第8話
「どこへ行ったかと思えば……こんなところにいたのか、次郎」
花荘院が言ったが、そこで蒲田と差し向かいで立っている女性に目を留めた。途端に細い目を見開き、まじまじと女性を見つめる。
「次郎、そちらの方は……」花荘院が言った。
「眼鏡とコンタクトレンズを落とされたそうでな。探すのを手伝っていたんだ」蒲田が答えた。「お名前は確か……」
「あら、私ったら、助けていただいた方に名乗りもしませんで、大変失礼いたしました」女性が慌てて頭を下げた。
「私、
「鴻池……。確かこの展覧会を開催しているのも、そんな名前の学派でしたね」蒲田が言った。
「ええ、鴻池短期大学は、鴻池派が創立した華道の大学です。今回、私が師事しておりました先生の作品が展示されるということで、ご招待をいただいたのです」
「ほう……華道の大学ですか。てっきり習い事だけかと思っていましたが、大学まであるとは驚きですね」
大学で華道を習うなど、金持ちでなければできない発想だ。気品のある口調や佇まいからしても、この松原久恵という女性は良家の出身なのだろうと想像がついた。
「鴻池短期大学の学科は華道だけではない」花荘院が口を挟んだ。「茶道や書道などの学科もあり、和の文化を総合的に学ぶことができる。ただ、入学者は毎年降下の一途を辿っており、大学の存続が危ぶまれているようだな」
「あら、随分お詳しいんですのね」久恵が花荘院の方に視線を移した。「ひょっとして、鴻池派の関係者の方ですか?」
「いえ、むしろ相対する関係と言っていい。私は花荘院流の者ですから」
「花荘院……。もしかして、次期家元の総十郎様でいらっしゃいますか?」
「ええ。ですが、家元という呼称は相応しくない。私の実力は父上の足元にも及びませんから」
「そんなことはありませんわ」女性が優艶に微笑んでかぶりを振った。「花荘院先生の作品も時折拝見しておりましたけれど、どれも素晴らしいものばかりでしたもの。ご本人とお目にかかれるなんて光栄ですわ」
「いえ。私こそ、あなたのような分別のある方とお話ができて
花荘院が言った。仏頂面は相変わらずだが、心なしか普段よりも表情が和らいでいるように見える。
「ところで、もし差し支えなければ、ご連絡先を伺ってもよろしいでしょうか?」久恵が蒲田の方に視線を向けた。「先ほどのお礼をさせていただきたいんです」
「いえ……どうか気になさらないでください」蒲田が謙遜するように手を振った。
「いいえ、このままでは私の気がすみません。ご連絡先が難しければ、せめてお名前だけでも教えていただけませんか?」
「まぁ、それだけなら……。私は蒲田次郎と言います」
蒲田は渋々言ったが、それだけではさすがに邪険に過ぎると思ったので、「……公務員をしています」とだけ付け加えた。
「蒲田様ですね」久恵が記憶に刻み付けるように言った。「本当にありがとうございました。また機会がありましたら、お目にかかれれば
久恵はそう言って巾着袋を開けると、中から和製の財布を取り出した。そこから一枚の名刺を取り出し、蒲田に差し出す。蒲田は反射的にそれを受け取った。久恵はもう一枚名刺を取り出すと、「せっかくのご縁ですので」と言って花荘院にも名刺を渡した。
「それでは失礼いたします。これ以上お二人のお邪魔をしてはいけませんので」
久恵はそう言って深々と頭を下げると、からころと下駄を鳴らして先のフロアへと歩いて行った。彼女の姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、蒲田と花荘院はその背中を見送った。
「ふむ……。随分と奇特な女性だな」花荘院が呟いた。「まだ若いが、見事に礼儀礼節を
「……そうだな」
蒲田が言葉少なに言った。花荘院が視線をやると、蒲田は久恵からもらった名刺に視線を落としていた。どこか困惑したようなその表情を見て、花荘院は彼の胸中を察した。
「……なるほど。どうやら次郎、お前の荒み切った心にも、ようやく一輪の花が咲いたようだな」
「何のことだ?」蒲田が訝しげに顔を上げた。
「先ほどの女性のことだ。彼女のたおやさかに魅入られてしまったのだろう?」
「……何を馬鹿な」蒲田が渋面を作った。「確かに先ほどの女性は美しかった。それは認めよう。だが、俺は女の色香に現を抜かすような趣味はない」
「あくまで否定するか」花荘院がふっと息を漏らした。「それもよかろう。だが次郎、私はお前のように手を
「何?」
「道端には多くの花が咲いているが、撫子には早々お目にかかれるものではない」花荘院が噛み締めるように言った。「今回の目的はあくまで敵手の視察だが、だからと言ってこの
蒲田はまじまじと花荘院の顔を見つめた。普段と同じ仏頂面。しかしその言葉は、はっきりと彼の胸の内を物語っていた。
「総十郎。お前、まさか……」蒲田が恐る恐る尋ねた。
「あの女性に
花荘院はそれだけ言うと、蒲田に背を向けて歩き出した。陳列台の前で足を止め、腕組みをしながらとっくりと作品を眺める。
その余裕のある立ち振る舞いは、蒲田への宣戦布告のように思えてならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます