11.月光



邸に戻ると、手を離したものの、アシュリーはガートルードを彼女の部屋、侯爵夫人室まで送った。またあとで、とドアの前で別れ、ガートルードが部屋へ入ると侍女のターラが早めの湯浴みの用意をしてくれた。

その用意を待つ間、ガートルードはソファーに座りちょうど近くにあったので、クッションを抱え込む。その顔は赤い。

自分の手で頬に触れると、先ほどの引き寄せられた力強い手の感触とはずいぶん違った。川辺での出来事を思い出す。

輪郭を覆い引き寄せる手。

唇に触れた吐息。

間近に迫る瞳。

あの一瞬がガートルードにはとても長いものに思えた。とても顔が近かった。あれは幻だったのだろうか。現実だった場合、自分に都合のよい解釈をしそうで怖かった。


気のせい、だよね……


ガートルードはクッションに顔をうずめる。

泣くと思って涙を拭おうとしたのかもしれないし、髪に葉かなにかが付いていて取ってくれただけかもしれない。他に理由があったにせよ、あの距離は心臓にとても悪い。ただでさえ、彼から触れられていたのだ。心臓が壊れるかと思った。

出迎えたターラも顔が赤いことに気付いていただろうに、何も聞かずにいてくれて助かった。彼女の朗らかな笑みは、母親の笑顔とは違うがそれに近しく安堵を覚える。

湯船の支度ができるまでに、顔の熱を落ち着かせたいが、どうにも難しい。これまでで一番近かった一瞬が感触ごと脳裏に焼き付いて、鼓動がたえず騒ぐのだ。

それに疲弊して、か細い溜め息が漏れる。


「……夢にみそう」


しばらくは忘れられそうになく、きっと思い出すたびに心臓に悪い思いをするのだろう。彼の行動が他意のないものだった場合、忘れられずにいるのは自分だけになる。それが少しばかり残念だ。

自分だけが意識している。女性と認識されることと、女性と意識されることは違う。本人にも打ち明けたが、どうすれば彼が自分を対象としてくれるのか見当もつかない。色気ならば、たくましい筋肉と精悍な顔立ちの彼の方がある。

一度自分の胸元に両手を添えてみる。いろいろと足りない。動きやすくてガートルード自身に不便はないが、ほぼ平らでは心臓の音を伝えられても色仕掛けにもなりはしない。

打つ手のなさに、また細く長い溜め息が漏れた。

息を吐き切ったあと、答えのでない悩みに対し、ガートルードは思考を放棄した。夕食になればまたアシュリーと顔を合わせる。せめてそれまでに熱を冷まさなければ。

ターラの用意してくれた湯はぬるめで、熱を冷ますにはちょうどよかった。



急ぐ案件はないが、アシュリーは執務室にいた。

机に両肘をついて頭を抱えている。執事のカルヴィンが、時計を見遣ると、主人がその体勢になって優に十分以上が経過していた。入室当初、お茶を煎れるか訊くと、それより水がいいといわれたので、彼の脇には飲み干されたグラスと水差しがあった。

カルヴィンは、簡単に書類整理などをしながら、主人の反応を待つ。

いつにない主人の様子は珍しいものの、原因の見当はついている。おおむね、ガートルードが原因だろう。最近の彼が思い悩むことがあるとすれば、彼女のことが大半だ。川から戻ったときも、二人してぎくしゃくとしていたから、何かしらがあったに違いない。

詮索するつもりはないが、頭を抱えている主人を放っておくという選択もできない。だから、カルヴィンは主人が反応をみせるまで待ってみることにする。

彼の予想通りの理由で、アシュリーは悩んでいた。正確には、猛省していた。

自分は一体、何をしようとしたのか。

鳥が羽ばたかなければどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。あのとき、羽音がして本当に助かった。

衝動的に動いてしまった自分が信じられない。自制のきかなかったことが不甲斐ないばかりか、そんな衝動が湧くこと自体に驚いた。いたいけな少女に対して、歳上の自分が理性を保たないでどうする。

混乱と自身への叱咤で、アシュリーの脳内は渦巻く。

そんななかで、水面きらめく夏の太陽の下、まばゆく目に焼き付いた光景たちや感触がさまざまと思い出され、さらにアシュリーの精神を削った。どれも自業自得なのが辛いところだ。最初から視線を逸らせばよかったし、自分から彼女に手を出さなければよかっただけなのだから。

一度、頭から手を離し、右手に眼を落とす。掴まれ、誘われた場所の感触を思い出しそうになり、そうじゃないとまた頭を抱える。自分を殴りたくなった。

しかも、今後の対策がとれていないにもかかわらず、次を約束してしまった。川で涼む彼女が楽しそうだったので、またその顔がみれたらと思ったのがいけなかった。

アシュリーは、自分で自分が解らなくなった。本気で彼女に自分を警戒してほしいと思う。

動いたかと思ったら、また頭を抱えてしまった主人に、カルヴィンは声をかけるべきか迷った。


「……カルヴィン」


「なんでしょう」


重い沈黙を破ったのは、アシュリーの方だった。返事をして、カルヴィンは次の言葉を待つ。


「……前に、俺のせいで結婚できないといっていただろ。相手はいるのか?」


「はい。式の日取りを相談しているところです」


恋人の有無を訊ねられ、カルヴィンはあっさり肯定した。以前のアシュリーに対してなら言葉を濁したかもしれないが、現在は彼の方から話題を振るほどに変わった。そのため、明かしても問題ないと思われた。

