第31話 何も憶えていない

 聞き取れない譫言を繰り返しているピカを抱き抱えて、ソファに座らせる。部屋の奥には、ピカが昨晩好き勝手に過ごした形跡が残っていた。脱ぎ捨てられた上着と椅子の足に踏みつけられていた毛布を肘置きにかける。ピカの寝息を確認して、モジュール越しに感覚が鋭利になった指先を鈍く緑に輝く髪に潜らせる。


「ペグ、ウサギの演算能力を借りて、解剖のアシストを」


 外部記憶装置に接続するターミナルにファイバーを近づけると、先端にカメラが取り付けられた稼働骨格が獲物に行き当たった触角のように引き付けられた。そしてピカの耳の裏を暫く這ったのち、私の意思に反抗してあらぬ方向へと折れ曲がった。


--外部記憶装置のクリーニングは専門の医療機関にて匿名申請することが可能です。個人情報保護規約と政府公認クリニックのリストを--


 不愉快な思い出を蘇らせる機械俳優の声がしたのは、部屋の天井からだった。u-SAG1のシステムに侵入できるのは、同じプシケ社製品であることを考えれば自然なことか。


「私は資格技師よ。覚えてないかしら」


--アラート--


 ペグの音声が中断し、ターミナルの周囲がかすかに赤い光を纏う。


--申し訳ありませんが、プログラム上の制限によりあなたの行動を承認することができません。マスターから2メートルの距離をとってください--


「ピカは薬で眠っているわ。この状態であなたに何ができるの?」


--3秒以内に距離をとってください。保安局に通報します--


 私はピカの首に指を軽く押し込んだ。あどけない口が私を嫌悪するように歪み、思わず顔を背ける。今ならまだ止めることができると不意思が形成される萌芽を予感する。しかし私の裸にされた理性は最早その手を止めようとはしなかった。一度裏切った関係であるのだから、もう壊れてしまって構わないと、これまでのありとあらゆる経験で刈り取られたシナプスが自由意志を装った意思決定プロセスを創生した。生体の神経が断絶した先の、セラミックとチタンに覆われた新しい肉体はまるで私の一部分では無いかのように振る舞った。とどめを刺すように、ペグのアラートが沈黙した。


「悩まないで」


 今更ロボットごときが、人間の意思力の弱さを知らしめるなんて。


「ペグの判断が遅ければ、マスターに危害が及ぶわ。通報せずに、記憶装置の保全を実行し、知覚データのレコーディングを停止させて」




 ペグの指令によって部屋の壁紙の表面で砕け滴っていた小雨が止み、解析官のゴーグルに展開されるものと同じ、網目上のグラフが6面、互いに絡み合うようにして組み上がった。穏やかな寝息を立てるピカの意識レベルに気を払いながら、脳内信号傍受の機能を止めて、外部記憶装置側から現在の知覚データの反映を拒絶する。脳の局所毎にポイントが振られたグラフは死に直面したかのように痙攣し、それから単調に広がって静かに停止した。


 記憶装置には、統合された主観経験のシミュレーションデータは保管されていない。主観的経験の統合と、記憶想起機能との間で、生の脳との棲み分けがされている為だ。合理的意思決定の補助を主眼に置いたペグは当然のことながら、私の左脳のような古典コンピューターでは、脳への到達時間や処理時間がミリ秒単位で異なる五感それぞれの情報を時間的に統合し、物理的に単一の記憶再現として一つの映像にアウトプットする際に生じる誤差を修正することはできない。悩んだ末、視覚映像と音声記憶のみで構成されたグラフに描き直す。そして指定条件に沿ったデータ抽出の為の、別の人工知能プログラムがインストールされる約5分を待つ。


 待機状態が解除された。


 抽出対象に次の単語を羅列する。エドメ警部補、ストレンジ、煽動犯、ラフカ......。私の外部記憶装置からペグとウサギに向かって、エドメやストレンジの映像情報が送信される。側頭部に鈍い頭痛を感じ、私はそれ以上の条件を与えることを断念した。


「解剖を開始して」


--マスターから距離を取ってください--


 ピカの姿勢を整えて、腕から伸びたコードが場面から離れない程度に後ろに下がる。薄い膜に縞模様が浮かび上がる。


--500時間前を起点に--


 まるでピカの脳があやふやになった記憶をなんとか捻り出そうとしているかのように、条件に合致するデータが相当に凝集した単位時間が示され、大雑把なグラフが複数表示される。最も現在に近いものを指定すると、眠気が頂点に達した時に見るような抽象的なイメージがシミュレートされる。


「......だめ。私が写っているものは排除して」


 ヒルベルトホテルでの襲撃事件が発生したのちの記憶を知りたいのだ。ピカはエドメに対する尋問は勿論のこと、ストレンジの検死にも立ち会ったはず。なぜそれが無い?


