12.枕



翌朝、アシュリーの両親であるブルーノとシーラは先に食卓の席に着いていた。

剣の鍛錬をしていたアシュリーと、走り込みをしていたガートルードは、身を清める必要があるため食卓に訪れるのが後になった。といっても、予定されていた定刻通りではある。


「おはよう」


「ああ」


「ルードさんはよく眠れた?」


「はい……、お義父とう様、お義母かあ様」


照れながらガートルードは返事をした。彼女からの呼称が変わったことに、ブルーノとシーラは視線を交わす。

アシュリーたちが席に着いたのに合わせて、朝食が並べられる。食前の祈りをし、それぞれが食事を始めた。


「ルードさん、何かいいことがあったのかね」


和やかにブルーノが問うと、ガートルードは嬉しそうに肯定した。


「はい。アシュリー様に素敵な誕生日プレゼントをいただきました」


「ほぅ、何をもらったんだ?」


「アシュリー様です」


にこにこと答えるガートルードに対して、アシュリーはぐっと食事に詰まった。噎せそうになるのを堪えて、入れた一口を飲み込む。その彼が弁明できぬ間に、両親の解釈は終わっていた。


「最後までやったのか」


「孫の顔をみるのは、早いかもしれないわね」


「親がいるのにするか!」


両親の期待のこもった勘違いに、アシュリーはフォークを持ったままの拳をゴンと食卓に落とす。彼女の端的な説明では正確ではないが、わざわざ両親に詳しく説明する必要もない。しかし、すぐ貞操に結び付けられた点だけは断固として否定した。最初の贈り物が、そんな生々しくて堪るか。それに、どちらかというとアシュリーは奪う側だ。


「ご両親がいなければ、してくださるんですか?」


「お前は、拾わなくていいところを拾うな!」


別方向から期待の眼差しを受けて、アシュリーは目元を紅潮させ、今追及することじゃないとガートルードを叱る。早く終わらせたい話題を深堀りしないでほしい。


くまを作っておいて、情けない」


「余計な世話だ……!」


反感いっぱいに、アシュリーはもう黙って食事をしろと両親に訴える。ブルーノの指摘通り、若干寝不足でアシュリーは苛立ちやすい状態だった。息子の叱責にブルーノは肩をすくめ、シーラは残念だわ、と呟いて食事を再開した。ガートルードも両親に倣う。

朝からする話じゃない。以前も同様のことを思った気がする。今しがたの会話で、アシュリーは素振り以上に疲れた。

アシュリーの隈の理由は、昂ぶりが治まらずなかなか寝付けなかったからだ。ガートルードが腕の中で幸せそうに頬擦りなどをしてくるものだから、日付が変わるまでほぼ拷問だった。めったに甘えてこない彼女に、誕生日が終わるまでこうしていたいとせがまれれば、耐えるしかなかない。ちゃんと準備して祝えなかったから余計だ。

時と場所が最悪な状況で、よく理性がもったと思う。いや、彼女自身の存在が理性を壊しにかかるから、あまり時間や場所は関係ないかもしれない。これまでを思い出し、アシュリーは認識を修正した。

自分にだけ無防備な存在は、愛しすぎて逆に恐ろしい。

アシュリーが視線を向けると、彼女は嬉しそうに微笑み返す。この素直すぎる反応がくるのだ。ガートルードが自分の脅威だと、彼は気付いた。

実際、両親が別宅に帰ったら、自分がまずい気がする。早く両親に帰ってもらいたいと思うし、このままいてもらった方がいいようにも思う。抱えた矛盾ごと、アシュリーは口にした朝食を飲み込んだ。



昼下がり、ガートルードはシーラに誘われて厨房に立っていた。

調理台に並ぶのは、小麦粉や卵に砂糖。野菜や肉などはない。シーラは宣言通りお菓子作りを試みるため、料理長に比較的容易な菓子の作り方を教わろうと、ガートルードを誘った。


「ルードさんは、できたら、アシュリーに持っていくといいわ」


「アシュリー様は甘いものお好きなんですか?」


ガートルードはお菓子作りにも興味あったが、菓子は一人分より数人分の量で作る方が作りやすい。作るなら彼の分もと思っていたが、アシュリーが菓子を口にしているところをあまりみないため、作ってよいものかこれまで迷っていた。