主人が書類だけとはいえ婚姻してくれたおかげで、結婚の準備中だと彼はいう。

カルヴィンの恋人は、文房具屋の看板娘でガートルードが文具を買い求めた店の一人娘だった。十代の頃から付き合っており、お互い結婚後もそれぞれの仕事を続けるつもりだ。彼は、文房具屋の家に婿入りするらしい。入籍後は、執事の経験を活かし経理を手伝う予定だそうだ。

これまでこういった話をしてこなかったとはいえ、自分の知らないうちに友人でもある彼に恋人を作っていた事実に、アシュリーは驚いた。自分が女性を避けていたため、あえて話さなかったのだと理解はできる。しかし、ずっと気付かなかったことに少し複雑な心境だった。

難しい表情を浮かべる主人に、カルヴィンは嬉しげに目を細める。


「やっと話せました」


「……別に、反対などしない」


「わかっています。ただ友人に祝ってもらいたかった私のわがままです」


以前のアシュリーでも彼の結婚に反対はしなかっただろう。しかし、カルヴィンは恋人を彼に紹介したかったし、心から祝福してもらいたかった。だから、彼が誰かと落ち着くまで待った。

当初は書類上の関係でしかなかったが、今はアシュリーもガートルードに歩み寄ろうとしている。もう大丈夫だと思えた。

アシュリー自身、以前ならカルヴィンの恋人の前でよい顔ができないだろうと思えたので、反論が浮かばず、黙り込んでしまう。その様子をみて、カルヴィンは可笑しそうだ。


「今度、会っていただけますか」


「ああ」


今ならいくらかマシな態度がとれるだろう。アシュリーは悩まず了承した。

友人としての会話になり、アシュリーはおもむろに訊いた。


「付き合って長いのか」


「そうですね。五年……、いや七年になりますか」


「その……、どうやって付き合ったんだ」


「普通に、私から告白しました」


結婚予定の相手と恋人になった経緯を訊かれ、カルヴィンは当たり前のように答えた。しかし、見合い時点で手こずっていたアシュリーには、そんなあっさりとできるものなのかと疑問に思った。

カルヴィンも、出会ってすぐに告白をした訳ではない。仕入れの遣いで文房具屋に訪れたときに、対応する彼女の笑顔に好感をもった。何度か訪れささいな会話を重ねるうちに、文房具屋の遣いを優先して引き受けるほどになった。相手に告白したのは、私的な話もできるようになってからのことだ。


「どういったんだ」


「今後、君の笑顔を傍でみる権利をほしい、と」


さらりと明かされた告白の内容に、アシュリーは唖然とする。とても真似できない。そう思ってから、自分は何の参考にするつもりなのかと自問する。

唸りそうなほどに顔をしかめる主人に、カルヴィンは吹き出す。くつくつと漏れる笑みを、噛み殺しながらカルヴィンは助言した。


「好きだと伝えるだけでもいいんですよ」


要は相手に気持ちが伝わりさえすればいいのだ、と友人に教えられ、アシュリーは問いの真意を悟られていることに気付き、恥じ入る。一見すると苦渋の表情を浮かべているようだが、カルヴィンには照れであることが判っていた。

表情を和らげることの少ない友人だが、最近はその意味合いが変わってきた。カルヴィンはそれを喜ばしく感じる。


「どんな言葉でも、大丈夫ですよ」


ガートルードは、どんなに不器用だったとしても彼が伝えようとしたなら、正しく受け止めることだろう。そして、きっと喜ぶ。それは、カルヴィンにも望ましいことだった。


「……何のことだ」


「さぁ、何でしょうね?」


しらを切ろうとするアシュリーを、内心可笑しく思いながら、カルヴィンは微笑んだ。

主人の遅い春に出逢った女性が彼女で、僥倖ぎょうこうだった。彼とこんな話ができる日がくるなんて、思ってもみなかった。彼女へ感謝を返すためにも、友人が悩むときは寄り添おうと、カルヴィンは思うのだった。



ぎこちないながらも、二人はその後も時折、川へ涼みにいった。

陽射しが強い日に、どちらからともなく声をかけ、川で涼むガートルードを少し離れた場所でアシュリーが見守る。行き帰りは、言葉少なく、ただ手を繋いだ。

夏の終わりを知らせるせみが鳴き始めるある日、アマースト邸のドアが開けられた。ちょうど、使用人とともにエントランスに花を飾っていたガートルードは、そちらに顔を向ける。

エントランスに訪れたのは、侍女のターラと歳が近いと思われる貴族のドレスを着た女性だった。夏の季節に合わせて淡いながら明るい色味のドレスは、年齢に合わせて落ち着いたデザインだった。身長はガートルードより低く、彼女は友人のイヴォンぐらいだろうかと思った。彼女の友人は小柄だ。来訪した女性は、華奢なガートルードと違って肉付きがよく、全体的な輪郭は貴族女性にしては丸めだった。

