第4話

「おい、蒲田!」


 蒲田が追想に耽っていると、後ろから誰かに名前を呼ばれた。振り返ると、黒いスーツのジャケットのボタンをはずし、同じく黒いネクタイをぶら下げた男が、ズボンのポケットに手を突っ込んだ格好でこちらに歩いてくるところだった。今年から蒲田の上司になった竹部たけべ警部だ。

 蒲田と違って細身で長身だが、その分見下ろされると迫力があり、彼に追い詰められた被疑者は大抵が蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。黒々とした眉毛の下から覗く眼光は鋭く、スナイパーのような怜悧さを湛えている。その上昔の事件で付けられた傷が左の瞼を垂直に貫いており、ただでさえも人相の悪い顔を二割増し恐ろしくしていた。何も知らない人間が彼を見たら、警察官というより殺し屋だと思うだろう。


「例のヤマの捜査会議がもうじき始まる。さっさと用意しろ」竹部が言った。


「今からですか? 確か会議は午後からだったはずですが」


 蒲田が腕時計に視線を落とした。竹部の言う『例のヤマ』とは、先ほど小宮山と話していた連続強盗事件のことだ。だが、今はまだ9時20分。変更は聞いていない。


「上の都合で繰り上げになったんだ。ったく、まだ資料の準備もできてねぇってのに、勝手な奴らだ」


 竹部が忌々しそうに舌打ちをした。竹部が上層部と反りが合わないことは異動当初から知っていた。何しろ飲みに行くたびに上層部の愚痴を聞かされるのだ。


「何か捜査に進展があったのでしょうか?」蒲田が尋ねた。


「いや、大方マスコミにせっつかれてスケジュールを早めたんだろうよ。昼のニュース番組に向けて、捜査はきっちりしてますってアピールさ。けっ、マスコミにおべんちゃら使ってる暇があるんだったら、現場で証拠の一つでも見つけてこいってんだ」


 竹部が吐き捨てるように言った。竹部は口こそ悪いが、犯人逮捕に懸ける意気込みは誰よりも強く、「現場百篇」を合言葉に地道な捜査を続けることで知られていた。その努力が事件解決につながることも多々あるが、本人は手柄をひけらかすことはせず、むしろすぐに新たな事件の方に関心を寄せていた。蒲田はそんな竹部の姿を尊敬し、行く行くは竹部のような辣腕刑事になりたいと心から願っていた。


「しかし、今回のヤマは雲を掴むような事件ですね」


 竹部と並んで会議室へ向かいながら、蒲田が呟いた。


「家人の証言からは、ホシが男の単独犯だということしかわからず、他の目撃者もいない。ホシが逃走に使用した車も見つかっていない。どこから手をつけていいかわかりません」


「あぁ。ホシも随分手馴れているようだ」竹部も憮然として頷いた。「予め、現場周辺の状況を徹底的に調べていたんだろうな。しかも、留守中の家を狙うならまだしも、あえて家人のいる時間に押し入って金品の在処を聞き出すとは……何とも大胆不敵だ」


「素人の犯行ではないでしょうね。暴力団の関係者かもしれません」


「かもな。ところで蒲田、お前、今日の夜は暇か?」


「今夜ですか?」突然話題を転じられ、蒲田が目を剥いた。「特に予定はありませんが」


「ならいい。ちょっと俺に付き合え。こうも上層部の連中に振り回されたんじゃあ、酒でも飲まんとやってられんからな」


「ご一緒したいのは山々ですが……実は私、昨日も友人と飲みに行きまして」


「何? お前に友人がいたとは傑作だな」竹部が口を開けて豪快に笑った。「なに、お前はまだ若い。二日連続で飲んだところで肝臓が死にゃあせんだろう」


「はぁ」


「ま、そういうことだ。今晩、空けとけよ」


 竹部がぽんと蒲田の肩を叩いた。そこでちょうど会議室に到着した。急な時間変更への対応に追われ、何人もの捜査員が書類を抱えて忙しなく部屋と廊下を行き交っている。


 先に会議室に入っていく竹部の広い背中を、蒲田は苦笑しながら見つめた。

 竹部は昔気質なところがあり、自分がこうと決めたら、人の都合はお構いなしに従わせようとするところがある。普通の会社であればいわゆる『パワハラ』に当たるのかもしれないが、あいにく警察は階級社会だ。上司からの誘いがあれば応じないわけにはいかない。


 今晩は控え目にしておこう、と思いながら、蒲田は自分も会議室の入口を潜った。

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