泣いて馬謖を斬る・空城の計

 魏の大陣容はととのった。

 辛毘、あざなは佐治、これは潁州陽※「櫂のつくり」(ようてき)の生れ、大才の聞え夙にたかく、いまや魏主曹叡の軍師として、つねに帝座まぢかく奉侍している。

 孫礼、字は徳達は、護軍の大将として早くより戦場にある曹真の大軍へ、さらに、五万の精兵を加えて、その力をたすけ、また司馬懿仲達は、総兵力二十万を、長安の関から外に押し並べて、扇形陣を展開した。壮観、実に眼もくらむばかりである。

 仲達軍の先鋒に大将として薦された者は、河南の張※「合+おおざと」(ちょうこう)、あざなは雋義、これは仲達から特に帝へ直奏して、

「張※「合+おおざと」を用いたいと思います」

 と嘱望して、自軍へ乞いうけた良将である。その張※「合+おおざと」を、帷幕へ招いて、仲達は、

「いたずらに敵をたたえるわけではないが、この仲達の観るかぎりにおいて、孔明はたしかに蓋世の英雄、当今の第一人者、これを破るは実に容易でない」

 と、今次の大戦を前に、心からそう語って、さてそのあとで云った。

「――もし自分が孔明の立場にあって、魏へ攻め入るとすれば、この地方は山谷険難、それを縫う十余条の道あるのみゆえ、まず子午谷から長安へ入る作戦をとるであろう。――だがじゃ、孔明はおそらく、それを為すまい。なぜならば従来の戦争ぶりを見ると、彼の用兵は実に慎みぶかい。いかなる場合も、絶対に負けない不敗の地をとって戦っておる」

 彼の言は、孔明の心を、掌にのせて解説するようだった。英雄、英雄を知るものかと、張※「合+おおざと」は聞き恍ほれていた。

「――察するに、彼は斜谷 (※「眉+おおざと」県(びけん)の西南三十里・斜谷関)へ出て、※「眉+おおざと」城(びじょう)(陝西省・郡県)を抑え、それより兵をわけて、箕谷 (府下城県の北二十里)に向うであろう。――で、わが対策としては、檄をとばして、曹真の手勢に一刻も早く※「眉+おおざと」城のまもりを固めさせ、一面箕谷の路には奇兵を埋伏して、彼がこれへ伸びてくるのを破砕し去ることが肝要だ」

「そして、都督のご行動は」

「秘中の秘だが」と声をひそめ、

「秦嶺の西に街亭という一高地がある。かたわらの一城を列柳城という。この一山一城こそまさに漢中の咽喉にあたるもの。――さはいえ孔明は曹真がさして炯眼ならざるを察して、おそらくまだそこまで兵をまわしておるまい。……のう張※「合+おおざと」。ご辺とわしとは、一方急に進んで、そこを衝くのじゃよ。なんと愉快ではないか」

「ああ。神謀です。たしかにそれは一刃敵の肺腑をえぐるものでしょう」

「街亭をとれば、孔明も漢中へ退くしかない。兵糧運送の途はここに絶えるでな」


(中略)


 誰をか向けん――と孔明の眼は諸将を見まわして物色しているもののようだった。

 と、その面おもてを仰いで、参軍の馬謖が、傍らから身をすすめ、

「丞相。それがしをお差し向け下さい」と、懇願した。

「……?」

 孔明は馬謖を顧みたが、初めはほとんど意中に置かないような容子であった。しかし馬謖はなお熱心に希望してやまない。――たとえ敵の司馬懿や張※「合+おおざと」がいかほど世に並びなき名将であろうと、自分も多年兵法を学び、わけて年も弱冠の域をこえ、なお何らの功を持たないでは世に対しても恥かしいと云い、

「量るに、街亭一つ守り得ないくらいなら、将来、武門に伍して、何の用に足りましょう。どうか自分を派遣して下さい」

 と、多少日頃の親しみにも甘え、ほとんど縋らんばかり熱望をくりかえした。

 馬謖は孔明を父とも慕い師とも敬っていた。孔明もまた慈父のごとく彼の成長を多年ながめてきたものである。

 もともと馬謖は、夷族の役に戦死した馬良の幼弟だった。馬良と孔明とは、刎頸の交わりがあったので、その遺族はみな引き取って懇ろに世話していたが、とりわけ馬謖の才器を彼はいたく鍾愛していた。