その年頃で邸に先触れなしに訪れることができる貴族女性など限られている。彼女が誰か、ガードルードはすぐに思い至った。

ぱちり、と視線がガートルードに定められる。


「おかえりなさいま……」


「なんてことなの!?」


ガートルードが挨拶で迎えようとするも、先方の悲壮な叫びでかき消された。彼女はつかつかと歩み寄ってきたと思ったら、ガートルードの両頬を手で包んだ。


「こんな可愛らしいお嬢さんに、男性のような服装をさせて、しかも髪まで! あの子ったら、いくら女性が苦手だからって、自分の妻になんて恰好をさせるの……! あら? でも、可愛らしいデザインね」


「いえ、これは」


自分が自主的にしたものばかりだと、ガートルードが弁明しようとしたところで、背後から声があがる。


「母上っ、来るなら来るといってくれ」


こちらにも出迎える準備があるとアシュリーが抗議する。どうやら、使用人が彼に彼女の訪問を報せたようだ。


「何いってるの。女性の使用人は私がつれてこないといないのに、準備も何もないでしょう」


いい返されて、アシュリーは即座に弁明が浮かばなかった。女性の使用人はいるが、一人だ。しかも、ガートルード用なので、他の女性をもてなす準備には足りない。

ガートルードは、現在、邸を監督する権利を半分任されている状態なので、今後は自分がすればいいのではと思った。思ったものの、今目の前の二人の会話に介入はできそうにない。あとでアシュリーに、それで問題ないか確認しようと彼女は決めた。


「そうだとしても」


「大体、結婚したことを手紙ひとつ寄越しただけで、紹介にもこないなんて!」


それはまだちゃんと妻だと認めてもらえていないからだ、とガートルードは思った。自分が押しかけてきて書類上は夫婦であるが、妻としての役割をすべて任せてもらえるよう信用を得ているところだ。最近、やっと邸の監督権を預けてもらえるようになったので、彼の両親に紹介するにはまだ値しないのだろう。

ガードルードの解釈と実際は違った。アシュリーは当初、本当に報告だけで問題ないと思っていた。それ以降は、それどころではなかった。アシュリーが両親への紹介を失念した原因が、よもや自分だとは彼女は思ってもいなかった。


「それに、式もあげないってどういうことなの!? あなたはよくても、本当にそれでいい女性がいると思ってるの!」


ここにいる。ガートルード自身とアシュリーは同時に思ったが、目の前の女性の剣幕に口をつぐんだ。

勘違いを訂正しようにも、まずは相手に落ち着いてもらわなければならない。アシュリーたちが聞き耳をもってもらえる状態に落ち着くまで待つしかないかと思ったところで、彼女の肩に手が置かれた。


「まぁ、シーラ。話を聞くのは、挨拶してからでも遅くないだろう」


初老の男性は、アシュリーと同じ硬質な黒髪で精悍な顔立ちも似ていた。ただ浮かべる表情は、アシュリーにくらべて穏やかだ。首元から耳の付け根近くまで火傷の痕があるというのに、ガートルードはそのやわらかな笑みの方に気を引かれた。


「驚かせてすまないね、お嬢さん。私は、ブルーノだ。これの父親だよ」


「まぁ、それじゃあ私が悪いみたいじゃないですか。アシュリーの母親のシーラよ。息子がごめんなさいね」


「ガートルードと申します。お目にかかれて光栄です。アシュリー様が謝るようなことは何もされていないので、ご安心ください」


アシュリーの両親の挨拶を受け、ガートルードはスカートがないもののカーテシーをり、にこりと微笑んだ。愛らしい少女の笑顔に、彼の両親、特にシーラは想定していた状況と違うようだと気付く。

話を聞いてもらえる状態になり、アシュリーは疲れた溜め息をいた。


「お茶でもしながら、ゆっくりしようか」


泰然たいぜんとした様子のブルーノの提案に、皆は従うのだった。

アシュリーの両親がつれてきた使用人たちが、部屋へ二人の荷物を運び入れる。それが終わるのを待つ間、ガートルードを入れて家族揃ってお茶の席に着いた。母のシーラがしていた誤解をひとつひとつガートルードが解いてゆく。アシュリーも一応説明しはしたのだが、彼女本人から意見を聞かないとシーラが信じなかった。


「あらまぁ、じゃあ、その服はジュリア製みたいなものなのね。ディティールが可愛いはずだわ」


瞳を輝かせる母親の感想に、アシュリーが首を傾げると、ガートルードが友人の立ち上げたブランドだと説明する。

ガートルードの友人の一人、ジュリアンは自身の領の服飾業の興進の一環でドレスブランドをもっている。流行の最先端をいくともっぱらの噂で、王都で一番人気のあるブランドだ。

アシュリーはそこまで説明を受けて、よく母親が社交シーズンの土産にねだるドレスのブランドがそんな名前だったことに思い至る。着心地がよく、年齢層に合わせたデザインが秀逸なのだと絶賛していた。関心がなかったため、今の今まですっかり忘れていた。