「嫌いじゃないわよ。それに、身体を動かす方が好きなあの子は、頭を使っているときには甘いものがほしいはずだわ」


「はい。執務室にいるときは私も用意しますよ」


執事のカルヴィンが書類作業が多い日などにはお茶請けも用意していると教えてくれた。作っても問題ないことに、ガートルードは安堵する。


「それに、奥様が作ったものならば、アシュリー様も喜ぶことでしょう」


にこやかに保証してくれるカルヴィンに、ガートルードは首を傾げる。


「あの、呼び方が……」


「名実ともに奥様になられたので」


これからは使用人たちは呼び方を改めるとカルヴィンは宣言する。使用人たちからの祝福の表れだ。また、主人がほぼ男性ばかりの使用人たちが自分より先に親しい呼称をしているのが、少しばかり面白くなさそうだった。主人がちゃんとガートルードを妻として求めたら呼称を改めるよう、元々カルヴィンは使用人たちに言い渡していた。


「そう、ですか」


邸の者たちにアシュリーの妻と認められた証明だと思えば嬉しいが、少しばかり寂しくもあった。それがそのまま表情にでたのだろう。カルヴィンが苦笑する。


「料理長やターラさんもですか?」


「わしは最初から坊ちゃんの奥様はルード様だと思っていましたからなぁ」


「坊ちゃんも私たちにまで妬くほど狭量じゃないでしょうし」


ガートルードが心配になって訊くと、二人はこれまで通り呼ぶと返答した。彼女は安堵に表情をほころばせる。


「けど、私はアシュリー様しか好きじゃないので妬きようがない気が……」


余所見をしようがないと断言するガートルードはいさぎよい。不思議がる彼女に、料理長は可笑しそうに諭す。


「坊ちゃんは、ルード様をそれだけ可愛らしく感じているんですよ」


疑っているのではなく、相手を魅力的に感じるがゆえの心配だと。そうだったらとても嬉しい。料理長の言葉を受け、ガートルードの頬は期待に染まる。

一同は、頬を染める少女をみて、これだけ愛らしければ心配になるのも無理はないと感じる。この場にいる面々は微笑ましく感じるだけだが、男の年齢によっては見惚れるに値する。しかし、ガートルード自身はアシュリーの方が異性にモテるのに、と首を傾げるばかりだった。

料理長の手ほどきのもと、今回作ることになったのは絞って形を成形するクッキーだった。粉をふるうと、ガートルードはボウルのなかにすべてふるい、シーラはふるい器を強く叩きすぎぶれ、いくらか零してしまった。生地をまとめる段階でも、綺麗にまとまったガートルードに対して、シーラは勢いをつけすぎて飛んだ生地の雫が顔についた。

縁のある鉄板に生地を絞る作業も、ガートルードは均一に絞り出せたが、シーラは力加減がわからずまばらな大きさとなった。オーブンに入れるまでの一連をみて、ガートルードは、ブルーノが実験台といった理由を理解する。手順を教えていた料理長の笑みはいささか諦観が滲んでいたし、調理器具の片付けを手伝っていたターラは口が開いたままなのに気付いていない。


「うまく焼けるといいわね」


「そうですね」


期待のこもった声に、ガートルードは笑顔で頷く。しかし、シーラの分が無事焼き上がるか一抹の不安を覚えた。

その不安は的中する。歓談をして焼き上がるまで時間を潰したあと、料理長はオーブンから二人が生地を作ったクッキーを取り出す。オーブンが開いた瞬間、香ばしく甘い香りが厨房に漂った。調理台に並べられた二つの鉄板を、ガートルードたちは覗き込む。

ガートルードの方は、均一に焼き色が付き、綺麗なキツネ色だ。シーラの方はというと、大きいものは焼き色が一部にあり中が生焼けの可能性があった。小さいもののなかには、こげ茶色のものがあり、火が通りすぎて硬いであろうと想定された。

お世辞をいうべきか悩み、一同に沈黙が落ちる。


「まぁ、ちょっと失敗したみたいだけど、食べられるでしょう」


夫のブルーノに持っていこうとシーラはまばらな大きさのクッキーを皿に盛る。作成者自身が一番前向きだった。彼女のくじけない精神に、ガートルードたちは呆気にとられた。


「ルードさんは、アシュリーに持っていくといいわ」


楽しそうに厨房を去るシーラを見送り、ガートルードは彼女に肝が強い印象を抱いた。気持ちのこもったものであるため、ブルーノも妻の手作りを無下にはできないだろう。できあがったか確認にきたカルヴィンが、通り過ぎたときに彼女の皿をみて、後ほど胃腸薬をお持ちします、といった。彼もブルーノに待ち受ける未来を予見したのだろう。一同は無事を祈ることしかできなかった。