 故玄徳は、かつて孔明に、

(この子、才器に過ぐ、重機に用うるなかれ)といったが、孔明の愛は、いつかその言葉すら忘れていた程だった。そして長ずるや馬謖の才能はいよいよ若々しき煥発を示し、軍計、兵略、解せざるはなく、孔明門第一の俊才たることは自他ともにゆるす程になってきたので、やがての大成を心ひそかに楽しみと見ているような孔明の気持だったのである。

 ――で今。

 その馬謖からせがまれるような懇望を聞くと、彼は丞相たる心の一面では、まだちと若いとも思い、まだ重任過ぎるとも考えられたのであるが、苦しい戦と強敵にめぐり合わせるのもまた、この将来ある人材の鍛錬であり大成への段階であろうとも思い直し、その機微な心理のあいだに、自己の小愛がふとうごいていたことは、さしもの彼も深く反省してみるいとまもなく、つい、

「行くか」

 と云ってしまったのである。

 馬謖は、華やかな血色を顔にうごかして、言下にすぐ、「行きます」と答え、

「――もし過ちがあったら私はいうに及ばず、一門眷属、軍罰に処さるるも、決しておうらみ仕りません」と、きおいきって誓った。

「陣中に戯言なし――であるぞ」と、孔明は重々しく念を押して、かつかさねた。

「敵の司馬懿といい、副将張※「合+おおざと」といい、決して等閑の輩ではない。心して誤るなよ」

 と、くれぐれも戒めた。

 また牙門将軍王平に向い、

「ご辺は平生もよく事を謹んで、いやしくも軽忽の士でないことを自分も知っておる。その故にいま馬謖の副将として特に副えて差向ける。必ず街亭の要地を善守せよ」と、いいつけた。

 さらになお孔明は入念だった。すなわち要道の咽喉たる街亭附近の地図をひろげ、地形陣取りの法をくわしく説き、決して、進んで長安を攻めとると考えるな。この緊要の地を抑えて、ひとりの敵の往来も漏らさぬことが、長安を取る第一義になることである――と、噛んでふくめる如く教えた。

「分りました。尊命にたがわず死守いたします」

 馬謖は、副将王平と共に、二万余の兵力を与えられて、街亭へ急いだ。

 それを見送って、一日おくと孔明はまた、高翔をよんで、一万騎をさずけ、

「街亭の東北、その麓のかたに、列柳城という地がある。ご辺もそこへ進んで、もし街亭の危うきを見ば、すぐ兵つわものをあげて、馬謖をたすけよ」と、命じた。

 孔明にはなおどこやら安心し切れないものがあったのである。軍の大機を処す際に、ふとかすかにでも「私」の情がそれへ介在したことを、彼自ら今は意識してそこに安んぜぬものを抱いているやに思われる。


 街亭の要地を重視する孔明の用意は、それでもなお足らぬものを覚えたか、彼はさらに魏延を後詰めとして出発させ、また趙雲、※「登+おおざと」芝(とうし)の二軍をもそこの掩護として、箕谷方面へ急派した。

 そして彼自身の本軍は、姜維を先鋒として、斜谷から※「眉+おおざと」城へ向った。まず※「眉+おおざと」城を取って、一路長安への進攻路を切り拓かんとする態勢なることはいうまでもない。

 一方。馬謖は街亭に着くと、すぐ地勢を視察して廻ったが、大いに笑って、

「どうも丞相はすこし大事をとり過ぎる。山といっても大した山ではないし、やっと人の通れるほどな樵夫道が幾つかあるに過ぎないこの街亭などへ、なんで魏が大軍を傾けて来るものか。由来、丞相の作戦はいつでも念入りの度が過ぎて、かえって味方に疑いを起さしめる」

 そして山上へ陣構えをいいつけたので、副将王平はきびしく戒めた。

「丞相の令し給えるご主旨は、山の細道の総口を塞ふさぎ、そこを遮断するにありましょう。もし山上に陣取るときは、魏軍に麓を囲まれて、その使命を果しきれますまい」

「それは婦女子の見で、大丈夫の採るところでない。この山低しといえど、三方は絶地の断崖。もし魏の勢来らば、引き寄せて討つには持ってこいの天嶮だ」

「丞相は大いに勝てとは命ぜられませんでした」

「みだりに舌の根をうごかすのはよして貰いたい。孫子もいっておる。――是ヲ死地ニ置イテ而シテ後生ク――と。それがしは幼より兵法を学び、丞相すら事にあたっては計をこの馬謖に相談されておるのだ。だまって我が命令のようにすればよい」