ガートルードの服の袖をつまんで、元が息子のお古とは思えない、とシーラははしゃぐ。


「いいわね。私もジュリアのドレスがもう一着ほしいわ」


「今度、ジュリーに一度頼んでみます」


「まぁ、本当!?」


素敵なお嫁さんをもらったわね、と少女のように喜ぶ母親に、アシュリーは現金なものだと嘆息する。微笑んで対応するガートルードより、自分の母の方がはしゃいでどちらが歳上か判らない。しかし、一度はアシュリーが強いたことだと誤解されたものの、彼女の現状を両親が受け入れてくれたのはよかった。

ブルーノの方は、妻が訊くのに任せて、聞き役に徹している。


「アシュリーとはうまくいっているの? デートはいった?」


ごふっとアシュリーは、飲もうとしていた紅茶を詰まらせた。彼が答えにきゅうしているうちに、ガートルードがにこやかに答える。


「アシュリー様にはよくしていただいてます。護身術の指導も的確ですし、川にも何度かつれていってくださって」


「護身術? 川……?」


「はいっ」


にこにこと嬉しそうに語るガートルード。その内容に、シーラは聞き間違いかと思ったが、彼女はいたって正常だといわんばかりの笑顔だ。ゆっくりと息子の方に首を回すと、その息子はそっと視線を逸らした。デートの行き先が花畑どころか、川とは令嬢に対して野性味が強すぎないだろうか。


「釣りでもしたの?」


「あ、それも楽しそうですね!」


次の機会に挑戦します、と嬉々とするガートルードをみて、シーラはまたたく。そのあとも、稽古のおかげでついた筋肉を示そうと二の腕を持ち上げてみせたり、腹筋が締まってきたと誇らしげに語った。今の筋力ならば大物もひとりで釣りあげられるかもしれないと、シーラが提案したつもりのない案にやる気になっている。

シーラは、てっきり息子の見当違いな配慮の結果かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。どれも、彼女の希望を優先させた結果のようだ。彼女が女性にしては活発な性質なことより、息子が彼女を優先していることの方に、目をぱちくりとさせた。

母親から追及されることを恐れてか、アシュリーは仕事に戻ると中座した。両親の応対は、ガートルードに任されることとなる。

アシュリーの背中がドアの向こうに消えて、一瞬の沈黙がおりる。

そして、ふっと笑みが零れた。零したのはブルーノだった。


「あいつも、あんな表情かおするんだな」


「……ええ、驚いたわ」


「え? アシュリー様はいつもと変わりませんよ」


意外そうな呟きに、ガートルードは首を傾げる。よく気難しそうに硬い表情で眉を寄せる、それがアシュリーだ。笑うことはほとんどないが、言葉や行動の端々に優しさが滲む。彼が眉を寄せるとき、怒っていることは少ない。生真面目ゆえに何事も真剣に考えるからこそのクセだ。


「そうか」


日常的に彼をみる彼女には変わりないと聞き、ブルーノは静かに頷いた。

不思議そうな瞳に答えるように、彼は微笑み、紅茶の水面に視線を落とした。


「お嬢さん、いやガートルードさんは」


「よろしければ、ルードと」


「ルードさんは幾つかな」


「十六です。もうすぐ十七になります」


「じゃあ、知らない世代だな」


「はい」


ブルーノが知らないといったのは戦争のことだ。終戦したのはちょうどガートルードが生まれた年、大きな戦ではなかった。王都では物資の不便さと兵士が出立する物々しさに不安を感じる程度のもの。しかし、隣国に攻められた国境付近は違った。

隣の領地の国境を攻められていたプラムペタルは、負傷した兵士の療養所を臨時で設け、兵の大半が戦場の最前線へと駆り出された。ブルーノの火傷の痕も、その際爆撃を避けて負傷したときのものだ。若い兵の避難を優先させ、直撃こそしなかったが爆撃で、一時的に意識が昏倒した。


「戦争が終わったあとも、あいつだけはずっと張り詰めたままでな」


「私があのとき、あの子を気遣ってやれれば……」


「シーラのせいじゃないさ」


当時の領主だったブルーノが倒れたとき、運び込まれた療養所でシーラは取り乱し、泣き喚いた。命に別状はないと知らされても、火傷の酷さに安心などできなかった。シーラとともに駆けつけたアシュリーは立ち尽くしていた。その姿をみて、幼いアシュリーはどう思ったのだろう。

以来、アシュリーは後継の勉強に勤しみ、剣の腕を鍛え近衛騎士に乞われるほどに強くなった。騎士団を引退し、侯爵位を継いでからも脇目を振らず、ひたすら領地の復興に努めた。ブルーノは自分が引退すれば少しは安心するかと思ったが、張り詰めた表情がゆるむことはなかった。

シーラが結婚を急かしたのも、ひとりで抱え込みすぎる息子を支えるいい人ができればと想ってのことだった。それが、思いがけず叶ったというのに、報告ひとつでは心配するのが母親というものだ。

二人の話を、ガートルードは黙って聞く。真面目な彼らしいと思う。だが、最近のアシュリーしか知らない彼女には、二人にかける慰めの言葉を持ち合わせていなかった。

ブルーノは、視線をガートルードへ移す。ガートルードは自然と背筋せすじが伸びた。


「ずいぶん、表情が豊かになったものだ」


父親の顔をして笑うブルーノに、ガートルードは同意する。


「あまり笑われませんが、みてると分かりますね」


眉の寄せ具合で、悩んでいるのか、心配されているのかなど判別が付く。社交シーズンでしかお目にかかれなかった頃より、アマースト邸にきてからの方が、彼のいろんな表情が知れてガートルードは嬉しい。

