第25話 取り返しのつかない

「ゾフィー......?」


 私は水面の揺らぎが反射する白衣の背中を見て、これが以前見た夢の続きだと直感的に理解した。いや、正確には、以前見た夢の続きだという設定を内在した新しい夢で、以前見た夢がどんな物だったかは全く思い出せる気配もない。


「いったい何だったのかしら」


 ゾフィーは膝下まで水に浸りながら、さっきまで水槽があった場所を手で掻き回していた。ガラスの破片を拾い上げて、気をつけてと私に言う。私はそれに頷いて、しばらく蕩ける頭で記憶を整理し、なぜ今夢を見ているのかを思い出した。


「ゾフィー、今夢を見ている暇はない。ここから出る方法は?」


「そうね、取り敢えず外に出ましょうか」


 ゾフィーは私の言葉を聞いているようで、聞いていなかった。うまい具合に私を見ないようにして、ハーフミラーの扉の前まで移動する。私は彼女が完全に背を向けたのを見て、使えそうなガラス片がないか辺りを探した。しかしそれを拾おうとすると、ゾフィーの手が驚くほどの強さで私の腕を掴んだ。私は彼女に従うしかないようだった。


 扉の向こうはCMFの文書課のオフィスへと繋がっていた。FWの機械学習に使用された市民追跡データが左手から年代別に保管されている。敷居を越えると、オートロックの扉が後ろで閉まった。


 先ほどより幾分かマシだが、相変わらず靴底が水に張り付く音がする。ゾフィーには、フィルムが濡れているかもしれないという心配はないようだった。


「今夢を見ているか、という問いだったわね。そしてこの空間は、ラフカにとって疑わしいものでもある。ところで夢ってなにかしら。なぜ夢と現実を区別するの?」


「その問いは......意地悪ですね。統合された経験であれば、眠っている時の夢と現実の中で経験する幻覚、さらには客観的な情動の揺れというものを区別しない。そう教えてくださったのは教授です」


 傾いて掛けられていた時計の角度を直しながら、ゾフィーは講義室最前列の学生を虐めるときの口調で私の答えを批判した。


「質問しておきながら、優等生ぶって考えるのを諦めない。あなたの主観は夢と現実の違いをわかっているでしょう?」


 部屋を満たしていた青く濁った水が静かに本棚の下の隙間に吸い込まれていく。


「質問したのは、今の私にはその区別が付かないからです」


「あら、ならここは現実なのかも。ほら、考えないと。頭を使って?」


 ゾフィーの皺だらけの顔に、私の覚えていない悪戯っぽい笑みが浮かぶ。真面目に答えなければ、この夢は終わらない。


「ある部分では、この夢は現実の反映だと思います。ケベデの執務室に居るのは、今さっきまで彼の命が危なかったから。私が現実の知識を持ち込めているのは、きっと応援に来たロビンたちが外部記憶装置の解剖をしているから。ゾフィー博士、あなたが毎回現れるのは」


 私は一瞬その先の言葉に詰まった。


「あなたの死が私の心に消せない傷をつけたから」


 予想外にも、ゾフィーの表情が翳ったような気がした。私は答えの続きを胸の中にしまった。しかし彼女は左の書架の間に姿を隠してしまった。私はそれを追って一つ奥の列へと進む。たとえここが夢の中だとしても、ゾフィーの口から何かが語られることを期待して。


「人が夢を夢と気づくのは、そこに嘘が含まれているからよ。気づくのはいつも、夢から醒めた後だけれど」


 ゾフィーはまたもう一つ向こうの通路へと姿を消してしまう。


「ならば、私はここでは生きている。そうよね、ラフカ?」


「私がそう願うから、そんなことを言うんですか?」


 返事はなかった。すぐに、口に出してしまった言葉を後悔する。彼女がもう現れなくなるのではないかと焦り、いつもより遥かに重たい足をできる限りの速さで動かす。


「ラフカ」


 彼女は消えていなかった。困惑した様子の彼女は、先ほどまでの会話が全てリセットされた人工知能のようだった。そして、ひどく若い姿で立ち尽くしていた。私と初めて出会った時のような、孤独で、か細いシルエットが書架に投げかけられていた。


「私のことを拒まないで」


「どうして」


「一瞬でも、拒まないで。また会えるかどうか、全てあなたに委ねられている」


 誰かが、文書保管庫の扉を強く叩いている音がする。気を取られて先程までいた方を見ると、3つ進んだ書架の前で、背の少し曲がったゾフィーがこちらを見ていた。


「最初の質問の答えを言いましょう。夢と現実の違いは、精神場理論の原則の不確定性よ。夢は一方的な経験の統合作用。ここでラフカの理性は働かない。夢の中で一度思いついたアイデアは、待ったをかける前に取り返しのつかない結果と成り果てる。だから、決して私のことを疑わないで」


 扉を叩く音はさらに激しさを増していた。拳で殴りつける音から、重量のある何かがぶつかって蝶番が歪む音に変わる。間に合わないと思った瞬間、私の体がゆっくりと出口の方へと歩き始めた。ゾフィーが操作盤に手を触れる。その瞳は私の明確な返事を求めている。


「あなたは私、拒みようがない!」


「その通りよ、それでいい」


 扉の枠に青い筋が浮かび上がる。気圧差に押し出されるように、私の体はゾフィーの虚像の横をすり抜ける。その時、彼女の口が何かを付け足すように動いた。


「それから、ケベデが死んだ。気をつけて、あなたが成すべきことは変わった」

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