08.友人



伯爵令息のジュリアンがアマースト邸にきて、四日が経った。邸の主であるアシュリーはすでにげんなりしていた。

可憐な彼は、化粧もし香水もつける。ガートルードとの見合いのときに告げた女性が苦手な要素は、性別に関係ないものだと彼のおかげで気付けたのは幸か不幸か。

それでも、彼が自身に施すのは過度なものではなく、アシュリーでもまだ耐えられるものだった。もしかすると、ガートルードから事情を聞いているのかもしれない。

当然ではあるが、ジュリアンがきてからというもの食事では彼もいるし、そのうえ、三時になればお茶会でさらに彼と顔を合わせる。そして、金物工房の見学やらの交渉事でガートルードよりジュリアンの顔を見る時間の方が長い毎日だ。

彼は見た目は華やかだが、業務交渉でアシュリーと二人になるときは年若い令息らしからぬ手腕をみせる。ただ父親である伯爵の意見を鵜呑みにして話すのではなく、自身が実際に見て確認したことを踏まえて条件のすり合わせをしてくる。サーグッド伯爵が息子に交渉を任せた理由を、アシュリーは彼と話すことで理解した。

業務交渉においては、いたって順調な進行だ。

しかしながら、気疲れする。肉体的には健康そのものだが、精神的疲労の度合いが強い。

気疲れの理由に、アシュリーは薄々気付きつつあった。


「ジュリーには感謝しているわ。いつもアシュリー様の出席するパーティーにつれていってくれて」


「僕も、ルードがエスコート相手だと気が楽だからね」


「ふふっ、そんなこといって、わざわざ招待状を手に入れてくれたこともあったじゃない」


「そうだっけ?」


とぼけてみせるジュリアンに、ガートルードは感謝を込めて微笑む。最低限の社交しかしないアシュリーは侯爵だ。そのため、彼が参加するパーティーに子爵令嬢だったガートルードまで直接招待を受けることは少ない。伯爵家のジュリアンの方が伝手があった。

限られたアシュリーの姿を見る機会を、最大限に増やしてくれた友人にガートルードは感謝しかない。おかげで、己の眼で彼の人となりを見極めることができた。

三時のお茶会では、ジュリアンの宣言通り友人同士の積もる話が繰り広げられた。微笑ましく映るそれに、アシュリーは介入することができず黙して、時折紅茶を口にする。

アシュリーがガートルードと会う、正確には彼女の存在を認識するより前の話に、どうして彼が混じれようか。ただ聞いているしかできない状況で、いる意味があるのかさえ、彼は疑問に思う。しかし、ガートルードとジュリアンを二人にできるかといえば否だ。どんなに可憐であってもジュリアンは男なのだ。

自分の知らないところでガートルードがどれだけ自分を想い、行動していたかを耳にしてむず痒さに居たたまれなくなる。また、ジュリアンが彼女をエスコートしていた事実を拾って、妙に気にしてしまう。今さら変えようもない過去のことを気にしても仕方がない。それを理解はしていても気にしている自身に眉間が寄る。

アシュリーの複雑な心境を知らないガートルードは、彼と会う時間が増えたことを素直に喜んでいた。ジュリアンの申し出を、邸の主であり夫のアシュリーは断ることもできた。今だって彼の意思でいつでもこのお茶会をお開きにできるのに、ガートルードたちが充分に語らえるよう席を立たずにいる。友人と過ごす時間を許してくれる彼の優しさに、ガートルードは嬉しさを募らせる。


「そういえば、覚えてる? 僕が初めて夢精したときルードに泣きついたの」


ごく自然にふられた話の内容に、アシュリーは飲もうとしていた紅茶を気管支に入れかけてしまい、盛大に咳き込んだ。彼の動揺を余所に、二人は平然と笑い合う。


「忘れるわけないじゃない。変な病気かもって心配したときより、第二次性徴だって分かってからの方が泣きわめいていたもの。お父様みたいになりたくないって。ジュリーのお父様が、とてもショックを受けていたわ」


