07.来訪



数日後、全快したガートルードは朝の走り込みを再開した。

ターラとアシュリーの許可がでるまでは、昼下がりに邸の庭を散歩するまでしかできなかったが、久しぶりに駆けると、感じる風が気持ちいい。若干、身体のなまりを感じるが少しずつまた慣れることだろう。

運動を再開して一週間がすぎた頃、調子が戻ったことを感じ、さらに一週間後、邸の外周を一周しても息切れしなくなっていることに気付いた。それを喜んだガートルードは、その日の昼下がり、さっそく第一部隊の走り込みへ合流した。


「隊長、お久しぶりです」


「おお、ルードじゃねぇか。前よりいい面構えになったな」


「恐れ入ります」


兵士たちが走る列の先頭へゆき、第一部隊の隊長キムへ挨拶すると、並走していても息切れしていないことに気付き褒められた。一ヶ月以上前に会っただけの自分をちゃんと覚えていてもらえ、ガートルードは嬉しかった。努力の成果を褒められたから余計だ。

キムの後ろに続く兵士たちは、素直に感心した。貴族令嬢である彼女が、まさか自分たちの隊長の指示通りに訓練してくるとは意外だった。華奢な少女なので、途中でばててしまうとばかり思っていた。ずいぶん芯のある少女だと、兵士たちは認識を改める。

走り込む兵士たちの行き先は、アマースト侯爵邸からそう遠くない場所にある広場だった。広場に到着後、休憩をはさんで体術などの訓練をしているそうだ。


「週二でここまで抜け出せるか?」


「はいっ、大丈夫です!」


護身術の稽古をつける頻度をキムが確認すると、ガートルードはしっかりと首肯した。いい返事だ、とキムは彼女の頭をぽんぽんと撫でる。彼女を使用人の少年だと思っているキムからすると、使用人の業務もあるというのに気骨があると評価してのことだ。

性別認識の杜撰ずさんな自分たちの隊長の気安さに、いいのかなぁ、と兵士たちは危惧しつつ訓練に取り組む。訓練に手を抜こうものなら、キムから恫喝どうかつがとんでくるのだ。体術の訓練は真剣に取り組まなければ、場合によっては大怪我をしかねない。部下を想ってこその叱責なので、兵士たちも真面目に訓練をする。

彼らの訓練を監督しながら、キムはガートルードに護身術の初歩の型を指南する。ダンスやマナーを習って姿勢のよいガートルードは、飲み込みがよかった。

一時間ほどが経過し、広場での訓練が終了しようかという頃、側の道を男を載せた馬が通過した。いや、通過しようとしたが、キムたちに気付き速度を落として止まった。


「キム、励んでいるな」


「アシュ様じゃないですか」


「アシュリー様、これから街に行かれるのですか?」


領地の警護のために日々訓練する彼らを見かけたら激励を贈るのが、アシュリーの常だった。だから、足を止めたのだが、大柄なキムの影からガートルードが顔を出すとは思っていなかった。


「……何をしている?」


「隊長に鍛えてもらっていましたっ」


騎乗したままのアシュリーのもとに、キムとともに歩み寄ったガートルードは元気に答えた。だから、それが何故か、と訊いているのに、彼女の回答はアシュリーには情報が不足していた。詳しく聞きたいところだが、領民の相談を聞きにいかなければならないので、後回しにしなくてはならない。夕食のときにでも訊けば、彼女は正直に答えてくれることだろう。


「ルードは、なかなか見込みがありますよ」


「本当ですか!?」


がはは、と大仰に笑いながらキムは、ガートルードの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。伸びしろがあると言われ、ガートルードは嬉しそうだ。

無骨な手が銀糸の髪を乱す様をアシュリーは見つめる。それから、視線を少し下げると嬉しさで頬を紅潮させる少女らしい笑みがあった。別れを告げて、街へ向かうはずだったアシュリーは何故かその場で沈黙してしまう。


「アシュリー様?」


「どうしたんすか?」


黙り込んだアシュリーを、二人は不思議がる。訓練を続ける兵士たちは、それを横目にわずかばかりの不穏を感じ取っていたが、訓練を中断する訳にはいかなかった。


「……いや、もう帰るんだな?」


「はい。兵士の皆さんもそろそろ戻られるそうなので」


「そうか」


ガートルードが邸に戻ることを確認してから、アシュリーは街へと馬を進ませた。なんだか晴れぬ気持ちを抱えながら。しかし、何が気になったのかうまく言葉にできなかった。



領民の相談は、今年の雨量が多く川の氾濫が心配であるというものだった。アシュリーは、その日のうちに氾濫の危険性が高いところを優先に対策をとると約束し、土木関係者とその地域を管轄している部隊へ手配を済ませた。