ガートルードの言葉に、ブルーノはわずかに目を見開いた。


「あいつが笑ったのをみたことがあるのか……?」


「? はい」


正確には笑われた、といった方が適切だが。雷雨の夜、ガートルードが夜更かしをしていた理由を聞いて、彼は笑った。そんな幼稚な理由だとは思っていなかったのだろう。


「っはは、そうかそうか」


彼女の肯定に、ブルーノは可笑しそうに笑いだした。

ちょうどこんな笑い方だった、とガートルードは思い出す。あのときは暗かったので、また明るい陽の下であの笑顔がみれたらいいと願う。笑い方といい、ブルーノは本当に彼によく似ている。さすが父子おやこだ。アシュリーが歳を重ねれば、目の前の彼のようになるのだろうか。

ひとしきり笑ったあと、ブルーノは妻のシーラと眼を合わせた。


「心配なさそうだな、シーラ」


「そうですわね」


頷き合う夫婦をみて、ガートルードは安堵する。どこが落としどころだったのかは判らないが、安心してもらえて何よりだ。

それに、ガートルードも自分の知らないアシュリーの話を聞けて嬉しかった。傷痕から眼を逸らさず見続ける。彼は、それができる人だった。優しさゆえの彼の実直さを、ガートルードは愛しく想う。


「急に年寄りの話に付き合わせてすまなかった」


「いえ。ブルーノ様やシーラ様とお話できて、とても嬉しいです」


「ルードさん、もうアマースト家の者なんだから、私たちのことはお養父とうさん、お養母かあさんと呼んでくれて構わないのよ?」


むしろ呼んでほしいとシーラに乞われて、ガートルードは躊躇ためらった。


「あの、でも、それは……」


なぜそこで躊躇するのか判らず、二人は首を傾げる。


「……アシュリー様が好きになった方の権利だと思うので」


要望に応えられず申し訳ない、とガートルードは視線を落とす。自分には権利がないという彼女に、二人は目を丸くした。


「いってはなんだが、息子は浮気ができるほど器用じゃないぞ」


「はい。なので、アシュリー様に想う方ができたときは離縁してくださることでしょう」


「どうして?」


シーラには、離縁が前提かのようにいう彼女が不思議でならない。彼女が息子を慕っているのは明らかで、息子も気を許しているから自分たちの手元に残したのだ。関係は良好にみえた。

問われて、ガートルードは、恥ずかしそうに頬を染めた。


「信頼はしていただけるようになりましたが、何分なにぶん、私ばかりが好きなもので……」


ガートルードは、押しかけ嫁であることを明かす。自分が婚姻を迫り、半ば強引に説得したのだ。


このみであれば、好きになってもらえる訳じゃないですから」


彼の好みになれると宣言こそしたが、彼に都合がよい女になっただけで想いが得られるなら世話ない。アシュリーに、彼の思うような女性ばかりではないと示すことはできただろう。それは彼の視野を広げただけだ。他の女性もちゃんとみることができるようになったら、彼が向き合いたいと思う女性もでてくることだろう。

それが解っていたから、想いは伝えても、想いを返してほしいとは口にできなかった。自分が乞うては、彼には重荷だ。

少女のもろさを前に、ブルーノたちは息子が唯一研鑽けんさんを積んでいないものを思い出す。


「……あなた、心配になってきましたわ」


「私もだ」


先ほど安堵したばかりだというのに、二人に新たな危惧が浮上した。ささいな、だが重大なボタンのかけ違いだ。このかけ間違いを、自分たちの息子は直せるのだろうか。

夫婦は一抹の不安を覚えた。



夕暮れとなり、仕事がひと段落つこうかというとき、アシュリーの執務室を訪れる者がいた。彼の父だ。


「荷物は片付いたのか」


「ああ。シーラが安心したら帰るさ」


数日は世話になるだろうという父親の言葉に、アシュリーは今日最後の書類に目を通しながら、返す。


「自分の家なんだから好きにしたらいい」


「もうここはお前の家さ」


邸の主はすでにアシュリーだと、ブルーノはさとす。馴染みのある邸ではあるが、住む者が変われば様相も変わる。


「それは、ポプリか?」


「ああ。気付いたらあった」


六角形のガラス瓶に、爽やかな香りを漂わせるポプリが詰まっていた。紺色の細いリボンが一周して結ばれているだけで、執務室の景観に溶け込んでいる。執務机の隅にあるそれは、アシュリーやカルヴィンが意図して置くようなものではない。きっとガートルードだろう。彼女は、きたときもエントランスで花を飾っていた。

シーラは生花をけることの方が多かったな、とブルーノは思い出す。シーラがこの邸に住んでいた頃は、白粉おしろいの香にすら弱いアシュリーを気遣って、香りの強い花を飾ることは控えていた。別邸に住んでいる今は、彼女の好きに花を飾れて楽しそうだ。

