グッバイサマー

ちくわノート

第1話

 その日は外気温が三十八度を超える猛暑日だった。

 立っているだけで頭がクラクラして、胸から腹にかけて汗が滴るのがわかった。太陽が暑さにへばる人間を嘲笑うかのように空の遥か高いところで居座っていた。

「はぁー、あちぃーね」

 翔太が呑気な声で言う。

 見ると額には汗が滲んで、顔は真っ赤になっていた。先程買ったアイスは既に溶け始めて翔太の小さな手を汚している。

「少し先に喫茶店があるから、そこで休もうか」

 俺がそう言うと、翔太はアイスを一口食べてから

「いいや、早く行かないと日が暮れちゃうし」

 と言って、日陰から出て行った。

 俺は翔太の後を慌てて追いかける。

「この暑さの中で歩いてたら死んじゃうぞ」

 俺の言葉に翔太はぴくんと反応した。

「……別にいいけどなあ」

 翔太のその小さな声に、俺の胸はずしんと重くなった。

 俺はその言葉を聞こえなかったふりをして、

「それにしても、海なんて久しぶりに行くなあ。何年ぶりだろう」

 とおどけた口調で言った。

「最後に行ったのいつ?」

「確か、俺が小学三年生の時だからもう二十年前になるのか」

 そう。その時は家族で行ったんだっけ。無口な父と優しい母。そして意地悪な姉。

 とっくの昔に忘れたと思っていた記憶が鮮やかに甦る。

「おっさんだね」

 翔太は悪戯そうに笑う。

 俺は否定できずに苦笑いを浮かべるだけだった。

「あ、あれやりたい」

 翔太の指した先には公園があって、その中のターザンロープを指しているようだった。

「早く行くんじゃなかったのか」

「ちょっとだけだって」

 そう言って翔太は持っていた荷物を俺に預けて遊具に向かって一目散に駆けていった。

 俺はやれやれと公園のベンチに腰を下ろして、無邪気に遊ぶ翔太の姿を眺めた。


 初めて会った時の翔太はあんな風に笑わなかった。生気がなく、この世の全てを諦めた様な目で作り笑顔を顔に貼り付けていた。

 その時の俺も似たようなものだった。

 勤めていた会社が世界的に蔓延していた感染病の影響で業績が悪化し、あっという間に倒産してしまった。

 社長が従業員全員の前で頭が下げた姿が今でも目に焼き付いている。社長は気さくで、お人好しで、経営には向いていない人だった。

 無職になって初めの頃は精力的に仕事を探した。しかし、雇ってくれるところは何処にも無く、俺はコンビニでビールを買い、昼間から公園のベンチに腰かけてただぼーっと過ごす日々が続いた。生気のないゾンビのようだった。

 その日、俺は昼過ぎに目が覚めた。今日はこのまま、家から出ずに過ごそうか。そう思ったが、冷蔵庫に酒がないことに気づく。もはや、アルコールを摂取していないと将来の不安や、今日一日何もしていない罪悪感に襲われ、苦痛を感じるようになっていた。