「だって、あんなひげ濃くなるなんて絶対嫌だったんだもん」


「あのときのジュリーを慰めるのは大変だったわ」


「けど、ルードが僕はずっと可愛いって保証してくれたから、すごく嬉しかったよ。ルードがいなかったら、怖くて両親に理由を聞くこともできなかったもん」


「私もジュリーが一番に相談してくれて、嬉しかったわ」


母と三人の姉に文字通り可愛がられて育ったため、ジュリアンには同性の友人がいない。

母親が可愛いものが好きで、姉たちもそれにならい、可愛いことをよしとする彼女たちは、ジュリアンの容姿が母親似で愛らしいからと自分たちと同じ服装を着せていた。母親たちの嬉しそうな表情を見て育った彼は、可愛いことが一番の価値観であり、あとから父親に男らしくする選択肢を与えられても興味が湧かなかった。物心ついた頃には、自らドレスで着飾る道をジュリアンは選択した。

そのため、身体の変調に恐怖しても、同性父親異性母親、家族のどちらにも相談できなかった。唯一打ち明けることができたのがガートルードだった。彼女の価値観は、令嬢の枠に収まる規格ではなかった。だから、最初からありのままのジュリアンを受け入れ、接してくれた。彼女ならどんなことを打ち明けても、笑わず聞いてくれると信頼できた。

かといって、幼いガートルードが何でも知っている訳もなく、最終的には両親に変調の理由を訊くことになった。けれど、彼女という友人が傍にいたから、その選択に一歩を踏み出せた。

夢精が男の身体になるきざしと知ったときの恐怖は、凄まじかった。髭の豊かな父親の血も自分には流れているのだ。自分が一番よいと思う価値の枠にいれなくなることは、ジュリアンにとっては絶望と同義だった。

恐怖で泣くジュリアンを、ガートルードは笑わなかった。それが自然なことだと諭すこともなかった。彼がそれだけ辛いのだと受け止め、彼の価値が失われないとひたすらに励ましたのだ。

ジュリーは母親似だから、大丈夫。体躯が変わったとしても、やり方を工夫すればいいよ。そんな、ありきたりな励ましも、友人である彼女が自分のために模索した結果なら受け入れられた。可愛い、を捨てなくていいと励ます彼女だから、信じれた。

第二次性徴という、一番もろく不安定な時期を共に乗り越えた相手とのきづなはより強固なものになった。

ある意味肉親より親しいその絆は、ただ会話のやり取りを眺めていただけのアシュリーにも感ぜられた。見えずともありありと判る信頼関係にざわざわと胸が波打つほどだ。

ガートルードの言葉を疑っていないし、友人であると理解はしている。しかし、紙の上でしか夫婦関係が成立していない自分よりは、友人ジュリアンの方がずっと重要な存在ではないか。ガートルードのなかでの自分の位置づけを気にして落ち着かなくなるとは、不甲斐ない。

こうしてジュリアンに彼女との友情をさまざまと見せつけられては、落ち着かなくなる胸中を自覚し、アシュリーは精神的に疲労していった。



しびれを切らせたのはジュリアンが先だった。


「いい加減、ルードのこと呼んだら?」


呆れ半分、苛立ち半分で、調整中の交渉書類をテーブルに置く。アシュリーの執務室で、お互いに交易する品目と量のつり合いを図っていた。それにある程度の目処がついたので、ジュリアンは交渉外のことを指摘した。

今は関係ない、と言いかけるもアシュリーはぐっと黙る。その発言は逃げの行為だ。


「……呼ぶタイミングがないだけだ」


「そりゃ、自分からルードに会いに行かないからね」


ジュリアンとのお茶会もほぼ見張りのように座っているだけだ。彼から行動を起こしていないのだから当然だと指摘されれば、アシュリーは反論しようもない。


「別に、好きなときに呼べばいいし、顔見たいときに会いにいけばいいじゃん」


「しかし、用もないのに……」


「……なんでそんなとこだけ、似たもの夫婦なんだよ」


用事もなく声をかけられないと躊躇うアシュリーを見て、ジュリアンは呆れる。ガートルードも、同様の遠慮をしている。彼女には直接訊いていないが、彼の仕事を邪魔してはいけないと思っている節がある。だから、ジュリアンとのお茶会でアシュリーに会う機会が増えただけで、とても喜ぶのだ。

しかし、躊躇う理由で呼びたい気持ちを暗に明かしていると、アシュリーは気付いているのだろうか。ジュリアンは目の前の男が、歳を重ねた分だけ鈍感になってやしないかを危惧した。