夕方には邸に戻り、いつも通りの時間にガートルードと食事の席に着いた。

食後のお茶の段になって、アシュリーが訊ねると、思った通り、彼女は鍛えている理由を、護身のためだと正直に明かした。


「お前が鍛えなくても、護衛の力量は充分あるぞ」


「それはもちろん承知しています。けれど、守られる側にも護身の心得があった方が、護衛の方たちも守りやすいでしょう?」


それはそうだ。騎士であるアシュリーも、侯爵位を継ぐまでは、王族警護などの業務にあたったことがある。幼い王女のときはずいぶん神経をすり減らした。警護対象に、守られる側の立ち振舞いをしてもらえる方が助かるのは確かだ。

警護対象がある程度の護身術が使えると、なお良い。

推奨こそすれ、反対するようなことを口走ったのは、アシュリー自身が不可解だった。内心で首を傾げる。


「隊長にも無茶しないように言われていますから、大丈夫ですよ」


アシュリーの剣呑さが、自分が無茶をしないか心配してのものだと思ったガートルードは、安心してもらえるよう微笑んだ。元々、生理中に無理をしないよう厳命されている。彼女は一度頷いたことを反古にするつもりなどない。

キムの課した日常の訓練メニューも、ガートルードの現状の体力に合わせたものだ。筋肉は一日にして成らずと豪語する彼は、存外堅実だった。他者を守る兵士の訓練と、自己を守る護身の訓練がまったく別物だと区別している。

キムのことをあげられ、アシュリーの指先がぴくりと反応した。


「…………キムと、ずいぶん打ち解けたようだな」


「そうですか? お会いするのはまだ二度目ですけど」


「名前で、呼んで……」


「カルヴィンさんたちにも、最初からルードと呼んでいただいていますよ?」


今さら呼称の件を指摘されると思わず、ガートルードはきょとんとアシュリーを見つめる。


「そうだな」


自分は何を言っているのか、とアシュリーはぐっと口を引き結ぶ。

キムの態度は誰にでもそうであるし、彼女を少年と見誤っているがゆえのものだと解っている。ガートルードにしても、自身から略称で呼ぶように挨拶するのが常だ。

カルヴィンたち、邸の使用人が彼女をそう呼んでも、アシュリーは気にならなかった。なのに、キムに限って気にするのは変だ。

昼下がりにみた光景を思い出す。彼女を愛称で呼び、見た目より柔らかな髪に触れる自分以外の手を。褒められているのだから、喜ぶのは当たり前だと解っているのに、その手を享受して笑顔をみせる彼女に疑問をもった。

名前を呼ぶだけではなかった。


「それに」


「それに?」


ガートルードに聞き返されて、アシュリーは知らずに口走っていたことに、はっとする。


「何でも、ない」


「そうですか」


ガートルードはそれ以上言及することはなかった。

何を吐露しかけたのか、アシュリー自身も定かではなかったが、彼女に聞かれなかったことに安堵を覚えた。



その翌日は、平素と変わらない一日となるはずだった。

アシュリーは剣の素振りのため、ガートルードは走り込みのために早朝から起きだし、朝食後はそれぞれの過ごし方をする。アシュリーが執務室で領地管理業務をしている間、ガートルードは自室でプラムペタル領の地理に関する本を読み込む。そうして、ガートルードの手料理が一品混じった昼食を迎えるのだ。

そんな日常のリズムが崩れたのは昼下がりのこと。

バン、とエントランスの両扉が大きく開かれた。


「ルードを出して!」


扉の向こうに現れたのは、亜麻色あまいろの髪がやわらかな人形のように愛らしい人物だった。毛先は縦に巻かれ、パニエで膨らんだスカートの裾はフレアが重なり、レース縁の楕円のヘッドドレスから眉に被るように切りそろえられた前髪がおりている。前髪から覗く睫毛は長い。ほんどが白で統一されたドレスを纏って、あまりにも可憐なものだから、動いていなければ等身大の人形だと見誤りそうだ。