 俺はよれよれのスーツを着て、近くのコンビニにビールを買いに行った。

 コンビニの近くには公園があり、家にいても気分が塞ぐだけなのでそこのベンチに座ってビールを飲み始めた。

 二本目を空けたあたりで、子供たちが賑やかに公園に入ってくる。

 鬼ごっこやろうぜ、という声が聞こえてそちらの方を向くと、活発そうな黒髪短髪の少年を中心に何人かで輪になっていた。

 その中の一人、白いTシャツに黒のハーフパンツを履いた男の子が目に付いた。

 笑い方がどこか作っているような気がした。

 まあ、俺には関係ないか、と再びビールの缶に手を伸ばした。


 子供の声で目が覚めた。どうやらベンチで寝ていたらしい。

 既に夕方になっていたらしく、公園で遊んでいた子供たちがまた明日ね、と解散する所だった。

 その中で一人、帰らずにサッカーボールを蹴り続けている男の子が居た。

 あの男の子だ、と俺は思った。

 しばらくその子を眺めていると、蹴り損じたサッカーボールが俺が座っているベンチの方に転がってきた。

 ボールを取りに来た男の子に蹴り返してやると「帰らないの」と聞いた。

 男の子はぼんやりとした目で俺を見上げた。

「帰りたくない」

 そう言って、再びサッカーボールで遊び始めた。

 なんとなく、俺と似ている、と思った。


 その日以降も、彼は子供たちが帰っても、一人残ってサッカーボールを蹴り続けていた。

 ある時は夜の十時を回っても帰らないこともあった。

「なあ、どうして帰りたくないんだ」

 俺はある時、見かねてそう聞いた。

 男の子は黙ってボールを蹴り続けていたが、しばらくすると口を開いた。

「お母さんが」

 ばん、と壁に当たったボールが再びこちらに帰ってくる。

「お母さんが、男の人といる時は、僕が居たら機嫌が悪くなるから」

 再び、ばん、と音がしてボールが跳ね返る。

「お母さんは普段は優しいけど、男の人といる時は物を投げてくるから、だから」

 小さな声だった。

 虐待だ。

 彼を助けてやれるのは俺しかいないと、そう思った。

 こんな時、児童相談所に連絡すれば良いのだろうか。それとも学校に?

 きっと、連絡をすれば彼は親と離れて暮らすことになるだろう。その方が彼にとって良いに決まっている。

 でも。

 俺は自分の過去の姿とその男の子の姿を重ねていた。親と離れてぽっかりと空いた穴はなかなか埋められない。

 俺の家族は、ある時ばらばらになった。母が男と出ていき、残った父は酒に溺れるようになって、俺を殴った。姉は俺を庇おうとした時に激昂した父に何度も殴られ、死んだ。当然父は捕まり、俺は叔母の家に預けられることになった。

俺はそのとき、毎晩夢を見て泣いていた。

「一人で遊んでいても退屈だろ。俺が相手になってやるよ」

 俺は結論を出せなかった。いつか、状況が好転するのを期待していた。

「名前は?」

「翔太」

「よし、翔太。ドリブルで俺を抜いてみろ」

 その日から俺と翔太は夕方から一緒に遊ぶようになった。


 翔太と遊び始めてから、翔太は徐々に様々な表情を見せてくれるようになった。

 俺がパスを出そうとして、空振りした時には「下手くそー!」と言いながら笑ってくれた。

 ある時は本を持ってきて「読んでー」と甘えてきた。もうそんな読み聞かせをする歳でもないだろうにとも思いつつ、彼が持っていた『トム・ソーヤーの冒険』を読み聞かせしてやった。