じれったいと感じるが、ジュリアンがせっつくのはアシュリーの方だ。ガートルードはすでに充分努力している。この男は彼女の努力に応えるべきだ。


「いい? 僕が滞在中には旦那から呼びなよ」


びしりと人差し指を差してジュリアンは、アシュリーに課題を出す。これはガートルードの友人としてだ。

アシュリーは与えられた課題に、是とも否とも答えられず、黙り込んでしまう。芳しい反応を期待していなかったとはいえ、彼の反応にジュリアンは嘆息してしまう。


「まったく……、他にも問題があるってのに」


「問題?」


頬杖をつくジュリアンに、アシュリーが首を傾げると、彼はアシュリーの向こうに視線を投げた。そこには控える執事のカルヴィンが。


「その問題は、きたばっかの僕より、使用人そっちの方が分かってるんじゃないの」


愛らしいはずのジュリアンの視線は鋭く、カルヴィンは視線を逸らし俯く。振り返ったアシュリーは、その肯定を見て取り、カルヴィンを促す。


「何だ」


主人に催促され、カルヴィンは躊躇いながらも口を開いた。


「ルード様は、我々に笑いかけてくださいますが、いまだ遠慮されたところがあります」


アシュリーも、ガートルードが最低限しか人に頼ろうとしないと知っている。それは彼女の性格上のものだったり、自分の好みになると宣言したゆえのものではないかと思っていた。それも一因ではあるのだろう。しかし、カルヴィンの様子は、他にも要因があると示していた。


「ルード様が、アシュリー様に頼られないのは信頼関係を築けていないことが問題ではないかと」


信頼関係という言葉がアシュリーに重くのしかかる。それは、ジュリアンとの格差を感じた最大の要因だ。


「邸にいらしてから、ルード様は領地に関する書物を読まれていらっしゃいます。アシュリー様から妻の役割を任せてもらえるように、と努めているのでは、と……」


邸の、そして領地の主であるアシュリーからの許可なく領分を侵してはならないとガートルードはわきまえた行動をしていた。そのうえで、アシュリーから妻としての信用を得ようと、勤勉にプラムペタルの文化や歴史・地理を学んでいるのだ。

彼女の努力を知らされ、アシュリーは言葉をなくす。やっと解ったかと、ジュリアンは半眼になった。

貴族は邸および使用人の管理を家令などに任せることもできる。実際、使用人に任せきりで豪遊する貴族もいる。しかし、アシュリーは真面目な性質たちで領地管理だけでなく邸の管理にも携わっている。使用人の監督は執事のカルヴィンに一任してはいるが、定期報告をもらい状況把握はしていた。そんな彼の妻になろうときたガートルードが、食客のような状況で甘んじるかといえば、否だ。

ガートルードは恋愛感情は抜きにしても、アシュリーから妻として邸を任せられるだけの信用を得るのが目標だ。それは結婚報告の手紙からも、本人の様子からもジュリアンには解っていたことだ。


「ほら、理由あげたんだから、これ以上、二の足踏まないでよね」


この件だけは、邸の主であるアシュリーから言わなければならないことだ。


「ああ」


アシュリーは頷いた。ガートルードがなぜ頼ろうとしないのかともどかしく感じることもあったが、その理由を自分で作っていたのだ。新兵も仕事を任せることで上からの信頼を感じ、徐々に組織としての連携がとれるようになる。何もさせないでいて信頼関係が築けるものか。

彼女が相手だと、普段なら気付けることを見落としてしまう。自身が思うよりも、アシュリーはガートルードの存在に振り回されていた。


まったく手がかかる。


反省した相手を前に、これ見よがしにする訳にもいかず、ジュリアンは内心で嘆息した。堅物ゆえに友人への態度がまどろっこしい目の前の男のよさを理解はできないが、友人は彼でないといけないらしいから仕方がない。

一年、家族の価値観に合わせて一般的な令嬢でいる以上彼の視界に入らないだろうと諦めたように微笑んでいた。婚姻を取り付けて以降、信頼関係以上を求めず傍にいれるだけで満足している。健気な想いを抱える友人はどこかでアシュリーから想いを返されることを諦めている。

そんなこと、ジュリアンは許さない。

女嫌いだ、歳上だ、など知ったことか。友人の幸せのために、目の前の男には必ずむくわせる。

アシュリーには容赦しないと、ジュリアンは決めていた。



「ジュリーはいいな」


夜も更け、寝支度を整えたガートルードは眺めていた窓辺から、一度視線を室内のドアへとやった。廊下に面していないそのドアの向こうは侯爵の寝室。アシュリーの寝室だ。そのドアが開いたことはない。