住む人間の色が滲んでいるのを感じ、ブルーノは笑みを刷く。


「お前が従えるのは忠犬ばかりだな」


穏やかな口調だが、皮肉を感じ取りアシュリーは顔をあげた。


「嫁まで忠犬にするつもりか」


「なに?」


心外なことをいわれ、アシュリーは眉間にしわを寄せる。彼女が自分の思い通りになったことなどない。他の忠犬とは執事のカルヴィンやキムを筆頭とする私兵たちのことだろうが、彼らの忠義の厚さとガートルードの思慕が同列だとは思えない。

息子の問いが聞こえていないかのように、ブルーノは話を続ける。


「ルードさんは、料理をするそうだな」


「ああ。一品はかならずルードのだ」


「料理の腕を磨く理由を知っているか」


「いや?」


「ひとりでも暮らせるように、だそうだ」


自活能力を得るためにガートルードは、料理長から料理を教わっているという。自分でできることには挑戦する性質たちゆえのものだとばかり、アシュリーは思っていたため、その事実に驚いた。アシュリーの想定していた理由もひとつではあるだろう。だが、それ以外の理由もあったのだ。

彼女が将来的にひとりで暮らす可能性はひとつ。アシュリーと離縁すること。彼女の家は家族が多いので、離縁したあとも実家に帰る選択肢はないのだろう。護身術を身に着けたいと希望した一因も、それではないかとアシュリーは勘繰ってしまう。


「手をこまねいていると、逃すぞ」


捨てられることに怯える忠犬は、いつか諦め、心が離れるだろう。おそらく、彼女は息子に期待することを諦めている。期待すればその分、失意したときの反動が大きい。一途な心はそれでも期待を抑えられず、いつかはすり減る。ブルーノには、彼女が年相応の脆さをもった少女にしかみえない。


「嫁に期待もされないとは、不甲斐ない息子だな」


柔らかな声音で容赦のない言葉が降る。アシュリーは苦渋の表情を浮かべた。

身長だけならばアシュリーの方がいささか高いが、体格やまとう貫禄はブルーノの方が勝っていた。アシュリーが敵わないと感じるのは、年の功でもあるし、父親が戦を経験したゆえでもあろう。


「さて、お前が怠っているのはなんだ?」


「……わかっている」


むつりとした呟きに、ブルーノはならよし、と息子の頭を撫でた。自分で答えに行き当たらないようであれば、殴ろうかと思っていた。しかし、彼が諭さずとも、息子はちゃんと考えていたらしい。


よほど大事なんだな。


一心不乱に勉強し、鍛えていた息子は、わがままらしいわがままをいわないまま成人した。女嫌いと噂されていたのも、領地のことを第一優先にする価値観のせいだ。何事も領民の生活を優先する。息子は領主らしくなりすぎた。

そんな息子が、自ら望み、手を伸ばそうとしている。

不服そうにしながらも、アシュリーは父親の手を払いのけない。デカくなっても息子は可愛いところがあるものだと、ブルーノは満足するまで彼の頭を撫でるのだった。



夕食の席は、アシュリーの両親とともに四人で食卓を囲んだ。

ブルーノたちの別宅での暮らしぶりや、ガートルードの服を発端にアシュリーの少年期の話で歓談した。昔から可愛げがなかったと笑う彼の両親の表情は、言葉とは真逆で、ガートルードには微笑ましい限りだった。


「そういえば、ルードさんが作ったのはどれだい?」


「あ。えっと」


「このペンネだろ」


ブルーノがどの一品がガートルードに訊くと、別のところから答えが返った。ペンネのトマトソース煮を食べるアシュリーを、ガートルードは驚いてみる。


「ご存じだったんですか?」


「お前が美味いか聞いてきたのは、これだろう」


ガートルードは自分が作った料理がどれか、教えたことはない。けれど、彼の感想が気になり、かならず自分の作った品を口にしたときには味を訊いていた。美味しいかと訊いて、ただ美味しいと返る。それだけのやりとりでガートルードは幸せになっていた。

どうやら自分の反応は判りやすすぎたらしい。ガートルードは照れて、頬を染める。彼が、自分の作ったものと承知で感想をくれていたことが嬉しかった。


「あの……、いわなかったのは、私のだって分かったら教えてもらえないかもと、思って……」


「俺は忖度もしないが、そんなことで嘘は吐かない」


「はい。ありがとうございます」


ガートルードが思わず礼をいうと、アシュリーは首を傾げた。そんな息子夫婦に、ブルーノは満足そうに目を細め、シーラはふふふと小さく微笑んだ。


「ルードさんをみていると、料理もなんだか楽しそうね。私もお菓子作りを覚えようかしら」


「おいおい、実験台になるのは私だぞ」


「まぁ、実験台だなんて失礼じゃない。アシュリーの誕生日までにケーキのひとつぐらい作れるようになるわ」


最初から失敗すると決めつけないでほしいとシーラが、ブルーノに剥れる。そんな可愛らしい義母の言葉に、ガートルードは反応する。


「アシュリー様の誕生日が近いのですか?」


「少し先の秋よ。収穫期の冬支度に備える時期でね、忙しいときに生まれてきて大変だったわ」


プラムペタル領は積雪する地域で、山の麓にあるアマースト侯爵邸周辺は雪が深くなる。食料や薪など、冬を越えるのに問題ないよう準備するのは邸を監督する妻の役目だ。使用人と総出で秋は慌ただしくなる。アシュリーが生まれた年も、シーラは産後横になりながらも指示だけはだしていたという。