「では、あなたは山上に陣をお構えなさい。てまえは五千騎をわかち、別に麓に陣取って、掎角の勢いに備えますから」

 馬謖は露骨に不愉快な色を示した。大将の威厳を傷つけられた気がしたのだ。その反面の心理には特に選ばれて主将となって来たことや、日頃から孔明の寵をうけているという気分が満々と若い胸にあった。壮気というべきみえ、衒気、自負があった。

 着陣早々、主将副将が、議論に時を移しているまに、早くも近郡の百姓たちが、この地方を逃散しながら、

「魏軍が来る。魏軍が来る」と、告げて行った。

 すわや。――猶予はできない。

 馬謖は、自説を固持して、

「山上へ陣取れ」

 と、指揮を発し、自身また、街亭の絶頂へのぼった。

 王平は手勢五千をひきい、頑として麓に陣した。その二人の布陣をくわしく絵図に写し、早馬をもって、

(直接のご命令を仰ぎたい)と、孔明のところへ訴えた。


(中略)


 このとき魏の司馬懿仲達の考えでは、まだ街亭には、蜀軍は一兵も来ていまいと観ていたのだった。

 ところが先発した司馬昭が、先陣の張※「合+おおざと」に会って、すでに街亭には、蜀旗翩翻たるものがあると聞かされ、

「それでは、自分の一存で、うかと手出しはできない」

 と、急遽引っ返して、父の仲達に、その趣を話した。

「ああ、さすがは孔明。――神眼。迅速。……もう遅かったか」

 仲達は非常におどろいて、しばし茫然としていた。


(中略)


「街亭を守る蜀の大将はいったい誰か」と、訊ねた。

 そして、馬謖なりと聞くと、彼はわらって、

「千慮の一失ということはあるが、孔明にも、人の用い方に過ることもあるか。山を守っている、蜀の大将はまさしく愚物だ。一鼓こして破ることができよう」

 と、よろこび斜めならずだった。

 彼は、張※「合+おおざと」に命じて、

「山の西、十里の麓に、蜀の一陣がある。汝は、それへ攻めかかれ。われは申耽、申儀のふた手を指揮し、山上の命脈を、たち切るであろう」といった。

 仲達が「山上の命脈」と見たものは、実に、軍中になくてはならぬ「水」であった。

 その水を、山上の蜀軍は、山の下から兵に汲ませていたのである。魏の張※「合+おおざと」は、仲達の旨をうけて、次の日の早天に、兵をひいて、王平軍の孤立を計った。すなわち山上の軍との聯絡を遮断し、同時に、魏軍が山上兵の水を汲みに通う通路を断つ行動に対して、妨害に出ることができぬように、その途中を切り取ったのであった。


(中略)


「なに、水の手を断たれた?」

 愕然、気づいたときは、時すでに遅く、以来、奪回をはかる度に、ほとんど算なきまでの損害をくり返した。日を経るに従って、山上の軍馬は渇に苦しみ出した。炊ぐに水もない有様で兵糧すら生か火食のほかなく、意地わるく待てど待てど雨もふらない。そのうちに、

「水を汲みにゆく」と称しては、暗夜、山を降りてゆく兵は、みな帰らなかった。討たれたのかと思うと、続々、魏へ投降したものとわかった。

 ついには、大量の兵が一団となって、魏へ降り、山上の困憊は司馬懿の知るところとなった。

「時分はよし。かかれ」

 魏は総攻撃を開始した。

「のがれぬところ」

 と、馬謖もいまは覚悟して、西南の一路からどっと下りた。司馬懿はわざと道をひらいてこの窮鼠軍を通したが、その大兵が山を離れるや初めて袋づつみとして殲滅にかかった。街亭の後詰にあった魏延、高翔は、すわと、五十里先から援けにきたが、その途中には、司馬昭の伏兵があり、また一面には蜀の王平も現われ、ここに蜀魏入り乱れての大混戦が展開されて、文字通り卍巴の戦いとなった。いずれが勝ち、いずれが負けやら戦雲漠々、終日わからない程だった。