ちょうどエントランスを通りかかったカルヴィンは、既視感に眼をぱちくりさせる。


「あの」


「ジュリー!? どうしてきたの?」


誰何すいかの声をかけようとしたところで、彼の背後から驚きの声があがる。

食後の散歩へ出ようとしていたガートルードは、可憐な来訪者を見つけ、目を丸くした。やはり彼女の知り合いなのかと、カルヴィンは納得する。彼女の愛称を口にしていたこともそうだが、年頃も近く、行動パターンも似ていたからだ。


「それはこっちのセリフっ。どうしてこんな遠いところに嫁いだんだよ!? まったく、行動力の塊なんだから!」


可憐なかんばせに眉をあげて怒りを示すガートルードの知り合いは、彼女が駆け寄るとその両肩を掴んだ。


「イヴォンや僕に相談もないなんて! あとから手紙で知らされた僕たちの気持ちが分かる!?」


「ごめんなさい。けれど、友達だから、二人には結婚を知らせたのよ?」


「わかってるよ! 式もあげないなんて、本当にルードらしいよねっ。大体、その髪と格好は何!? 思い切りがよすぎるよ!?」


ちゃんと祝いたかったと拗ねたと思ったら、ガートルードの容姿を見てもったいないと悲鳴をあげる。彼女の友人は賑やかというか、世話焼きのようだとカルヴィンは感じた。ガートルードのように奔放なところがある人間と付き合っていれば、自然と世話を焼いてしまうのかもしれない。


「何だ、騒がしいな」


騒がしさに気付いて、邸の主のアシュリーまでもが、エントランスにやってきた。

彼は、ガートルードに寄り添う人物に怪訝な眼差しを向ける。ガートルードが邸にやってきたときよりもずっと気合の入ったドレス姿を認め、そして、なぜか違和感を覚え相手を凝視した。


「お前は?」


「ちゃんと今日中に訪ねると手紙に書いておいたはずだけど?」


アシュリーの問いに、きちんと手順を踏んで来訪していると、不遜に返された。ガートルードより少し背が高いかという体格にもかかわらず、体躯のよいアシュリーに見下ろされても怯む様子は微塵もない。

確かに、王都から業務提携の交渉に貴族が訪ねる予定があった。予定を把握しているアシュリーとカルヴィンは、目の前の人物がその交渉相手とは思ってもみなかった。


「伯爵家から代表して訪ねるというのは……」


「この僕が、ジュリアン・アーヴィン・サーグッド。伯爵家の嫡男だけど、何か文句ある?」


サーグッド伯爵家の代表たる令息が、まさかガートルードより女性らしく着飾った彼だとは思わない。アシュリーが女性にしては違和感を覚えたのは、彼の骨格が男性のものだったためだと気付く。彼は全体的に線が細いので、違和感の正体をすぐに気付けなかった。


「それは変装か何かか?」


可憐に装いすぎているので、むしろ道中の危険が増したのではないだろうか。アシュリーが、プラムペタル領にいたるまでの防御策の一環かと訊ねると、ジュリアンは平然と答える。


「僕はいつもこうだけど?」


通常装備だと返され、アシュリーの理解が追い付かない。


「なぜ」


「可愛いからに決まってるだろ」


当然のことと豪語され、アシュリーはとりあえず、ジュリアンが価値観にへだたりのある相手であることだけは理解する。ジュリアンをよく知るガートルードだけは、今日も彼は可愛らしいと、にこにこ笑っていた。



ちょうど三時になり、お茶の席がテラスに用意された。

香り高い紅茶に、焼きたての焼き菓子でもてなされ、伯爵令息ジュリアンは満足げだ。優雅にティーカップを口に運ぶ仕草は、令嬢のように可憐だった。


「それで、旦那のお古を着てるっていうの?」


「ええ。似合ってない?」


「ぶかぶかしてるのは、それはそれで可愛いけど、もったいない。ルードにはもっと似合うデザインがあるって!」


ジュリアンは第一にガートルードの服装について事情を聞いた。そのやりとりの様子は、令嬢同士の会話のように聞こえる。実際は、男物の服を着た少女とフリルがたくさんのドレスを着た少年の会話のため、異様に思える光景だった。


「ちょっと、そこの旦那! ケチだからって、ルードの服を仕立て直す金も出せないっての!?」


その光景にさらに拍車をかけるのが、なぜかその二人に挟まれてお茶会に同席させられているアシュリーだ。一見すると微笑ましい少女たちのお茶会に年の離れた無愛想な男がいるという異様さである。