「生まれたときのことで文句をいわれても困る」


「感動しているヒマがなかったのが残念だっただけよ」


やはり文句ではないか、とアシュリーは嘆息する。これからもきっとこのネタで、母親から不服を申し立てられるのだろう。覚えがないことで責められて弱りはするが、それだけ母親にとって待望の子供だったのだと伝えられむずがゆい心地もした。


「ルードさんにも作るわよ。ルードさんの誕生日はいつかしら」


腕があがること前提で、シーラがにこやかに訊ねた。妻は器用ではないが諦めが悪いので、自分はとことん味見に付き合わされるだろう未来をブルーノは覚悟する。根気だけはあるのだ。

ガートルードが数拍考えたのち、思い出した。


「今日、十七になりました」


ガートルード以外のティーカップを持つ手が止まった。今日はもう夕食も終わり、食後のお茶で一息ついている段階だ。今さらケーキを用意することも叶わない。


「どうしていわない!?」


「聞かれなかったので」


思わず大声をあげたアシュリーに、ガートルードはきょとんと返す。彼女にこういうところがあったのを思い出し、アシュリーは長い溜め息を吐き出した。生理や服のときもそうだが、彼女は、自身に無頓着すぎるのだ。

ガートルードには誕生日はそこまで特別なものではなかった。三姉妹で家族が多いうえ両親が忙しく、忘れられることもあった。姉や妹は、忘れられるとごねて後日ケーキなど何かしらを要求していたが、ねだってまでほしいものが浮かばなかったガートルードはただ両親の謝罪を許した。デビュタントのときのドレスを奮発してくれたのは、きっとそういった経緯もあったからだろう。


「明日にでも、ジェフらにケーキを……」


「お気持ちだけで十分です。ただ歳とっただけなので」


「だが……」


「ルードさん、誕生日おめでとう。我が家にきてくれて、嬉しいよ」


「ありがとうございます」


「おめでとう。来年こそ、ケーキを作るからね」


「はい。楽しみにしています」


渋面になるアシュリーをおいて、ブルーノたちは言祝ことほぎを贈る。それを受け、ガートルードは嬉しそうに微笑んだ。

ブルーノが息子に視線を投げると、アシュリーは渋い表情のまま、祝いの言葉を口にのせた。


「……誕生日、おめでとう」


「ありがとうございます」


ガートルードははにかみ、言葉だけでも充分に嬉しそうにする。しかし、アシュリーは納得できなかった。

しばらくして両親が席を立ち、ガートルードも自室に戻ろうとする。その手首を捉えた。引き留められたガートルードは、理由に思い至らず、首を傾げる。


「話がある」


「何ですか?」


この場で聞こうとするガートルードに、アシュリーは条件を加えた。


「二人で」


ガートルードがちらりと視線をアシュリーから外すと、使用人たちがティーカップを片付けていた。使用人であっても、他人に聞かれたくない話なのだと彼女は納得した。


「では……」


使用人が介入しない時間・場所をガートルードは指定したのだった。

夜も更けた頃になり、窓からは月明りが差しうっすらと家具の輪郭を浮かび上がらせる。静まった空間で、コンコンとノックの音がした。静かであるがゆえに、その音は部屋のなかを満たし、ガートルードには大きく聴こえた。

予定されたことなので驚くことなく、ガートルードは音のしたドアを開けた。


「お待たせしました」


「他にはなかったのか……!?」


出迎えると、アシュリーが開口一番に抗議した。声を潜めてはいるが、怒鳴りたい心境なのだろう声音だった。


「庭だと人の目があるといったのは、アシュリー様じゃないですか」


庭の散策を夜にしては悪目立ちをする、と他の案を却下したのはアシュリーだ。ガートルードがその二つしか浮かばなかったと返せば、同様らしいアシュリーはぐっと黙った。平穏であっても邸には最低限の警護はいる。夜間の見回りの当番もいる以上、お互いの部屋のどちらかを使う他、人の目を避ける手段はない。

お互いの部屋を繋ぐドアを挟んで、二人は向かい合う。


「大体、なんだその恰好は……!?」


「ただの寝巻ですが??」


なぜ抗議されているのか判らないガートルードは、こてりと首を傾げた。彼女の身につけたバジャマは、柔らかい生地のシャツと同じ生地で作られたパンツだ。夏用に袖の丈は二の腕までで、パンツも膝上二十センチの丈だった。無地でシンプルだが、腕も脚もでているため涼しく、快適でガートルードは気に入っている。

露出している肌面積が、川遊びしているときと大差なく、さらに薄着だ。アシュリーは目のやり場に困る。せめて何か羽織ってくれないだろうか。

いちいち目くじらを立てていては本題に入れないと、アシュリーはこれ以上言及しないよう、漏れそうになる抗議の言葉を堪えた。


「どちらで話しますか?」


ガートルードに選択肢をだされ、アシュリーは固まる。彼女の部屋に入っても、自分の部屋に招き入れても、どちらも寝室だ。どちらもまずい。

やはり今からでも庭の散策に変更するべきかと、アシュリーは葛藤する。

沈黙するアシュリーをどう思ったのか、ガートルードは踵を返し、自身のベッドの隅にぽすんと座った。そして、その隣をぽんぽんと叩く。


「どうぞ」


どうしてお前はそう簡単に……!!