 街亭の激戦は、帰するところ、蜀の大敗に終った。

 ふもとに陣した王平、後詰していた魏延、列柳城まで出ていた高翔など、一斉に奮い出て、馬謖の軍を援けたが、いかんせん、馬謖軍そのものの本体が、十数日のあいだ、山上にあって水断ちの苦計にあい、兵馬ともにまったく疲れはてていたので、これは戦力もなく、ただ潰乱混走して、魏軍の包囲下に手頃な餌食となってしまった。

 しかし、野にかけ山へわたって、戦火は三日三夜のあいだ赤々と燃えひろがっていた。魏延が馬謖の救出にうごくことも察知していた司馬懿は、司馬昭に命じて、その横を衝き、張※「合+おおざと」はおびただしい奇兵を駆って、

「蜀の名だたる大将首を」と、これもその大包囲鉄環のうちにとらえんとしたが、王平軍、高翔軍の側面からの援けもあって、遂に意を達するにいたらなかった。

 しかし魏延の軍も大損害をうけたし、王平軍もまた創痍満身の敗れ方だった。


(中略)


 この頃、孔明の立場と、その胸中の遺憾はどうであったろうか。いや、それより前に、王平の急使が街亭の布陣の模様を、書簡と共に図面として添えてきたので、彼は一見するとともに、

「あっ。馬謖のばか者」

 と、はたとばかり当惑の眉をひそめたのであった。


「あれほど申し含めたのに」

 と、事に悔いぬ孔明も、このときばかりは、

「馬謖匹夫。ついにわが軍を求めて陥穽に陥らしめたか――」

 と、惨涙独語して、その下唇を血のにじむほど噛みしめていた。

 長史楊儀は、まだかつて見たこともない孔明の無念そうな容子に、畏る畏る、

「何をそのように悵嘆なされますか」

 と、慰める気で訊ねた。

「これを見よ」と、王平の書簡と、布陣図を投げてやって、

「若輩馬謖めは、要道の守りをすてて、わざわざ山上の危地に陣取ってしまった。何たる愚だ。魏軍が麓を取巻いて水の手を切り取ったらそれまでではないか。いくら若いにせよ、こうまで浅慮者とは思わなかった」

「いや、それならば直ちに、私が参って、丞相の命令なりと、急いで布陣を変えましょう」

「さ。――それが間にあえばよいが。――敵は司馬懿仲達、おそらくは」

「でも、昼夜を通して急げば」

 と、楊儀が、軍をととのえているまに、すでに早馬また早馬が殺到し、街亭の敗れ、列柳城の喪失をつづいて告げた。

 孔明は天を仰いで痛哭した。

「――大事去れり矣。ああ、大事去る」

 と、そして、一言、

「わが過ちであった!」と、ひとり叫んだ。

「関興やある。張苞やある」

 あわただしく呼ばれて、二将は孔明のまえに立った。

「何事ですか」

「各々、三千騎をひきい、武功山の小路に拠れ。魏軍を見ても、これを討つな。ただ鼓を轟かせ喊声を張れ。敵おのずから走るであろうが、なお追うな、また討つな。そしていよいよ敵の影なきを見とどけた後、陽平関へ入れ。陽平関へ」

「承知いたしました」

 孔明はつづいて、

「張翼、来れ」

 と、帷幕へよびつけ、汝は一軍を引率して、剣閣 (陝西・甘粛の省界)の道なき山に道を作れと命じ、悲調な語気で、

「――われこれより回らん」と、いった。

 彼はすでに総退却のほかなきを覚ったのである。密々、触れをまわして引揚げの準備をさせ、一面、馬岱と姜維のふた手を殿軍に選び、

「そち達は、山間に潜み、敵来らば防ぎ、逃げつづいて来る味方を容れ、その後、頃を測って引揚げよ」

 と、悲痛な面で云い渡した。

 また、馬忠の一軍には、

「曹真の陣を横ざまに攻め立てておれ。彼はその気勢に怖れて、よもや圧倒的な行動には出てきまい。……その間に、われは人を派して、天水、南安、安定の三郡の軍官民のすべてをほかへ移し、それを漢中へ入れるであろう」

 退却の手筈はここに調った。

 かくて孔明自身は、五千余騎をつれ、真先に、西城県へ行った。そしてそこに蓄えてある兵糧をどしどし漢中へ移送していると、たちまち、報ずる者あって、

「たいへんです。司馬懿みずから、およそ十五万の大軍をひきい、真直ぐにこれへ襲せてくる様子です」と、声を大にして伝えた。

 孔明は愕然と色をうしなった。――左右をかえりみるに、力とたのむ大将の主なる者はほとんど諸方へ分けてこれという者もいない。残っているのはみな文官ばかりである。

 のみならず、さきに従えてきた五千余の兵力も、その半分は、兵糧移送の輜重につけて、漢中へ先発させ、西城県の小城のうち、見わたせば、寥々たる兵力しか数えられなかった。