「奥様は執務室に向かわれるのでしょう」


「あの、本当にいいんでしょうか……」


「ちょうどお茶の支度をしようとしていたところで、助かります」


行き先を確認され、ガートルードが躊躇う。そんな彼女に、カルヴィンは三時前で都合がよいと微笑みかけた。

踏ん切りがつかないでいる彼女の前に、料理長がくると、彼女のもつ皿からクッキーをひとつ摘み、彼女の口に差し入れた。ガートルードは目を丸くしつつも、反射的に口に入ったクッキーを咀嚼する。

咀嚼し終わったのを確認して、料理長は目を細めた。


「いかがですかな」


「サクサクです」


粗熱をとったとはいえ、焼き上がって間もないクッキーはとても香ばしかった。


「なら、坊ちゃんにも食べさせてやりましょう」


味見をして問題ないなら届けるよう推奨され、ガートルードはこくんと縦に首を振った。

クッキーを運ぶガートルードに、ティーセットの載った盆を持つカルヴィンが続く。意気揚々と、しかし躓かないよう慎重に足を運ぶ彼女が、カルヴィンには可笑しかった。彼女の背後で、ひっそりと笑みを零す。

執務室に着いてからのノックやドアを開けるのは、カルヴィンが手伝った。


「失礼します。アシュリー様」


「ルード」


ペンを走らせていたアシュリーが、ガートルードの声に反応して顔をあげる。すぐに気付いてもらえたことが嬉しくて彼女は笑みを滲ませる。彼は仕事に集中していると声をかけても、顔をあげないことが多い。それを知っているカルヴィンも、主人の無意識の特別扱いに笑みが零れた。

きたばかりから嬉しそうなガートルードに首を傾げながら、アシュリーは用件を訊ねる。


「どうした?」


「お義母様とクッキーを作ったので、私の分はアシュリー様にと……」


そういえば自分が作ったと知らせて食べてもらおうとするのは初めてだ。それに気付いて、ガートルードは妙に緊張してしまう。いらないといわれても、自分で食べればいいだけだと思っていたが、やはりできるならアシュリーにも食べてもらいたかった。


「もらう」


なので、アシュリーの返事にガートルードは安堵した。

彼は執務机から立ち、ソファーへと移動する。ガートルードもクッキーの皿をテーブルに置き、対面に腰を下ろした。二人でカルヴィンが紅茶を煎れるのを待つ。

じっと何かいいたげな視線を感じ、ガートルードは小首を傾げる。


「? 何か?」


「いや……、何でもない」


ガートルードが訊くと、アシュリーはふい、と視線を逸らせた。

彼は今しがた感じた違和感を明かすべきか迷った。本当に大したことはない。単に、なぜ向かいに座るのかと疑問に思った。その疑問は不満であり願望だと、アシュリーはしばらく考えて気付く。そして、近くにこないぐらいで不満に感じる自分が少し気恥ずかしくなった。

隣も対面も距離に大した違いはない。そのわずかな差にこだわる必要はない。そう自分に言い聞かせる。


「いただく」


「はいっ」


ティーカップが二人の前にきたタイミングで、アシュリーはクッキーをひとつ摘まんだ。ガートルードは胸の前で両手を組んで祈るような体勢でそれを見守る。彼の咀嚼が終わるのを、彼女は緊張した面持ちで待った。


「美味いな」


「よかったですっ」


自分で味見をしていたものの、彼の口に合うかは別だ。本人からの感想を得て、ガートルードは輝かんばかりの笑顔になる。

焼菓子ひとつにおおげさだと、アシュリーはふっと小さく笑う。ここまで自分の一挙一動に敏感なのは彼女ぐらいなものだろう。そのくすぐったさがなんだか可笑しかった。

アシュリーに、自分も食べるように促され、ガートルードは紅茶を飲みながら二枚食べた。アシュリーは三枚目を食べているところだが、クッキーはまだある。

ガートルードは少し思案して、ひとつの確認をした。


「残りを第一部隊の皆さんに差し入れてもいいですか?」


四枚目に手を伸ばそうとしていたアシュリーの手がぴたりと止まった。


「どうして、キムたちに?」


「隊長たちにはお世話になりましたし、アシュリー様も今ぜんぶ食べたら夕食に響くでしょう」


運動している彼らなら食べるものが多くても喜びこそすれ迷惑にならないはずだ。現在はアシュリーから手ほどきを受けているが、体力をつける基礎を教えてもらった恩もある。侯爵夫人である彼女が、侯爵の部下をねぎらうのに何も問題はないというのに、彼は眉を寄せ黙り込んだ。