「別に、服を用意できないほど倹約している訳じゃない」


ガートルードが自主的に夫のお古を身に着けているだけで、執事のカルヴィンは当初、彼女用のドレスを用意しようとした。アシュリーも、必要な衣服を用意することに費用を使って問題ないと許可を出している。断っているのはガートルードの方だ。なので、まるで自分が制限させているような点のみ否定した。


「じゃあ、ルードに合わせて、仕立て直してもいいよね。どうせ、もう着れないサイズでしょ」


「ああ」


「ほら、旦那もいいっていったし、もっと可愛くしよ。マダム・パトリスには、ちゃんとルードの好みにしてもらうよう頼むからさ」


「動きやすければ、私はそれでいいよ」


ガートルードの了承を得て、ジュリアンは即座につれてきているお抱えの仕立て屋を彼女の部屋へ向かわせた。仕立て屋のパトリスを案内するのは、侍女のターラだ。ターラも、ガートルードがお洒落をすることには賛成なので、協力的だ。

頭からつま先まで綺麗に仕上げているジュリアンは、その見た目通り、服飾に関して並ならない情熱の持ち主のようだ。今回のような長期外出に仕立て屋を同伴させていることからも、それがよく判る。

そんな彼の情熱に、アシュリーは半ば気圧されていた。服装について関心がないため、彼の意見に口を挟む隙がなく、ただ頷くしかできない。


「仕立て直しの許可が必要だったから、俺を付き合わせたのか」


「はぁ? 何言ってんの?」


このお茶会に同席させられた理由に思い至り、アシュリーが納得すると、ジュリアンはじとりと彼に視線をやった。


「侯爵夫人が男と二人きりになったなんて噂が立ったら、ルードによくないだろ。あくまで、旦那のあんたとの交渉の席にルードが同伴しているていじゃないと」


友人に失礼はできないとジュリアンは主張するが、アシュリーは首を傾げる。彼が男性であることは事実だが、見た目が違う。


「お前は、女装をしているんじゃないのか」


「僕は男だよ。可愛いからドレスを着てるだけ。第一、乗馬のときとかに女性がパンツスタイルになるんだから、男がスカート穿いたっておかしくないだろ」


動きやすいからと男物の服を着るガートルードと逆で、彼は可愛くいたいからドレスを身に着けているという。お互い、性別を偽るつもりは毛頭ない。類は友を呼ぶというが、彼はとてもガートルードの友人らしい少年だった。


「どう? なめる気なくなったでしょ。ルードを大事にしなかったら、僕がかっさらうよ」


にんまりと蠱惑な笑みを浮かべるジュリアン。彼の言葉に、ごふっとアシュリーは紅茶で噎せる。


「まぁ、ルードはそれだけ大事な友達だってこと」


「そういえば、昔、お互いにいい人が見つからなかったらお嫁にもらってくれるっていってたわね」


幼いときの約束を思い出して、ガートルードは懐かしそうに微笑む。

お互いの性質を理解し合う相手だったため、ガートルードもジュリアンも、自分の本質を受け入れてくれる伴侶が見つかる可能性が低いと察していた。だが、貴族である以上、縁組は必要だ。そのため、お互いを最終手段にしようと約束を交わしていたのだ。

人形のように可憐な容姿で、間男になる危険性をはらんでいると脅され、アシュリーは妙な威圧感を感じた。彼は女性よりも苦手な類いの人間かもしれない。あえて心に波風を立たせ、アシュリーを落ち着かなくさせる。


「あ。ジュリーとは友達なだけですよ。私が好きなのはアシュリー様なので、誤解しないでくださいね」


ガートルードが、ジュリアンに恋愛感情はないと明言したのが運の尽き。噎せていたアシュリーは、更に咳き込んだ。


「ごほっ、なっ、なん」


いきなり何をいいだすのか、と抗議をしたかったが、アシュリーはそれどころではなかった。人前、それも使用人だけではなく第三者がいる状況で告白してくるなんて、かなり心臓に悪い。


「まったく僕の方が断然可愛いのにー。ああ、これ本題。裁縫道具の発注書と提携書類。条件に問題がないか目を通しておいて。あと、明日、金物工房を見学したいから、案内よろしくね」


ジュリアンは、さらりと用意していた書類の束をアシュリーへと手渡した。

サーグッド伯爵家の所有するギンコーブランチ領は、綿花栽培や蚕養殖が盛んで、服飾業に特化している。裁縫道具は服飾の作成には必要不可欠だ。より質の高い道具を求め、プラムペタルの金属製品にたどりついた。