 ひゅー、どおーん、という音がして二人で空を見上げた。どうやら近くで花火が上がっているらしい。

 見に行こう、と誘われて近くの高台まで登った。

 高台からは街全体を見下ろすことが出来た。遠くの方で明るい花が咲いては散っていた。

 高台には柵が設置されており、翔太の背ではその柵と被ってしまう。

 俺が翔太に肩車をしてやると、翔太は目を輝かせて夢中になって花火を見物した。

 その時、翔太のハーフパンツがめくれて、太ももに痣があるのが見えた。

 俺は翔太を下ろして、ハーフパンツの裾を捲り上げると太ももの内側に以前はなかった大きな痣が出来ていた。

「おい、どうしたんだこれ」

「ああ、これ、この間お母さんに」

 翔太は気にしていないように答えた。

 事態が好転するなんてことは無かった。この怪我は知っていて何もしなかった俺の責任だ。

「なあ、翔太。もしも、お母さんと離れて暮らすことになったら、どうする?」

「うーん、なんかそれは嫌だ」

 もじもじとする翔太を見て俺はどうするべきか分からなくなる。

 その時、以前、翔太が持っていた『トム・ソーヤーの冒険』がふと頭に浮かんだ。

「冒険してみないか」

 つい、言葉が口から滑り落ちた。

 え、と翔太は俺を見上げる。

「いいだろ。ここから海までの大冒険。海、見たことないって言ってたよな。すごいぞ、海は。とにかくデカくて悩みが全部洗い流される気がする。見てみたいだろ」

 そこまで言って翔太の反応を恐る恐る確認する。

「うん! 行きたい!」

 そう言う翔太の目はきらきらと輝いていた。

 このまま翔太を連れ去って、二人で暮らせればどんなにいいか。エゴだと自覚していてもそう思わざるを得なかった。

 俺は翔太の頭をぽんぽんと叩いた。

 翔太のお母さんには俺から説明しとく、と言って花火を見てから三日後、海を目指して出発した。

 丁度、梅雨が明けたタイミングだった。


「いやー、風が気持ちいいね」

 そう言って翔太は戻ってきた。顔が汗でてかっている。

「これ飲んどけ」

 と俺はスポーツドリンクを差し出すと、翔太は美味しそうに一気に飲み干した。

 そして頭を抑えた。

「はは、一気飲みなんてするからだ」

 だって、と言いながら空いたペットボトルをゴミ箱に投げ入れる。

 ペットボトルはくるくると回りながら綺麗な軌道を描き、ゴミ箱に入った。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って再び、海に向かって歩き始めた。