ガートルードが返答を待つと、眉を寄せたまま彼はぽつりと呟いた。


「……また明日食べるから、置いておけ」


「クッキー、お好きなんですね」


「お好きなのは別のものですよ」


くすくすと可笑しげにカルヴィンが、彼女の勘違いを正した。


「奥様の手作りを他の男にやりたくないだけです」


教えられてガートルードは目を丸くする。信じられない思いで、正面に向き直ると彼の目元は紅潮していた。自分ばかりが想っていた期間が長すぎて、彼女は相手に想われる状況に慣れていない。

今度はガートルードが彼に視線で問いかける。


「だったら、なんだ」


自分をよく知る執事であり友人に明かされてしまった。半ば自棄やけ気味にアシュリーが肯定すると、彼女はぽぽぽ、と音がしそうに頬を染めて、言葉を失くす。

後ほど片付けにくると、カルヴィンも執務室を退室したため、妙な沈黙が下りる。


「アシュリー様もやきもち妬くことがあるんですね……」


口にのせると実感が増して、ガートルードは照れた。

アシュリーには今さらなことだ。思い返すと、すでに何度か嫉妬している。だが、それを感じるたび勝手に不機嫌になっていただけで、彼女に伝えていなかった。これまでいつ妬いていたかなど、彼女は知る由もないのだろう。

年甲斐もないことを知られたくない半面、解らせたい苛立ちのような感情ももたげた。アシュリーは、知らず不機嫌さが増す。


「……俺だけか」


自分ばかりが嫉妬している。これでは、自分の方が彼女を想っているようだ。

そんな彼の様子をみて、ガートルードは少し逡巡し、一度立ち上がった。そして、アシュリーの隣まできて、そっと耳打ちする。


「実は……、隊長にやきもち妬いていました」


「キムに!?」


恥ずかしそうに明かされた対象に、アシュリーは驚く。いくら自分の周囲に異性の気配がないとはいえ、同性相手に嫉妬される理由が解らない。彼女の前でキムとは少ししか話していないし、最後、自分は威嚇まがいな対応をした。なぜキムなのか。意味が解らなすぎて、アシュリーはどう反応したらいいのか判らなかった。


「……アシュ様って呼んでるの、ずるいって思いました」


ガートルードは顔を赤くして恥じ入る。親しい呼称を気軽に呼べるキムが、大層羨ましかった。

そんなことで、とアシュリーは呆気にとられる。

キムとは歳も近く、騎士であった頃ともに訓練をしたうちの一人だ。その頃の同期や同じ部隊に所属していた者は、仲間意識を高める一環で略称で呼び合うことが多かった。ただそれだけのことだ。領地の私兵も、畏縮されては困るので呼びやすいように呼ばせている。

呼称の件はキムに限ったことではなかったが、彼女の前でそう呼んだのはキムだけだったので、羨む対象になったらしい。


「お前も好きに呼んだらいいだろ」


それがアシュリーの感想だった。特に呼び方にこだわりはない。


「いいんですか……!?」


了承を得て、ガートルードは弾かれたように顔をあげた。確認されたアシュリーは、そんなに食いつくことかと思いながらも首肯する。

では、と意気込んだガートルードは、深呼吸をしたあと、まっすぐにアシュリーを見上げた。


「アシュ様」


彼女は心底嬉しそうに呼んだ。

アシュリーは口を真一文字に引き結ぶ。ただの呼称。それだけのはずなのに、愛しさで心臓を鷲掴みにされた。他の者に呼ばれようとなんとも思わない略称だというのに、彼女の口から呼ばれると格別に響いた。

それは彼女が特別だと思って呼ぶからだろうし、彼女が自分には特別だからだろう。

こんなに違うものなのか。

想う気持ちひとつで、ここまで感じ方が変わると思っていなかったアシュリーは純粋に驚く。

気付けば彼女をかき抱いていた。昨夜すでに彼女の存在に観念はしていたが、自分の理性の脆さに長い溜め息がでる。


「お疲れなんですか?」


「そんなところだ」


長い溜め息を疲労のせいと誤解されたので、アシュリーは誤解のままにしておく。

抱きしめられたまま、ガートルードは考える。そういえば、雷雨の夜も疲れた溜め息とともに彼の腕の中に閉じ込められた。あのときも、夜中まで領民のために奔走してかなり疲れていたはずだ。昨夜も自分のわがままを聞いて日付が変わるまで付き合ってくれた。