 今度は132時間前を起点に。条件をリセットし、連続的な時間軸に沿って再生させる。


 展開していた映像がペグによって閉じられると、時間を示す数字が視界の隅で遡る。そして起点に達し激しく動き回り始めたグラフを再び不明瞭な膜が覆った。最初にシミュレートされたのは文脈を省略した視覚映像だった。


 外部記憶装置が傍受する信号の基礎となるものは、視床で入力された元のデータが外側膝状体を経由し、さらに非必須のアミノ酸によって不要部分が削ぎ落とされたものだ。ピカの視線は非連続的に移り変わる。触覚などの知覚に頼らずに単純に選別された映像だけが、現実とは異なる彩度でデフォルメされて中心に浮かび上がる。黒い部屋に、交互に映る大柄な人影、それが反射する一枚のガラス板。その向こうでピントが合った1人の黒髪の女と、尋問されているエドメ。


 次いで、文字の線や点の位置がある程度正常に保たれた高次皮質での信号や、正面から見た時のみ記録される不気味な人物像が重ねられていく。


 最後に、時間的な揺らぎを修正した視覚映像を追いかけて、視覚情報に比べればまだ明瞭さを保った聴覚情報が再生された。


--ひょうてき......--


 私はこの音が嫌いだった。言葉の意味を捉えようと耳を澄ますほどその記録としての不明瞭さが際立ち、頭の奥をむず痒くさせる。しかし早送りしているうちに、おそらく今回だけの違和感を捉えた。そしてひとつの雑音とその後の音の構成の変化によって、その違和感は確信へと変貌した。


「消されている?」


 ピカの外部記憶装置は淡々と時刻を示す数字を吐き出し続けているが、それが今私の目の前で何かしらの動きを見せている全てであった。


「ロビンが......?」


 夏虫が鳴くような音を繰り返して、スクリーンの表面では黄色いシミが広がったり狭まったりを繰り返している。記憶装置のターミナルを確認しようとピカに近づくと、ペグが耳を突き刺すような警告音を立てて私を制止する。


「まって、待って。ピカには手を出さないわ」


 ソファの足元に膝をつき、接続を確認する。接続は正常だ。u-SAG1のタスクを表示する。記憶統合の処理以外に何かを行なっている解析はない。


「私がピカに、こうすると......?」


 バレている。それを認識したと同時に、私の頭から色が消えていくのがわかった。最悪のタイミングで、ロビンたちは私の理性を再び呼び起こした。早鐘を撃つ鼓動を右手で必死に押さえつけながら、まだ機械の不調のせいである可能性があると自分に言い聞かせる。


「ペグ......!」


 ピカの記憶が保全されていることを確認し、一度演算結果を全て消去する。


「再演算を」


 ペグは大人しく私の依頼に従った。壁にリアルタイムのレポートが大きく表示され、中央に白い枠が浮かび上がる。データ抽出に使用する条件を求めている。私は乾いた唾が糊のように張り付いた舌に力を込めて発音を試みる。 




 私のコマンドは聞き入れられなかった。ペグは私の恐怖支配の手を逃れ、もう一度500時間前を起点にグラフを展開し始める。そうして私の知らない条件に沿った調査を行い、最終的に残ったものはたったひとつだった。電気信号の発生地点毎に配置されていたデータが、視覚映像のデータに捕食されるようにゆっくりと統合されていく。映像が読み込まれ、それを表示するために壁一面に黄色い靄がかかり、浮かび上がった黒ずんだ縞模様が人間の形に収束していく。背景の抽象イメージは、何処だろうか、複雑な緑が混ざり合っている。視点はZの文字を描くように、プランターやしな垂れた葉の並ぶ壁を伝って動く。昼過ぎを指した時計を見て、解読不可能なタイトルを帯に記した本の列を注視して、そしてピントが外れるとそこには右半分が白く、左半分が黒く霞んだ女の顔があった。


「......!」


 私だ。私の醜い顔がこちらを見つめていた。瞬間色が反映される瞳を除いて、その目は虚に落ち窪んでいる。皮膚は焼け爛れ、こと左側に至ってはそのイメージが輪郭を伴っていない。そして何よりその生気の無さと、酷く歪んだ口元から発せられているであろう怨みの言葉。醜い。


「酷いことを」


 解剖対象の記憶は500時間よりも遡れない。彼女が見たのは、私の実像では無い。私が彼女に会っていた時間でも無い。おそらく私の肖像。それでも空気が吸えない。今の私は、こんな風に見えている。


 気がつけば、ピカからコードを引き抜き、記憶装置のログを必死になって消去し、洗面台に立って電解液に触れた腕やモジュールを塗装が剥げるまで擦り洗っていた。そうして何ひとつ物証の残っていない身体で、清潔な部屋へと戻った。


 涎を溢しながら深い眠りに落ちているピカを見ていると、本当に何も知らないのではないかと思えてしまう。明日、全て謝らなければ。私の過去を全て話さなければ。例え理解を得られなかったとして、このまま互いに道を違えてしまうのは耐えきれない苦痛だ。温いピカを抱き寄せ、朝が来るのを待った。

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