第7話

 花荘院がしばらく解放されそうになかったので、蒲田は一人で作品を見て回ることにした。といっても、花の名前もろくに知らない状態では何に注目すればよいかもわからず、結局すぐに見終わって元の場所に戻ってきた。花荘院はまだ女性陣からの質問攻めに遭っている。蒲田はため息をつくと、先ほど花荘院から説明を受けた花に視線を移した。


(撫子か……)


 細い花弁が集まり、1つの花を形作る様は確かに美しいと言えなくもない。だが、蒲田の心を揺さぶるほどの感動を呼び起こすものではない。蒲田の心はいつでも事件と共にあり、その目は常に犯罪者に注がれている。道端の花になど目を留めている暇はないのだ。


(本物の大和撫子でも現れれば、話は別かもしれんがな)


 柄にもなくそんな台詞が浮かび、蒲田はふっと息を漏らした。このまま待っていては日が暮れてしまう。そろそろ総十郎を助けに行ってやるとするか。蒲田はそんなことを考えながら撫子の花に背を向けようとした。


「あの……すみません」


 背後から声をかけられたのはその時だった。蒲田はのっそりと振り返ったが、そこにいる人物の姿を目に留めた途端、思わず目を見開いた。


 若い女性だった。まだ二十代前半くらいだろう。今時珍しく着物を着込み、艶やかな黒髪を上品に結い上げている。淡紅色の着物に金織の帯を合わせ、手には薄紫色の巾着袋を持っている。目は控え目に伏せられていたが、瞬きをするたびに揺れる睫毛は扇のようだ。雪のように白い肌の中で、紅色の口紅だけが鮮やかに映えている。


 蒲田は半ば当惑しながらその女性の姿を見つめた。女性はためらいがちに口元に手を当て、おずおずと蒲田に話しかけてくる。


「すみません……。私、この辺りで落とし物をしてしまったようなのですが」


「落とし物?」


「はい。鞄に眼鏡を入れていたのですが、気がつくとなくなっていて……。そちらに届いてはおりませんか?」


「さぁ……私に聞かれましても。受付にでも聞いてみたらどうですか?」


「ええ……。それが私、コンタクトレンズも落としてしまったようなのです。ですからほとんど何も見えていない状態で……。お手数ですが、受付まで案内していただけませんか?」


「はぁ……。ですが、なぜ私に? 警備員にでも頼めばいいでしょう」


 蒲田が言うと、女性ははっとした表情で口元を手で覆った。目を見開き、まじまじと蒲田を見つめる。


「……もしかして、警備の方ではありませんの?」女性が尋ねた。


「はい。ただの一般人です」今はな、と蒲田は心の中で付け加えた。


「まぁ……周囲に目を光らせておられるご様子でしたから、てっきり警備の方だとばかり……。大変失礼いたしました」女性が恥じ入った様子で深々と頭を下げた。


「いえ、構いませんよ。よく間違えられますから」


 実際、休日にスーパーの店内を歩いていると、目が合った万引き犯が商品を放り出して逃げ出すことが何度もあった。また、すれ違った幼児が泣き出し、子どもを睨まないでくださいと母親から叱責を受けることも多々あった。今度からはサングラスをかけた方がいいかもしれんな、と蒲田は考えた。


「ところで、眼鏡がないのでは不便でしょう。私が一緒に探しましょうか?」蒲田が提案した。


「まぁ、そんな。一般の方にご迷惑をおかけするわけには……」女性が身体の前で片手を振った。


「いえ、どうせ暇ですから。それに探し物は得意なんです」


 蒲田はそう言うと早速捜索を開始した。陳列された作品の間を縫うようにして探す。


 5分ほど探したところでまずはコンタクトレンズが見つかった。展示台の上に落ちていたのだ。おそらく、作品を覗き込んだ時にでも落としてしまったのだろう。回収して女性に渡し、次いで眼鏡の捜索に取り掛かる。展示台の上には見当たらなかったので、おそらく床に落ちているのだろう。

 蒲田は床に這いつくばるようにして眼鏡を探した。周囲の客から訝しげな視線を向けられたが、構わなかった。


 捜索すること約10分、ようやく眼鏡が見つかった。1つ前のフロアにあるベンチの下に落ちていたのだ。女性はそこに座って休憩していたらしく、その時に落としてしまったのだろう。


「あぁ……よかった。見つからなかったらどうしたことかと思いました」女性が胸に手を当て、心底安堵した様子で言った。「何とお礼を申し上げればよいか……。本当にありがとうございました」


 女性が深々と頭を下げた。高い鼻梁には、茶色い細フレームの眼鏡がしっかりと乗っている。眼鏡が加わっても女性の美しさは微塵も損なわれず、むしろ彼女の上品さをいっそう引き立てているように見える。


「いえ、お役に立てたようで何よりです」蒲田がズボンについた汚れを払いながら言った。「それにしても、眼鏡とコンタクトレンズを一遍になくすとは災難でしたね」


「ええ……。本当にお恥ずかしいことで。私、普段から落とし物をすることが多くて、よく警察にお邪魔させていただいております」


「そうですか。警察の対応で気分を損ねられたことはありませんか?」


「いいえ、ございませんわ。皆様お忙しいでしょうに、いつも親身になって話を聞いてくださるのです」女性は微笑んだ。


「ならよかった。警察は常に市民に開かれていなければなりませんからね」


 蒲田が頷いた。そこへ後ろから足音が聞こえ、蒲田は振り返った。ようやく中年女性の集団から解放されたらしい花荘院が近づいてくるところだった。




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