彼女は疲労の要因に思い至る。朝食のときにブルーノから寝不足の指摘をされていたではないか。

気付いたガートルードは、ぱっと彼の腕を引き剝がし、ソファーの端へと移動した。それから、ぽんぽんと軽く膝の上を打った。


「どうぞ」


「なんだ?」


「寝不足なら、少しでも仮眠をとられた方がいいと思います」


枕があった方がいいだろうと、ガートルードは自身の膝を差し出した。

寝不足の原因に心配された。彼女はお互いの部屋を繋ぐドアを、自分が正しい使い方をしようかと悶々としていたのを知らない。ことアシュリーに対することに関しては自身を過小評価する彼女だ。自分が教えない限り、十二分に魅力を発揮していると思い知らないだろう。アシュリーには、まだそれを思い知らせる勇気はない。今も差し出された膝にまごつく理由を説明できずにいる。

気遣いげな眼差しは善意に満ちている。アシュリーは、それを無下にできなかった。

しばらく唸るように葛藤したあと、彼女の善意を受け取ることにした。

上に向くと彼女と眼が合ってしまうので、アシュリーは横に向いて寝そべる。頭にある感触のやわらかさに雑念が湧く。雑念を払っては湧き、湧いては払うを心中でくり返しているところに、慈愛の声が耳をくすぐる。


「いかがですか?」


「……ちょうどいい」


枕として高さや弾力が申し分ないことは事実だったので、アシュリーがそう答えると、ガートルードはよかったと安堵の笑みを浮かべた。アシュリーには、それがみていなくとも声音で判った。

降る笑みも、自分の硬い髪を優しく撫でる手も、ことごとくくすぐったい。居心地が悪い訳ではないが、自らを律して生きてきたアシュリーには今与えられている感覚は慣れないものだった。

ガートルードは甘えるのが苦手だが、アシュリーも大概だ。お互い、無条件に甘える相手というものをこれまでもってこなかった。信頼して頼ることは知っているが、互いがそれぞれの理由で親の負担を減らすように努めてきたのだ。きっとこれからも、こうやって手探りで甘え甘やかしてゆくのだろう。

そっと一度だけ彼女の顔を横目に確認すると、嬉しそうに表情をとろかせていた。こんなに心臓が騒ぐならみなければよかったと後悔するが、そんな表情をこれからもさせたいとも思う。これが甘やかしたいということだろうか。

彼女を甘やかすには、自分が想いを言語化して伝えないと始まらない。彼女に自覚を促すため、当面は自分が羞恥と闘わなくては。

自身で悩み、友人の助言を得、父親から指摘もされた。課題は明確になっている。

どんなに不格好になろうと自分の言葉を彼女は受け止めてくれるだろう。そう確信がある。すでに彼女の存在に甘えている。こういうことも、いつか伝えないといけないな、とアシュリーは思った。だが、寝不足の今はこの状況をなるべく平静にやり過ごすことで手一杯だ。

雑念を払うためにも形だけでも瞼を閉じる。

気付けば本当に瞼が落ちていた。

しばらくして、食器類を片付けにカルヴィンが執務室を訪れた。彼と眼が合ったガートルードは、声を抑えるように人差し指を口元にあてて伝える。その仕草だけで、カルヴィンは了承した。


「よく眠られていますね」


珍しい、とカルヴィンは小さく驚く。声量を落としているとはいえ、アシュリーは音に敏感な方だ。深夜でも緊急時に声をかければ、すぐに起きて反応する。そんな彼が誰かがいる状態で、眉間の力を抜いて寝入っている。

カルヴィンが話していても起きる気配がない。それほどに深く眠っている。それだけ、彼女に気を許しているのだろう。

寝不足だったからだろうとガートルードはいうが、彼女はどれだけ主人にやすらぎを与えているか解っていない。寄り添うと決めた相手に見守られ休む主人。こんな光景をみれるとは思わなかった。

カルヴィンが見合いの手配に腐心していた頃に望んだ以上の光景が、そこにあった。


「アシュリー様をよろしくお願いいたします」


主人であり友人の伴侶が彼女でよかった。カルヴィンは心からそう思い、口にした。


「私こそ、これからもよろしくお願いします」


ガートルードは今さらだ、と可笑しそうに笑う。だから、カルヴィンも笑みを返した。

歳も育った環境も身分も何もかもが違う二人が出逢った。カルヴィンを始めとするアシュリーを知る者たちには、それは紛れもなく奇跡であった。

それを使用人から伝え聞いたシーラたちは、眼を合わせ微笑み合う。


「もう帰っても大丈夫そうですね」


「そうだな」


妻の手作りクッキーを完食したブルーノは、準備されていた薬を受け取り、水で飲み干した。明日帰る時分に体調を崩さないように。


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