第23話 最悪の内通者
「ロビン、私閉じ込められたみたい」
ライトを素早く乙の字に動かして、人が通れる出口が無いことを理解した。左目のペグは血痕の追跡に夢中になっていて、通信要請に対してはうんともすんとも言わない。
操作盤を強く押し込むと、中央管理中の報告と共に、忙しなく動く眼球の立体イラストがほの赤く浮かび上がる。マスターが搭乗していることを認識したそれは、管理者にドア開放を具申した。しかし手応えがあったのはそこまでだった。ロビンとの通信が遮断されているのだ。その他の操作を試す価値はなかった。
「それから、例のプシケの社員が殺されてる」
籠の中には、私の銃から拡散する光線以外に灯りと言えるものは存在しなかった。このことは、エレベーターの稼働系はもちろん、加圧センサーや外部からの監視システムの全てが沈黙していることを示していた。
「このセンテンスが届いたら、すぐに本隊をケベデの警護に回して。私たちの監視網が破った奴がいるみたい」
古い死体と同じ空間に2人きり。私はペグに録音終了のコマンドを出し、細い息を吐いて心拍を整えた。ペグが安定剤の投与を勧めてきたが、私はその意思決定回路の計算に嫌なジンクスを予感して断った。エレベーターという空間、禿男、この環境でマシンが私の理性を少しでも弱めようとするならば、その計算はこちら側を嵌めようとしているものに違いない。幸い無口なペグは2度目の提案を寄越してくることはなかった。その代わりに、刑事捜査プログラムが視界情報による現場解析を切り上げ、視界に重ねて殺害状況のシミュレーション映像を構築し始めた。
「ええ、分かってる。見るわ。見慣れたものよ」
振り向いて、男のつま先を見る。濡れたコートがあまりにも動く度に気味の悪い音を立てるので、私はそれを脱いで男の胸に開いた裂け目を隠そうとした。しかしペグの報告に手が止まる。男の服の破れに沿って、損傷部位と凶器の種類番号がバウンドしている、その上に「懲罰的」の文字。
「懲罰的?」
私の問いかけにペグが再評価を開始する。
「確かに。でも憎悪的でもある」
鈍い刃物で叩きつけられたような裂傷が11か所、小型ナイフでつけられた傷が3か所。いや、頭部のそれ以外はヒールで踏みつけられたのだろうかと、スケルトンの犯人像がバグのように入れ替わりながら点滅する。確実なのは、生身の人間による犯行ではないということと、凶器を滅失させるのには困難が伴うであろうこと。ただ、犯罪データベースにアクセスできない状態で、ペグがいくら義体による損傷を分析したところで信用に足る結果は出ない。一度立ち上がり過剰に分泌された生唾を飲み込む。
「それで、ロビンとの会話に割り込んできたのは、あなたじゃ無いでしょうね」
禿男の口は閉ざされたままだった。
嗅覚器をシャットダウンして顔を覗き込むようにしゃがみ込むと、両耳の上には他と違って切り付けられた痕がある。何をするべきかのイメージが湧くとともに、無意識にそれをやらない理由を探す。しかし既に自分の手がべったりと汚れているのが目に入り、心を無にする。目の前にあるのは、炭素とチタン合金で構成されたただの証拠品にすぎない。治癒ファイバーで硬くなったシリコン材を力いっぱいに引き剥がすと、ラメの入った温い電解液が手を濡らした。外部記憶装置は抜き取られていた。傷を少し後ろに広がると、FWチップが機能を停止してチタン製の後頭骨にこびりついていた。触覚情報をもとにペグが情報を追加した。死後1時間以内。
「まあ、そんなわけないわね」
壁に描かれた12文字をライトで照らし、もう一度、声に出して読む。直感的に、私個人に向けたものだと分かった。暗号解析官を呼ぶまでもない。
「ここに留まれ。そういうことでしょ。煽動犯からの警告か、あるいは何かのテストか」
或いは、安全という言葉に何ら特別な意図は込められていないとか。そのままの意味で解釈することは可能ではないか。禿男の死は、私に信用を求めるために作った証拠。つまりここにいたのは、私の足を止めたい煽動犯ではなく、私を守りたい誰か。
情報が足りない。状況を俯瞰して、読み取れる事項をリストアップしていく。彼を殺したのは、彼が私を襲ったことを知る人物。血で文字を書くような趣味の悪いそいつは、身長160センチといったところか。ペグが文字のコピーを撮る。筆跡は活字体で、指紋や義指の識別紋はない。
「煽動犯じゃないとしたら、あなたは誰?」
返事はない。しかし先ほどロビンとの通信を乗っ取って誰かが語りかけてきたのは確かだった。堂々と形に残る犯罪をしてのけたのだ。逮捕の恐れのない保安局員だろうか。ワタナベが私を切って誰かを雇ったか。そうすれば、禿男について情報を持っていてもおかしくはない。動機に矛盾が生じるが、煽動犯以外にこのメッセージを私に残しておくことができるのは、それ以外にあり得ない。
「いや......」