「魏の大軍が、雲霞のように見えた。あれよ、麓から三道に潮のごとく見えるものすべて魏の兵、魏の旗だ。……」

 城兵はうろたえるというよりは、むしろ呆れて、人心地もなく、顔の血も去喪してただふるえていた。

「ああ、寄せも寄せたり。揃えも揃えたり。なんと、おびただしくも物々しい魏の軍立てよ」

 孔明は、櫓に立って、敵ながら見事と、寄手の潮を眺めていた。


 この小城、この寡兵。

 いかに防げばとて、戦えばとて、眼にあまる魏の大軍に対しては、海嘯の前の土塀ほどな支えもおぼつかない。

 孔明は櫓の高楼から身を臨ませて、喪心狼狽、墓場の風のごとく去喪している城兵に向って、こう凛と、命を下した。

「四門を開けよ。開け放て。――門々には、水を打ち、篝を明々と焚き、貴人を迎えるごとく清掃せよ」

 そしてまた、いちだん声たかく、

「みだりに立騒ぐ者は斬らん。整々粛々、旗をそろえよ。部署部署、旗の下をうごくなかれ。静かなること林のごとくあれ。――門ごとの守りの兵は、わけて長閑に団欒して、敵近づくも居眠るがごとくしてあれ」

 命を終ると、彼は、日頃いただいている綸巾を華陽巾にあらため、また衣も新しき鶴※「敞/毛」(かくしょう)に着かえて、

「琴を持て」

 と、ふたりの童子を従えて、櫓の一番上へのぼって行った。

 そして高楼の四障も開け払い、香を燻き、琴をすえて端然と坐した。

 はやくも、ひたひたと襲せてきた魏の先陣は、遠くこれを望見して、怪しみ疑い、直ちに、中軍の司馬懿に様子を訴えた。

「なに。琴を弾いている?」

 仲達は信じなかった。

 自身、馬をとばして、先陣へ臨み、近々と城の下まで来て眺めた。

「おお。……諸葛亮」

 仰ぐと、高楼の一層、月あかるき処、香を燻き、琴を調べ、従容として、独り笑めるかのような人影がある。まさに孔明その人にちがいない。

 清麗な琴の音は、風に遊んで欄をめぐり、夜空の月に吹かれては、また満地の兵の耳へ、露のごとくこぼれてきた。

「……?」

 司馬懿仲達は、なぜともなく、ぶるぶると身を慄わせた。

 ――いざ、通られよ。

 と誰か迎え出ぬばかり目の前の城門は八文字に開放されてあるではないか。

 しかもそこここと水を打って清掃してあるあたり、篝の火も清らかに、門を守る兵までが、膝を組み合ってみな居眠っている様子である。

 彼は、やにわに、

「――退けっ。退けっ」

 と先陣の上に鞭を振った。

 驚いて、次男の司馬昭が云った。

「父上、父上。――敵の詭計に相違ありません。何で退けと仰せられますか」

「否々」

 司馬懿はつよくかぶりを振った。

「四門を開き、あの態たらくは、我を怒らせ、我を誘い入れんの計と思われる。迂濶すな。相手は諸葛亮。――測り難し測り難し、退くに如くはない」

 遂に魏の大軍は夜どおし続々と引き退いてしまった。

 孔明は手を打って笑った。

「さしもの司馬懿も、まんまと自己の智に負けた。もし十五万の彼の兵が城に入ってきたら、一琴の力何かせん。天佑、天佑」

 且つなお部下へいった。

「城兵わずか二千、もし恐れて逃げ走っていたら、今頃はもう生擒られていたであろう。――さるを司馬懿は今頃、ここを退いて道を北山に取っているにちがいないから、かねて伏せておいた我が関興、張苞らの軍に襲われ、痛い目に遭うているにちがいない」

 彼は即時、西城を出て、漢中へ移って行った。西城の官民も、徳を慕って、あらかた漢中へ去った。

 孔明の先見にたがわず、司馬懿軍は北山の峡谷にかかるや蜀の伏勢に襲撃された。ここで一勝を博した関興と張苞は、敢えて追わず、ただ敵が捨て去ったおびただしい兵器糧食を収めて漢中へいそいだ。