男をベッドに招く意味が解っているのだろうか。アシュリーが注意したところで、どうせ自分にしかしないからいいのだと答えそうだ。こういうとき、彼女へ注意すると心臓に悪い答えしか返らないとアシュリーは学習していた。だから、思うだけにとどめる。

数分、逡巡したのちアシュリーは半ば諦め、ガートルードの隣に腰を下ろした。話す前にすでに疲弊が酷い。

ちらりとガートルードを一瞥すると、窓からの月光でベッドから投げ出された脚が白い光の輪郭をとっていた。

どくりと心臓の鼓動が力強く打つ。アシュリーはそれを必死に無視をする。


「それで、どうされたんですか?」


見上げてくるガートルードに訊かれ、彼は動揺をみせないように重く口を開く。


「してほしいことをいえ。なんでもいい」


「え……?」


「できるだけ、今日中にできることで。俺にできる範囲なら、努力する」


アシュリーの申し出の意図に気付き、ガートルードは弱ったように微笑む。


「いいといったのに」


「俺がよくない」


怒ったように返された。誕生日を当日中に祝おうとする彼の気持ちが嬉しい。ガートルードは、じわりと胸が熱くなるのを感じた。

真剣な眼差しは、どうやらいうまで逃してくれないらしい。

ガートルードは少し悩んで、躊躇いを感じながらも誕生日だからという理由を後押しに、望みをひとつ打ち明けた。


「アシュリー様が私にしたいことを教えてほしいです」


彼女の要望に、アシュリーは目を丸くする。誕生日は、最大限のわがままを口にしても許される日だ。どうしてそんなことが、彼女の最大限のわがままなのだろう。

ガートルードが冗談をいっている気配はない。だからこそ、余計に不可解だった。迂闊うかつに他の要求を訊いては、彼女の願いを無下にする。そう思うとアシュリーは、なんと返すべきか迷う。

言葉をなくすアシュリーをみて、したいことが浮かばないゆえだとガートルードは判断した。


「やっぱり、ない、ですよね……」


ガートルードはやるせない笑みを浮かべる。

彼に望まれずこの邸にきた。いることを許容されても、彼が望む人間になれない。彼は自分の望むことを叶えてくれたが、彼から望まれたことはない。

求められていないことを承知で傍にいることを望んだのだ。これ以上のわがままをいってどうする。

彼の優しさをはき違えてはならないと、ガートルードは拳を握り込んだ。

その拳が、大きな手に包まれる。その手を見つめてから、ガートルードが視線をあげると、苦痛を堪えるような瞳とかち合う。

アシュリーは、もう一方の手で彼女の頬に触れる。

こんな表情をさせたかったんじゃない。アシュリーは観念した。彼女には到底敵わない。


「ある」


「え」


「ありすぎるから困っている」


アシュリーの言葉がガートルードには意外だった。そして、そのあとの彼の吐露は驚くものだった。


「お前を笑わせたい」


彼女には笑っていてほしい。彼女が笑うだけで心が軽くなる。笑っていないと調子が狂う。


「今日も、ジュリアンがきたときもそうだが、二人になる時間がほしい」


彼女と二人だと癒される。雷雨の夜に気付いたが、二人の時間がないと辛い。


「不埒なことをしたいと思うことなんてざらだ」


「私は、何されてもいいって……」


「お前を乱暴に扱いたくない」


彼女を大事にしたい。

だからそういうことをいうな、と理性で堪えるアシュリーの瞳に映るガートルードはもう真っ赤だった。林檎のように赤い頬や唇に嚙みつきたい衝動を抑えるのに、アシュリーは必死だ。今は伝えるべきことを伝えなければ。


「ルード、ずっと傍にいてほしい」


ぽたりと雫が伝い、白い膝に落ちる。ひとつ零れると、簡単にガートルードの瞳から涙が溢れた。


「私、は……あなたに好きになってもらいたいと願ってもいいんですか……?」


「とっくに好きだ」


涙するガートルードを慰めたくて、アシュリーは不器用に微笑む。その無理した笑みに、ガートルードはくしゃりと笑った。

次の瞬間には、彼の胸に飛び込んでいた。


「今までで一番嬉しい誕生日プレゼントです」


「そうか」


ぎゅっと抱き着いてくるガートルード。湧く愛しさに任せて力を込めないよう、アシュリーは恐る恐る抱き返す。柔らかな感触にどれだけ力を入れていいか判らなかった。

包む腕のぎこちなさに、ガートルードは小さく笑う。


「もう少し乱暴にしても大丈夫ですよ」


「お、おまっ、えは! 言葉を選べ!!」


場所と時間を考えろと叱られても、ガートルードは笑うだけだった。彼になら乱暴にされても構わないのは彼女の本心だったが、確かに、嬉しさで胸がいっぱいでこれ以上は過剰摂取かもしれない。ここは彼の優しさに甘えておこう。

誕生日が終わる刻限まで、彼女はアシュリーの腕に包まれていたのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る