本当に確かだろうか。その前提を疑ったから、今私はこの場所にいるのではなかったか。湿った手で後頭部をまさぐる。
「FW......ペグ、さっきの音声を再生して」
応答は無かった。
私の中で一つの確信が湧き上がった。通信が途絶えたように見えるが、今も一方的に、誰かに見られている。
「YOU CAN」
もう一度声に出して、読んでみる。
「私の意思に委ねるのなら、お願い」
指先から垂れ落ちた禿男の血が、搬送レールの敷かれた金属床で静かに砕ける。私は数秒間、目を閉じて耳をすませ続けた。息も止めてみる。それでも、先ほどの声はしなかった。しかしその時、エレベーターの搬入口の向こうで、少しくぐもった、聞き慣れた小煩い俳優の声がした。
「マスターの異常を検知しました。安全を報告してください」
ロビンが配置していた監視ドローンだ。重たい扉を樹脂製のハンマーで叩きつける。エレベーターの操作盤から不気味な目玉が消えた。操作権限が移転した。壁の中で扉に取り付けられたモーターの駆動音が響いた。
「いいえ、このまま上に!」
私は声を張り上げる。ハンマーが止まる。
「上に上げて。私はチャンスを逃したりしない」
制御盤が緑の光を帯びた。軽い振動に、男の首が不安定に揺れた。そして私を閉じ込めていた籠は、ケベデが立つ舞台のすぐ後ろへと、上昇を始めた。
「お返事ありがとう。煽動犯の裏切り者さん」
否定辞の代わりに、籠は乱暴な音を立てて停止した。血文字の描かれた壁に3本の溝が浮かび上がると、それは私の目の前で勢いよく折り畳まれた。橙の照明が逆光になって、1人の人物の影を浮かび上がらせた。
「博士、遅かったので心配しました」
シャニーアが私に波長を変更した受信機を渡してきた。私はそれを受け取って腕に填め込み、間髪を入れず訊ねる。
「シャニーア、どうしてここに?」
「強行的に会見が始まったので、張っていた警備隊が客席に。それよりも、そのお召し物は、もう煽動犯を仕留めたとか?」
礼服に身を包んだシャニーアが私の背後を覗き込もうとする。私はそれを静止してくるりと後ろを向かせると、横に並んで彼女のゴーグルに触れた。
「そのまま向こう向いて。リストは?」
「ん、確認しました」
「舞台に配置されている警備隊員から、ここからは作戦通りに」
「了解」
私は舞台裏を通り警備システムの中央管理室へと向かう。私には、警備隊員の追跡やケベデの護衛よりも前に、やらなければならないことがある。禿男を殺した犯人はこのフロアに実在していたはずだ。ボンベや古典オペラの機械仕掛けが雑多に押し込められた通路を突き進む。すれ違う警備隊員はいない。ホールでのピンポンボールのようなやり取りが反響板を震わせる。
「私の質問はそれほど難しいでしょうか、ミスター・ケベデ」
「この場は公聴会ではありませんので、公共性のある......」
「我々が望んでいるのは技術者の謝罪会見ではない!」
「であれば、その質問に関しては広報官から......」
「いやいや、FWの機能制限について、政府の正統性に問題がある可能性を問うているのです。物理心理学がどうであるとか、そんなペテン師ならばあなたはFWの責任者に相応しくない。我々はいつだって理性的だ。疑うべきは、FWのシステムよりももっと根源的に......!」
理性とは、正しい情報が与えられた中でしか正常に働かない。彼らはここで何が起きているのかについて何も知らない。だからこそ彼らの仕事があるのだから面白い。そんなことを頭の隅で思いながら音響室の仕切りを潜ると、今までの騒々しさは嘘のように消え去った。
「ストレンジ隊長は?」
管理室の戸を開けると、潜入班の局員はひどく驚いた様子で私を見つめた。そしてその眉間の皺が深くなり、やや苛ついた声色で私のところまで詰め寄ってきた。
「博士、あなたを探しに」
「作戦を変更したんですか?」
「はい、いえ。本部からの連絡がなければ、ケベデ氏の警護が第一目標になる。プラン通りです」
局員の目が泳ぐ。私はそれを責めるつもりはないと言って奥へ進んだ。解析官の抱えているコンピューターの前に割り込んで、監視ドローンの映像記録を展開する。局員は慌てた様子ですぐ後を追いかけてくる。
「なにか?」
「煽動犯の共犯者が殺害された」
「エドメが?」
「いいえ、別の男です。失礼、荷解き場の動画はどこに」
「ええ、それは多分」
男は身を屈めて解析官のデバイスを奪いとった。やや手間取っているようだった。
「エドメは口を割ったんですか?」
「ええ、そのリストも渡すわ」
「お願いします」
6面の平面画像が回転しながら次々と切り替わっていく。私は背中越しにその様子を見張っていた。指令メンバーがそれぞれのデスクに向き直った時だった。シャニーアから通信が繋がった。
--博士--
私は視界の隅に意識をやる。
--ストレンジ隊長にリストを渡しましたか--
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