件とまったく無関係のペトレンコがまたもや声をかけてきた。彼はケベデの死を、退屈な委員会に何百年ぶりの司法部門への非難動議という展開をもたらした、劇薬の一種だとでも思っているのだろうか。


「委員長も、早く決議を取ればよかろう。民間に犠牲が出たのだ、もはや司法部門の連中も君らの特命調査を受け入れるほかあるまい。なあ?」


「しかし襲撃を予測していたとなれば私の責任を問うことも容易いでしょう。ペトレンコ委員、暫く私から距離をとったほうがいいとだけ伝えておきます。外部調査を一度受け入れたところで、司法部門は必ず攻勢に移る」


「しかし、天下の諜報部を従えた君なら、司法担当委員の弱みの一つくらい握っているだろう?」


「その分自分の弱みも理解しているつもりですよ」


 ペトレンコは暫く考え込んで、筆記フィルムに何やら書き込みそれを背後の職員に手渡した。そのメモは不透明な赤茶色の封筒の中に折りたたんで仕舞われた。そして議場の外縁を周回する職員の手に渡り、どこに誰のメモが届いたのか分からないように議席の間を移動する。その職員の動きを目で追っていると、今度は私の元にメモが届いた。内務総局のテーブルからだった。


--反対票を--


 議場の反対を見る。ワタナベは相変わらず草案の確認でもしているのか、こちらを見る気配はない。フィルムから文字を削除し、非難動議が誰かによって提出されるのに先んじて非着席討議の動議を出したい意向と、司法担当副委員の所在を尋ねる単語を並べてから封筒に戻した。


 幸い議事進行は滞っている。司法総局に対する特命調査の賛成決議を取ろうとしたところで、今度は私の直属部隊が作戦に失敗したのだ。ストレンジのことについて、まだワタナベから詳しい説明を受けていない。全てが明らかになるまでここは下手に動かず、彼女の返事を待つことにする。




「失礼、委員に呼び出しです」


 リント委員が立ち上がり、現行の公開討議も区切りがつきそうだと皆がテーブルの仕切りの中でざわめき始めたちょうどその時、私の背後から部下が新しいフィルムを差し出してきた。


「ワタナベか?」


「ロビン事務官が外で」


「ロビンが?」


 私は掌の中で巻物状に丸まっていたフィルムを、傷をつかないように広げた。そこには消去可能なメモ書きの代わりに、検死官が使う検査結果表の抜粋が写されていた。客観項目と主観項目で区別されていることから、記憶解剖術の結果の概要であると分かる。


「それで、何でした?」


「ラフカ博士の記憶解剖結果だ。ロビンにすぐ向かうと伝えてくれ。それからコピーをワタナベに」


「了解しました」


 私は再び表に目を落とした。総合評価はラフカが本作戦中に取った判断の合理性を肯定している。ストレンジの裏切りに気づき得た時刻、潜入班員との戦闘の主観的必要性を認める数行の所見。ケベデの護衛と煽動犯との接触というポテンシャルが同等の選択肢に直面した際の、情動変化の報告値にも異常性はない。もし仮に旧5課長の意思決定に司法総局が文句をつけてきたとして、この私の要望を詰め込んだあまりに美し過ぎる報告書を提出しようものなら、それは寧ろ私の首を絞めつけることになりかねないだろう。


 フィルムを更に広げる。省略されていることを願っていた不審点の項目には、びっしりと解析結果が記されていた。監視映像解析部から口頭でも報告を受けていたが、ラフカ博士は作戦中に気になる言葉を発している。煽動犯の裏切り者。彼女の記憶装置の中ですら、その言葉の宛先はどこにも痕跡が残っていない。加えて、ラフカが何かしらの幻聴か、或いは煽動犯と推定される存在からの知覚できる接触を受けたとして、それがどのようなものであったのかを記録しようとする素振りが確認できていない。囮作戦を発案したラフカ博士が、それを検証したり記録したりしようとはしなかったこと、言わば作戦が成功した状況を冷静に受け入れていることに驚く。


「委員、ロビン事務官が」


 突然、先ほどフィルムを持ってきた部下が私の耳元で囁いた。そしてそれを大きく上回る声で、ロビンの怒りと戸惑いに満ちた声が響いた。議場の中心から注意が出される。


「ジュラ・ホーン、あなたに確認したいことがあるんだが、今すぐに」


 ペトレンコが興味津々な様子で手鏡に私たちの姿を映しているのを見て、私は立ち上がりロビンを外に連れ出す。副委員が頷いて席を詰めた。司法総局の副委員も不在なのだ。非難動議が出されない限り、私が居ないところで委員長も何も言わない。


「それ程の重要事項は見当たらないように思うが」


 明かりの消えた文書室に身を隠して、ロビンに続きを促す。


「補足欄には目を通しましたか?」


 私はフィルムを完全に広げ、右下の隅を指差した。


「FWチップの......適合性?」


 見慣れない項目に首を傾げていると、ロビンが独断で追加調査してもらったのだと説明をした。欄内に印字された不適の文字の意味を問おうとしたが、ロビンは私の両肩を掴んで、今にも嘔吐しそうな青白い顔でなんとか言葉を捻り出そうとしていた。


「俺たちは翻弄されていたんです」


「......それは、誰に?」


「ミケル殺害事件を追い、エドメを確保し、情報流出の可能性にたどり着き、ケベデ暗殺の作戦を知った。進展があるたびに、ラフカ博士を囮にする当初の作戦は、いつのまにか俺たちの中で自然消滅していた。だがそれは仕方がない。煽動犯との接触を認識しているエドメが俺たちの目の前に現れたんだ。ラフカ博士が危険を負う必要性は当然に無くなったものだと思っていた。ただ1人、ラフカ博士を除いて」


 演劇の議場を囲う廊下に、自省しているかのような重苦しい声が反響する。


「ラフカ博士が現場調査を熱心に行わなかったのには理由があったんですよ」


 ロビンの視線が床に落ちる。


「打算があった。おそらく、初めてケベデに会ったあの日に」


 ケベデに彼らが初めて会った日。その日、ラフカ博士はゾフィーの研究室を訪ねて、そして囮作戦を思いついた。


「ラフカ博士のFWチップは、彼女のものではない。それは、ゾフィー博士が生前コピーしたものだ」


「待て。そんなことが可能なのか」


「不可能だと博士は言った。だがそれは嘘だった。全く異なる予測演算に基づき、全く異なる刈り込みに対応し、全く異なる戸口を開いたチップを、ラフカ博士は装着して、今まで平然と俺たちを欺いていたんだ。彼女は物理心理学上唯一残された個の証明要素を、他人の理性で上書きしようとしたんだ。何がそんな決断をさせたんだ、俺が信用した博士は一体誰だったんだ?」


 ロビンは私から手を離して距離を取った。私は彼の気の触れたような報告にただ呆然としていた。それを察したようで、ロビンは私に軽く謝って、今度は私への要件を端的に述べた。


「ジュラホーン、あなたがラフカ博士を招聘し、彼女の意思に拘り続ける理由に、この事態に発展することが当然に含まれていたのかどうか、確認したい。あなたの意思でないのなら、俺は前5課長として、彼女を情報総局に迎えることを拒否する」


「......いや、含まれていない」


「そうですか。分かりました、ラフカ課長にそう伝えてきます」


 立ち去ってゆくロビンの背を見ながら、私は側でメモを取っていた部下に無意識に命令していた。


「ピカを呼べ。ロビン待て、この囮作戦を続行させる」




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