子爵令嬢のガートルードにまで見合いの話がまわってきたものだから、跡継ぎをかされているのかと思っていた。だから、身体だけの行為をする可能性も彼女は考慮していた。しかし、そこまで切迫している訳ではないらしい。

そんなとっかかりもなく、ガートルードは女除けとして存在こそ許されているが、アシュリーとの交流する機会はそう多くない。多くないことに友人の来訪で知ってしまった。

ジュリアンが三時のお茶に誘ってくれるおかげで、それまでよりアシュリーと会う機会は増えた。しかし、食事とお茶の時間以外は、業務交渉をするジュリアンの方がアシュリーといる時間が多い。それが少しばかり羨ましい。

女嫌いのアシュリーが振り向いてくれる可能性は低く、場合によっては形だけの婚姻関係になることは覚悟して、ここにきたはずだった。アシュリーが自分にも優しくしてくれるため、欲がでてしまったようだ。

開くはずのないドアから窓辺に視線を戻すと、ぽつりぽつりと雫が窓を打ちはじめた。星も見えないほどの濃い雲だと思ったら、雨雲だったらしい。雨足はほどなくして激しいものに変わり、強い風が窓枠を鳴らした。果ては稲光が走るほどだ。

ガートルードが稲光を眺めているうちに、少しずつ雷鳴が近付いてきた。空に光が走ってからゴロゴロと唸るまでの間隔が短くなってゆくのをガートルードは感じとる。

そして、ドアの開く音がした。その音は、壁の向こうからだった。

ガートルードが耳を澄ませると、急いたような荒い足音が遠ざかったゆく。


何かあったのかしら。


アシュリーが夜更けに出かけなければならない急用が発生したようだ。緊急の様子だったから、この雷雨が原因かもしれない。

気になりはしたが、本人に訊かなければ判りようもないことだ。ガートルードは、夜闇に時折訪れるまばゆさを眺め、邸の主の帰りを待つことにした。

一時間は経過しただろうか、外の雨風の騒がしさと違い静まっていた邸から幾人かの足音が聴こえた。しばらく待つと、聞き覚えのある身長の分だけ重く響く足音が、先ほどよりも落ち着いた調子で近付いてきた。

その音に惹かれ、ガートルードは侯爵夫人室のドアを開けた。すると、外着のアシュリーが休むため彼女の部屋を通り過ぎるところだった。雨具では防ぎきれなかったのか、髪が多少濡れている。


「寝ていなかったのか」


顔を覗かせたガートルードを見て、アシュリーは意外そうだ。とがめるというよりは、休んでいてよかったのにという響きだった。


かみなりが綺麗だったので、つい……」


雷に見惚れて夜更かしをしていた、とガートルードは正直に明かす。怖がる者が多い雷だが、ガートルードは眺めていたくなるほどに好きだった。遠くで唸ったり、近くで轟く雷鳴も迫力があっていい。彼女にとっては気分が高揚するものだった。

危険もある自然現象に対して、令嬢であれば怯えるのが通常にもかかわらず、ガートルードは、いたずらがバレた子供のように頬を染めて俯く。そんな答えが返ると思わなかったアシュリーは目を丸くする。


「っく、はは、俺が子供のときと同じことをしてるとは」


自分もしたことがあるため、ガートルードがどれだけ目を輝かせて窓辺を眺めていたか容易たやすく想像できてしまい、可笑しくなった。

ガートルードは初めて見る彼の笑顔に、ぽかんとしてしまう。自分が笑われたことはどうでもよく、こんな風に笑うのかとただ驚いた。


「どうせ明日、もう今日か。今日も早く起きるんだろう。もう寝ろ」


「はい。あの……、何があったんですか?」


かすかに笑みの残る声でいわれ、ガートルードは素直に頷く。しかし、眠る前に気になったことだけ訊ねた。何事かがあったことは明白だが、天候と足音だけでは原因の特定はできない。


「雷のひとつがわらの格納庫に落ちて、ボヤ騒ぎがあったんだ」


「牧場の方たちは大丈夫だったんですか?」


「ああ。もともとうまやや家屋とは間隔が開いていたからな。雨で鎮火も早かった。俺がしたのも損失への対策がほとんどだ」


「アシュリー様が駆けつけてくれて、牧場の方々も心強かったでしょうね」


ガートルードの言葉に、そうだといいがな、とアシュリーはぶっきらぼうに返す。

馬牧場で火事が発生したとの報告を受けたため、アシュリーは領主として被害範囲の確認で馬を走らせたのだ。自然の雨で鎮火作業は必要なかったが、馬の養育に必要な藁が大量に損失したため、牧場には痛手であった。取り急ぎ分は、近隣の牧場に手助けしてもらうとして、不足分の手配をすると被害にあった牧場主に約束した。