 また祁山の前面にあった曹真の魏本軍も、孔明ついに奔ると聞くや、にわかに揺るぎだして追撃にかかろうとしたが、馬岱、姜維の二軍に待たれて、これも強か不意を討たれた。

 その折、魏は大将陳造を失った。


(中略)


 ときに孔明は漢中にあり、彼としてはかつて覚えなき敗軍の苦杯をなめ、総崩れの後始末をととのえていた。

 すでに、各部隊のあらかたは、続々、漢中へ引揚げていたが、まだ趙雲と※「登+おおざと」芝(とうし)の二部隊がかえって来ない。

 その無事を見るまでは、彼はなお一身の労れをいたわるべきでないと、日々、

「まだか……」と、待ち案じていた。

 趙、※「登+おおざと」の二部隊は、やがて全軍すべてが漢中に集まった最後になって、ようやく嶮路をこえてこれへ着いた。その困難と苦戦を極めた様子は、部隊そのものの惨たるすがたにも見てとれた。

 孔明はみずから出迎えて、

「聞けば将軍は※「登+おおざと」芝の隊を先へ歩ませ、自軍は後にし、さらに自身はつねに敵と接し、以てよく最後の殿を果されて来たそうな。老いていよいよ薫しき武門の華、あなた如き人こそ真の大将軍というものであろう」

 と、斜めならず、その労をねぎらい、なお庫内の黄金五十斤と絹一万疋を賞として贈った。

 けれど趙雲は固く辞してそれを受けない。そしていうには、

「三軍いま尺寸の功もなく、帰するところそれがしらの罪も軽くありません。さるをかえって恩賞にあずかりなどしては、丞相の賞罰あきらかならずなどと誹りの因にもなりましょう。金品はしばらく庫内にお返しをねがって、やがて冬の頃ともなり、なにかと物不自由になった時分、これを諸軍勢に少しずつでも頒ち給われば、寒軍の中に一脈の暖気を催しましょう」

 孔明はふかく感嘆した。かつて故主玄徳が、この人をあつく重用し、この人にふかく信任していたことをさすがにといま新たに思い出された。

 このような麗しい感動に反して、彼の胸にはまたべつに、先頃からまだ解決をつけていない一つの苦しい宿題があった。馬謖の問題である。

 馬謖をいかに処分すべきかということだった。

「王平を呼べ」

 ついに処断を決するため、彼は一日、重々しい語気を以て命じ、軍法裁きを開いた。

 王平がやがて見えた。孔明は、街亭の敗因を、王平の罪とは見ていないが、副将として、馬謖へつけてやった者なので、

「――前後の事情を申せ。つつまず当時のいきさつを申し述べよ」

 と厳かに、まず彼の陳述からさきに訊いたのであった。


 王平はつつまず申し立てた。

「――街亭の布陣には、その現地へ臨む前から、篤と丞相のお指図もありましたゆえ、それがしとしては、万遺漏なきことを期したつもりであります。けれど、何分にも、てまえは副将の位置にあり、馬謖は主将たるために、自分の言も聞かれなかったのでありました」

 軍法裁判である。王平としては身の大事でもあったから、馬謖を庇っていられなかった。なお忌憚なく述べ立てた。

「初め、現地に赴くと、馬謖は何と思ったか、山上に陣を取るというので、それがしは、極力、その非を主張し、ついに彼の怒りにふれてしまい、やむなくそれがしの軍のみ、山麓の西十里に踏みとどまりました。けれどひとたび魏の勢が雲霞のごとく攻め来ったときは、五千の小勢は、到底、その抗戦に当り得ず、山上の本軍も、水を断たれて、まったく士気を失い、続々、蜀を脱して魏の降人に出る者があとを絶たない有様となりました。……まことに、街亭は全作戦地域の急所でした。一たんここの防ぎが破れだすと、魏延、高翔、その他の援けも、ほとんど、どうすることもできません。――以後の惨澹たる情況はなお諸将よりお訊き願わしゅうぞんじます。それがしとしては唯、その初めより終りまで、丞相のお旨をあやまらず、また最善の注意を以て事に当ったつもりで、そのことだけは、誓って、天地に辱じるものではございません」