「ゆくゆくは、ボタンとかの製造も頼みたいんだよね」


一変して伯爵家代表として話を切り出すので、アシュリーは目を丸くしながらも、咳払いをして業務に意識を切り替える。


「そちらは何が出せる」


「まぁ、一週間後を楽しみにしててよ。ウチの服飾技術が伊達じゃないことを証明してあげる」


仕立て直すといったガートルード用の服を見てから判断すればいいと、ジュリアンは不敵に笑った。

いつの間にか交渉の題材とされてしまったガートルードは、相変わらず抜け目ないな、と友人を見遣る。利用されたと怒ったりはしない。自分にお洒落をさせたいのも、彼の領地の技術を披露したいのも、彼の本心であるからだ。

仕立て直しに必要な一週間の猶予。それは、その間、ジュリアンがアマースト侯爵邸に滞在すると同義だった。

初日でできる交渉を済ませ、お茶会はお開きになる。仕立て直しのため、ガートルードは採寸をしに、マダム・パトリスが待ち受ける自室へと向かった。

ガートルードを姿が見えなくなるまで見送り、ジュリアンは客室へ案内するアシュリーに口を開いた。その表情は、いささか煩わしげだ。


「あのさぁ、それ、いつもなの?」


「何がだ」


首を傾げるアシュリーを見て、予想通りだと断定したジュリアンは半眼で彼を見上げる。


「あんた、今まで一度もルードを名前で呼んだことないだろ」


「!」


指摘されて初めて気付く。確かにアシュリーは彼女の名前を呼んだ覚えがない。理由は明白で、彼から話しかけたり会いにいくことがないからだ。食事の際も、いつもガートルードの方から話しかけ、その食事の機会自体、彼女からの提案だ。アシュリーから彼女に近付いた記憶は、不測の事態のときのみ。

三度の食事のとき以外は、用事がない限り同じ邸にいながら会うことがない。その事実だけをみると、とても淡泊な夫婦関係に思える。ガートルードはいつも楽しそうに笑う。そして、不満をいうことがない。だから、気付かなかった。

アシュリーが沈黙で肯定するのをみて、ジュリアンは嘆息する。


「それで、僕がルードのこと呼ぶのくなんて、お門違いじゃないの?」


「や、妬いてなど……っ」


とん、とジュリアンはこめかみに人差し指を当てた。


「気付いてないの? 僕がルードのこと呼ぶたび、眉があがってたよ」


ほら今も、とジュリアンは指摘する。

そんな仕草で見上げれられば、可憐な容姿のジュリアンに、通常の男性ならば男と解っていながらも頬を染めるだろう。アシュリーも目元を赤くしたが、それは彼の容姿が原因ではなく、知らされた事実によるものだ。

アシュリーが押し黙るさまに、ジュリアンは一応の満足をする。即座に否定できないぐらいには自覚できたようだ。彼は、ガートルードがこの一年、この男に片想いをしているのをみてきた。なので、アシュリーが愛情を理由に彼女と婚姻を結んでいない状況をよしとしない。

友人のためにできることをするため、父親から今回の交渉役を買って出たのだ。


「案内、ありがとう。友人ルードと積もる話があるから、三時のお茶には旦那も付き合ってね」


客室に着いたジュリアンは、ひらりと手を振って、アシュリーの返事を聞かないままドアの向こうへ消えた。彼の表情で、聞かずとも判っていたからだ。

廊下に残ったアシュリーは、長い溜め息を吐いた。そこにはわずかに苛立ちが混じっていた。それに、彼自身も気付いていた。

可憐な容姿であなどってはいけない男。それが、アシュリーが彼にもった印象だ。


厄介だな。


できれば気付きたくなかった。手を口に当て、唸りそうになるのを堪える。

キムと接するガートルードを見たときに感じた不快の正体を自覚させられた。不快だったと知ってしまった。

自分以外の手が彼女に触れ、頬を染める様をみるのは不快なことだと、アシュリーは知った。カルヴィンたち使用人がその対象に含まれないのは、彼らが家族のような存在だからだ。ガートルードにとって異性にあたる者が近付くことを、自分がこんなに気にするとは思っていなかった。

ジュリアンはこれから最低でも一週間は滞在する。彼の存在に、これ以上気付きたくなかった事実を突きつけられそうで、アシュリーはまたひとつ溜め息を零したのだった。


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