 緩やかな坂を上り、人気のない細い道をくねくねと曲がりながら進む。

 翔太が肩に掛けたラジオから『スタンド・バイ・ミー』が流れ始めた。

「ぴったりだな」

 俺が言うと、翔太は不思議そうな顔をした。

「この曲知らない」

「え、知らないのか。名曲だぞ」

「なんかおっさんみたい」

 そう言いながらも、翔太はノリノリで曲に合わせて歩く。

 俺はその様子を微笑ましく思いながら。翔太の後ろを着いていく。

 細い通りを歩いていると、水撒きをしていたおばちゃんに話しかけられた。

「あらまあ、こんなに暑いのに」

 そう言いながら水を撒くものだから、危うく水浸しになる所だった。

「うち来て涼んでいきなさい。ほら汗でびしょびしょじゃない」

 翔太と目を合わせたが、確かに疲れていることに気が付き、お言葉に甘えることにした。

 そこは小さな喫茶店のようだった。

 おばちゃんは大きいタオルを僕と翔太に手渡すと、ゆっくりしていって! と言って奥に引っ込んでいってしまった。

 汗をタオルで拭いながら

「僕、これ食べたい」

 とメニューを指した。

 見ると『フルーツたっぷりシャーベット』とある。

「さっきもアイス食べたじゃないか」

「いいじゃん。今日は」

 結局、『フルーツたっぷりシャーベット』を二つ注文した。

 シャーベットを持ってきたおばちゃんは

「親子なの?」

 と聞いてきた。

 俺はドキリとした。

「ええ、そうです」

 と答えると

「似てないねえ」

 とじろじろと俺と翔太の顔を見比べた。

「さ、再婚相手の子なんです。今日は親交を深めようと二人きりでピクニックに」

 慌てて言い訳をする。

「ピクニックったって、この暑さじゃあ、死んじまうよ。お父さん、子供なんて小さいからすぐ熱中症になっちまうんだよ。もっと気をつけてもらわなきゃ」

 そう言われてすいません、と頭を下げる。

 隣を見ると翔太は既にシャーベットを夢中で食べていた。


 店を出ると、既に日が傾きかけていた。

「今日はもうホテルをとって休もう」

 と言うと、翔太は不服そうな顔をした。

「まだ行けるよ」

「海に着く頃には真っ暗だぞ」

 そう言うと翔太も渋々賛成した。

 ホテルで直ぐにシャワーを浴びて汗を洗い流すと、買ってきたビールとジュースで乾杯をする。テーブルの上には大きなピザをセッティングした。

 ジュースをごくごく飲み干すと、おっさんのようにぷはぁと息を吐き、

「サイコーだね」

 と言った。

「ああ、サイコーだ」

 ピザを食べる終えると、二人で早々にベッドに入った。日中歩き回ったせいで足に疲れがあるのを感じた。

 俺が電気を消そうとすると

「待って、真っ暗は嫌だ」

 と翔太が言うので、ベッド脇の小さな豆電球を付けた。

「明日、ようやく海が見れるな」

「うん」

「楽しみだろ」

「うん」

 眠たげな声で返事をするので、俺ももう寝ようと思い、目を閉じた。すると

「ねぇ」

 と翔太の声が再び聞こえた。

「僕さ、おじさんと一緒に暮らしたい」

 俺は驚いて翔太の方を見た。翔太はこちらに背を向けていて表情は読み取れない。

「もしも、もしも僕が母さんと離れて暮らさなきゃいけないんだったら、俺はおじさんと一緒がいい」

「何言ってんだ。俺は無職だぞ。お前を養ってやれる余裕もないし、そもそも親や警察が黙ってられない」

「なんでさ」

「なんでって、だから……」

「なんで、子供は一緒に暮らす人を選べないのさ」

 俺は答えられなかった。しばらく翔太の小さな背中を見ていた。

「さ、今日は早く寝るぞ。明日もいっぱい歩くからな」

 俺はそう誤魔化して再び目を閉じた。


 次の日、パトカーのサイレンの音で目が覚めた。慌てて窓からパトカーの姿を探したが、サイレンの音が段々遠ざかっていっていることに気がつき、胸をなでおろした。

 しかし、時間が無い。

 俺は翔太を叩き起して、ホテルを出た。

 翔太は起こした時は眠そうに目を擦っていたが、ホテルを出ると元気を取り戻し、張り切って先陣を切っていく。

 既に太陽は空高く昇っており、容赦なく二人の体力を削った。

 人気のない道を選んでぐんぐん二人で進んでいく。

「さっきから警察の人よく見かけるね。なにか事件でもあったのかな」

 俺は何も言わずに前を進む。

 その様子を見て、翔太は何かに気がついたように息を飲んだ。

「ねえ、おじさん、僕のお母さんに説明したんだよね。一緒に海に行くって。そうだよね?」

「いや」

 俺は首を振った。

「言ってない」

 翔太が大きく目を見開いた。

「な、なんで。じゃあさっきの警官達は僕を探してるってこと? 僕ちょっと説明してくるよ。誤解だって」

 そう言って踵を返そうとする翔太の細い腕を掴んだ。

「俺はお前を誘拐する。海を越えて、母親の手が届かない遠くへ」

「は、はあ? 意味わかんないよ。おじさん、捕まっちゃうよ? もし、僕を心配してくれてるんなら僕は全然大丈夫だから」

「いや、これは単なる俺のエゴだ」

 そう言って翔太の腕を引っ張るが翔太は動く気配はない。

「駄目だよ。僕は今のままで十分幸せだから」

「誘拐犯らしく言おうか」

 俺は静かに息を吸った。

「大人しく言うことを聞け」

 一泊おいて

「言ってみたかったんだ。こういうの」

 と笑った。


 今歩いている雑木林を抜けるとすぐ海に出る。あれから翔太は一言も喋らずに俺の後を着いてくる。俺も黙って海を目指した。

 潮の香りが漂ってきた。波の音も聞こえる。

「翔太! 海だぞ」

 俺は翔太に手招きをして小走りになった。

 やっと、やっと翔太に海を見せられる。

 視界が開けると目の前に警察官が二人立っていた。

 突然、雑木林から出てきた男に、警察官はぎょっとした表情を見せたが、後からでてきた翔太を見た途端、顔色が変わった。

「失礼、君。寺島翔太くんだね?」

 翔太は怯えた表情を見せる。

「違います」

 翔太は俯いて、首を振った。

 もう一人の警察官が俺に向かって話しかける。

「この子の名前は?」

 俺は目を閉じて、一度深呼吸をする。再び目を開けると射抜くような目付きで警官が俺の顔を見ている。

 俺はゆっくりと口を開いた。

「寺島翔太です。俺が誘拐しました」

 翔太は俺の顔を見る。

「違う! 僕はそんな名前じゃない!」

 翔太の叫びは波の音に吸い込まれる。

「ちょっと署の方までご同行願えますか」

 俺は頷いて警察官に着いていく。

 後ろを振り返ると翔太が泣きそうな顔で俺を見ていた。

 奥には壮大な全てを包み込むような海がいっぱいに広がっていた。

「見ろ! 翔太! 海だぞ、デカいだろ。悩みなんて全部消してくれそうな綺麗な海だ。本当に……綺麗な海だ」

 最後の方は声が震えて宙に溶けていった。

 俺はそのままパトカーに押し込められる。

 この事件を機に翔太の母親がちょっとでも自分の息子に目を向けるようになってくれれば、それでよかった。

 我ながら突拍子もないアイデアだったけど、翔太が母親と離れることなく、幸せに暮らすために、俺はこんなことしか思いつかなかった。

 もしかしたら、なんの効果もないのかもしれないけど。

 気づくと俺は歌を口ずさんでいた。


 スタンド・バイ・ミー。

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