「よし。退がれ」

 口書を取って、さらに、孔明は魏延や高翔を呼出して、一応の調べをとげ、最後に、

「馬謖をこれへ」

 と、吏に命じて、連れてこさせた。

 馬謖は、帳前に畏まった。見るからに打ちしおれている姿である。

「……馬謖」

「はい」

「汝は、いとけなき頃より兵書を読んで、才秀で、よく戦策を暗誦じ、儂もまた、教うるに吝かでなかった。しかるに、このたび街亭の守りは、儂が丁寧にその大綱を授けつかわしたにかかわらず、ついに取り返しのつかぬ大過を犯したのはいかなるわけか」

「……はい」

「はい、ではないっ。あれほど、街亭はこれわが軍の喉にもあたる所ぞ、一期の命にかけても重任を慎しみ守れと、口のすっぱくなるばかり門出にもいい与えておいたではないか」

「面目次第もありません」

「咄。乳臭児。――汝もはやもう少しは成人していたかと思っていたが、案外なるたわけ者であった」

 憮然として痛嘆する孔明の呟きを聞くと、馬謖は日頃の馴れた心を勃然と呼び起して、その面にかっと血の色をみなぎらして叫んだ。

「王平は、何と申し立てたか知りませんが、あれ程な魏の大兵力が来たんでは、誰が当ってもとても防ぐことは難しいでしょう」

「だまれ」

 睨めつけて、

「その王平の戦いぶりと、汝の敗北とは、問題にならない程ちがう。彼は、麓に小塞を築いて、すでに蜀軍が総崩れとなっても、小隊の隊伍を以て、整々とみだれず、よく進退していたため、敵も一時は彼に伏兵やある、なんらかの詭策やある、と疑って敢えて近づかなかった程だったという。――これは蜀全軍に対して後の掩護となっておる。――それにひきかえ汝は備えの初めに、王平の諫めも用いず、我意を張って、山上に拠るの愚を敢えてしているではないか」

「そうです。けれど兵法にも……高キニ拠ッテ低キヲ視ルハ勢イスデニ破竹……とありますから」

「ばかっ」

 孔明は耳をふさぎたいような顔をしていった。

「生兵法。まさに汝のためにあることばだ。今は何をかいおう。――馬謖よ。おまえの遺族は死後も孔明がつつがなく養ってとらせるであろう。……汝は。汝は。……死刑に処す」

 いい渡すと、孔明は、面をそむけて、武士たちの溜りへ向い、

「すみやかに、軍法を正せ。この者を曳き出して、轅門の外において斬れ」

 と、命じた。


 馬謖は声を放って哭いた。

「丞相、丞相。私が悪うございました。もし私をお斬りになることが、大義を正すことになるならば、謖は死すともお恨みはいたしません」

 死をいい渡されてから、彼は善性をあらわした。それを聞くと孔明も涙を垂れずにはいられなかった。

 仮借なき武士たちは、ひとたび命をうくるや、馬謖を拉して轅門の外へ引っ立てたちまちこれを斬罪に処そうとした。

「待て。しばし猶予せい」

 これは折ふし外から来合せた成都の使い、蒋※「王+宛」(しょうえん)の声だった。彼はちょうどこの場へ来合せ、倉皇、営中へ入って、すぐ孔明を諫めた。

「閣下、この天下多事の際、なぜ馬謖のような有能の士をお斬りになるのか。国家の損失ではありませんか」

「おお、蒋※「王+宛」か、君のごとき人物がそんな事を予に質問するのこそ心得ぬ。孫子もいった。――勝チヲ天下ニ制スルモノハ法ヲ用ウルコト明ラカナルニ依ル――と。四海わかれ争い、人と人との道みな紊るとき、法をすて、何をか世を正し得べき……ふかく思い給え、ふかく」

「でも、馬謖は惜しい、実に惜しいものだ。……そうお思いになりませんか」

「その私情こそ尤なる罪であって、馬謖の犯した罪はむしろそれより軽い。けれど、惜しむべきほどな者なればこそ、なお断じて斬らなければならぬ。……まだ斬らんのか。何をしておる。早く、首をみせよ」

 孔明は、侍臣を走らして、さらに催促させた。――と、間もなく、変り果てた馬謖のすがたが、首となってそこへ供えられた。ひと目見ると、孔明は、

「ゆるせ、罪は、予の不明にあるものを」

 と、面を袖におおうて、床に哭き伏した。

 とき蜀の建興六年夏五月。若き馬謖はまだ三十九であったという。

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