第9話

 それから数日後、蒲田は捜査会議の席に座り、捜査員の退屈な報告を聞いていた。あれから事件は起こっておらず、依然として犯人の足取りは摑めていない。捜査は今や完全な膠着状態に陥っており、市民から寄せられる不安の声は日々高まるばかりだった。最初は盛んだった捜査員の士気も次第に低下し、会議の場には停滞した空気が漂っている。


「ったく、ホシの奴、いったいどこにとんずらしやがったんだ」


 耳の穴を穿ほじりながらぼやいたのは竹部だ。進展のない捜査に一番苛立っているのは彼で、事件の詳細が書かれたホワイトボードを、親の仇を見るような目で睨みつけている。


「本当に雲隠れしてしまったのでしょうか」蒲田が言った。「捜査の手が及ぶことを怖れ、足を洗ったのかもしれません」


「はっ。こいつはそんな柔なタマじゃねぇよ」竹部が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「サツにビビる程度の肝っ玉の小せぇホシなら、最初から家人のいる家に押し入るような真似はしねぇ。こういう奴はむしろ自信過剰で、徹底的に自分の力を試そうとするもんだ。だからよ、奴がこんな中途半端なところで犯行を終わらせるはずがねぇんだ」


 確信に満ちた竹部の口調に、蒲田は感じ入ったように頷いた。何人もの凶悪犯罪者だけを見てきただけあって、その言葉には揺るぎない説得力がある。


(それにしても……いつまでも捜査が進展しないのでは、市民の不安は募るばかりだな)


 新情報なし、という聞き飽きた言葉を耳の端で捉えながら、蒲田は1人考えた。


(今のところ被害者に危害は加えられていないが、拘束を受けただけでもショックは想像に余りある。次の犯罪が起こる前に、何としてでも犯人を捕えなければ……)


 その時、急に久恵の姿が脳裏に浮かび、蒲田は困惑して顔を上げた。こっそり周囲を見回すが、誰も蒲田の異変に気づいた様子はない。


(なぜ、急にあの人のことを思い出す? 事件とは何の関係もないだろうに)


 久恵は良家の令嬢のようだったから、次の事件の被害者になる可能性はゼロではない。一方で、蒲田は久恵の住所を知らず、それが事件発生区域に該当するかもわからない。そのような状況で彼女のことを思い出すのはあまりにも検討違いのように思えた。


(まさか……総十郎の言葉が当たっているというのか? 俺があの人に魅入られていると?)


 不意に浮かんだその考えは、蒲田をひどく当惑させた。蒲田は生まれてこの方、異性と交際した経験がない。ただでさえも人を寄せつけない顔と性格をしているので、女性から告白されたことはなく、蒲田自身も女性に恋情を抱いたことはなかった。蒲田はそんな人生に何の不満も抱いていなかったし、恋愛などという得体の知れないものに煩わされない人生をむしろ好ましく思っていた。


 それがここに来て、急に揺らぎを見せた。生まれて初めて味わう感情のうねりを前に、蒲田の頭は激しく混乱していた。


(……馬鹿なことを。あの人が、俺のような無骨な男に振り向いてくれるはずがない。相手が総十郎ならばまだ理解できるが)


 花荘院との会話に花を咲かせていた久恵の姿を思い出す。久恵は背が高く、同じく長身の花荘院と並ぶと実に絵になっていた。和装を好み、華道をたしなんでいるという共通点もある。自分よりよっぽど似合いの相手だろう。


 そこまで考えたところで、蒲田は胸の内に不快な感情が広がっていくのを感じたが、その正体が何かは皆目検討がつかなかった。


「おい、蒲田。お前の番だぞ」


 竹部に横から小突かれ、蒲田ははっとして意識を現実に戻した。捜査員の視線が一斉に自分の方に注がれている。いつの間にか報告の手番が回ってきていたらしい。


 蒲田は思わず舌打ちした。女のことを考えて集中力を切らすとは何という体たらく。それもこれも全て総十郎のせいだ。奴が俺の心を惑わせるようなことを言ったのが事の起こり。だが今は、色事など忘れて捜査に集中しなければ。市民の生活を脅かす犯罪者を野放しにするわけにはいかない。


 蒲田は気を引き締めるように眉根を寄せると、椅子を引いて立ち上がった。久恵の姿を頭から追いやり、資料を手に代わり映えのない状況を報告しようとする。

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