思いがけない被害に遭った牧場主とその家族からすれば、領主自ら駆けつけてくれたことはとても頼もしかったことだろう。彼が当たり前のようにするその優しさに、ガートルードは胸があたたかくなる。彼は、本当に領民想いの領主だ。


「あ。私、そんな大変なときに喜んで雷を眺めていました……っ」


領民が困っていたときに呑気にしていた自分に気付き、ガートルードははっとする。申し訳なく感じそうになっていたところに、ぽんと大きな掌が頭にのった。


「人ではどうしようもない自然現象だ。どうせなら楽しんでおけ」


そう、また先ほどのように可笑しげな声が降る。もしかしたら、アシュリー自身が幼い頃に、両親にそう言われたのかもしれない。それでも、悪いことではないと言葉をかけてくれたことが、ガートルードには堪らなく嬉しかった。

彼女が眠るのを確認してから自室に戻ろうと思っていたアシュリーは、なかなかドアを閉じようとしないガートルードに首を傾げた。会話も終わったというのにどうしたというのか。

視線で彼の疑問を感じとり、ガートルードは照れくさそうにはにかんだ。


「……えと、アシュリー様と二人だけで話せたの、久しぶりで嬉しかったです。ありがとうございます」


彼女の言葉で気付く。この数日、彼女と二人だけで話すことがなかった。彼女と話すときは、必ずジュリアンがいた。早朝の素振りのときは、ただ彼女の走る姿を見かけるだけだ。

こうして二人きりで言葉を交わすことを、ずいぶん久しぶりに感じた。

自分がどうしてここまで精神的に疲労していたのか、アシュリーは知る。回復する時間がなかったのだ。

そして、自分に向けられた笑顔に癒されていたことを思い知る。

アシュリーから疲労を自覚した溜息が零れた。それは、ガートルードの肩口にかかる。

ガートルードは気付けば、アシュリーの腕のなかにいた。何が起こったのか解らず、彼女は固まる。

彼との二人だけの時間を得れて喜んでいたのは自分だ。きっとアシュリーには、そんなことぐらいでと一蹴されるものだ。そのはずだった。

自分の存在を確かめるように、背中に回された手はあたたかい。雨で冷えた服にじわじわと自分の熱が移ってゆくのを感じる。そういったひとつひとつの感触を拾ってしまう自分に、頬が熱くなった。

自分を腕に閉じ込めてから、アシュリーはほとんど動かない。

休むはずだった夜更けに出かけることになり、彼は疲労しているはずだ。それを思い出し、疲れているところにたまたま居合わせた自分に寄りかかっただけの可能性に、ガートルードは気付く。自分だけが意識してしまっている状況に、頬の熱が上昇する。

しかし、抱きすくめる腕の力強さを、女性であるガートルードではどうにもできない。


「ア、シュリー様……っ、お疲れなら、アシュリー様も早く休まれた方が……」


戸惑った声音が耳元で聴こえる。

彼女の声が囁くような距離からすることに気付いて、アシュリーは我に返り、顔をあげ、自身の腕のなかを確認した。


「あ、あの……?」


腕のなかには、夜闇でも判るほど顔を真っ赤にして弱る少女がいた。

一体自分は何をしていたのか、とアシュリーは驚愕する。思わず固まってしまい、しばらくガートルードと見つめあう。

行動の理由を説明できないにしろ、急に突き放しては彼女に誤解を与える。アシュリーは動揺しながらも、なるべくそっと彼女から手を離した。謝った方がいいのだろうが、それでは理由を説明しないといけなくなる。


「……っルードも、ちゃんと休め」


呼ばれた名に彼女の瞳が輝く。そんないちいち反応しないでくれ、とアシュリーはこみ上げるものを堪えた。


「はいっ、おやすみなさい」


「おや、すみ」


ドアが閉まる瞬間にみえた彼女の表情は、極上の笑顔だった。

自室に戻り、シャワーを浴びたあともその笑顔が消えず、その夜、アシュリーは自身の行動を猛省した。無意識に近い行動の理由は当分誰にもいえそうにない。


彼女だけといたかった、など。


自分は思ったより重症だったらしい。


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