七 語りえぬこと

 それからは大変だった。

 あの後僕は、水上救急船で病院まで運ばれてすぐに治療を受けた。なんでも僕が刺したナイフは、親指の付け根にある橈骨動脈の分岐点を見事にぶち抜いていたららしい。やけに出血がひどいと思っていたのだがそれもそのはずだ。生命の危機とまではいかなかったがなかなかに危ない状態だったようで、あの時治療してくれたヴェネツィアの医師たちには今でも足を向けて寝られない。


 だが、本当に大変だったのは帰国してからだ。


 夏休み中の栞と、そして僕の悩みは、夏が明けても彼女が生き続けられるかどうかだった。今までの世界では、彼女が秋を迎えることはなかった。だから僕はずっと世界を変えてやり直しを図ってきたわけだが、今回は違う。もう僕に世界を変えることはできない。僕にできることは信じて待つことだけ。その時の不安と恐怖は今でも鮮明に思い出せる。でも僕は栞を信じた。なぜなら僕らは変わったから。僕は全ての想いを彼女に伝え、彼女もまた僕に想いを打ち明けた。彼女は僕に「生きる」と言ってくれた。ならばこれ以上、一体何をすべきだというのだろう。だから僕は、彼女の意思を信じて秋を待ち続けた。


 そして夏が終わった。

 栞が死ぬことはなかった。


 僕は泣いて喜んだ。栞も多分泣いていたと思う。けれど彼女は顔を上げて、前を向いて、僕にこう言った。


「これはゴールじゃない。ここからがスタートなんだよ」


 それから彼女は、すぐに押井に告白をした。

 結果は成功。

 栞は無事に押井と付き合うこととなった。

 そのことは、僕が堕落の淵から目覚めるきっかけとなった。


 栞に振られてからというもの、僕は心ここにあらずといった様子でずっと街をふらついてばかりだった。競馬をして、パチンコをして、酒に溺れて。インスタントな快楽を享受するだけの駄目人間に成り下がった。あれは恐らく、一種のニヒリズム状態だったのだろう。僕はこれまで栞を守るためだけに生きてきたから、その絶対的指針が崩壊したことであのような消極的ニヒリズムに陥ったに違いない。それでも何とか立ち直ることができたのは、ひとえに栞のおかげだ。


 彼女は押井との新たな生活をスタートした。

 僕だって今のままでいるわけにはいかない。

 まだ何も終わってなどいないのだから。


 そんなわけで、僕は一念発起して小説の執筆を再開した。


 今までの小説は、全て栞に読んでほしくて書いたものばかりだった。どうすれば彼女が喜ぶだろうとか、彼女は何が好きだろうとか、そんなことばかり考えて作っていた。だがその時代は終わりを告げた。これからは自分のために書くのだ。僕が好きなジャンルを、キャラクターを、表現を、僕の好きなように書き綴る。誰のためでもない僕だけの小説。それを書き始めてから、ようやく僕は僕になれた気がした。


 何かに依存するのでなく、誰かにすがるのではなく、自分の意思で価値を見出す。

 過去の自分を呪うのではなく、変えることのできない今、この瞬間の自分を認め、己の全ての運命を愛し祝福する。

 語りえるこの世界だけを生きていく。

 そしてこの美しくも残酷な世界の中で、未来へと絶えず歩いていく。

 今の僕がそんな人間になれたかどうかは分からない。それでも僕はそういう風にありたいと強く願い、自己を投企し続ける。


 それが十億の世界の果てで見つけた、僕の答えなのだ。

 執筆を通して自分を見つめなおす中で、僕はやっとそれを見つけることができた。

 今の僕ならば、栞が死ぬという運命すら愛してみせよう。

 僕は僕自身に降りかかる、全ての運命を愛すると誓ったから。


 そして時は流れていった。

 秋が来て、冬となり、春が訪れ、やがて夏になった。


 栞は今でも元気に生きていて、押井と仲良くやっている。最近は二人でインドに旅行をしているらしい。昨日も栞がたくさん写真を送ってきてくれた。インドはなかなか奥深い国だから、好奇心旺盛な彼女にはたまらない場所だろう。問題は押井が彼女のペースに付いていけるかだが、きっと彼なら問題はない。この一年で随分と振り回されたみたいだから、そろそろ耐性はついただろう。


 ところで僕はというと、今は空港にいる。北ウィングの国際線到着ロビーは今日も人でいっぱいだ。帰ってきた者、誰かを待ち焦がれる者、初めて日本の土を踏む者。僕も負けじと彼女の姿を探すのだけれど、遊園地のエントランスのようにごったがえす人混みに視線が彷徨ってしまう。小麦色の肌をした金髪のあの人。彼女は一体どこに——。


「おーい! こっちだよ!」


 おっと、ようやくお出ましのようだ。

 僕はすぐに声のした方を見る。

 そこには大きなバックパックを背負ったアレッシアがいた。


「久しぶりだね! 会いたかったよ!」

 アレッシアは僕のそばに来ると、いきなり抱きしめて頬にキスをしてきた。欧米の風習なのは分かるのだが未だにこれだけは慣れない。奥手な日本人には少々過激なスキンシップである。というかバックパック背負ったまま勢いよく飛びついてくるんじゃない。重いだろ。こちとらバイクの乗り過ぎで腰を痛めてるんだぞ。とはいえ再会が嬉しいのは僕も同じなので、彼女の体をぎゅっと抱きしめてキスを返した。


「久しぶりだな、アレッシア。僕も君が恋しかった」

「そりゃそうさ。こんなイイ女に傍に毎日いられないってんなら寂しくなるのが当たり前だ」

 自らをイイ女と言い張るとは、何と強い自信であろうか。彼女のそういうところは大好きだ。そこに惚れ込んだまである。数カ月ぶりに対面したアレッシアの変わらぬ様子に、僕は安心感を覚えた。


 信じられないことかもしれないが——というか当の本人ですらまだ信じきれてはいないのだが——現在僕はアレッシアと付き合っている。きっかけはやはり去年の夏の件だ。イタリアであれだけいろいろと付き合わせて、挙句の果てに救急搬送までされたというのに、彼女は僕と栞が帰国する最後の瞬間まで面倒を見てくれた。これだけよくしてもらって恩を返さないというのは人の道に反するというものだ。だから日本に戻ってからも、何かお礼をしようと彼女とはずっとコンタクトを取っていた。なので初めから下心があったわけでは断じてない。そもそもあの時の僕は栞ロスでニヒっていたからそんな余裕はなかったのである。

 ところがどっこい。

 メールでやり取りするうちに、僕は段々アレッシアのことが気になり始めた。彼女と話しているとやたらと気分がいいのである。思いがけないことに我々はいわゆる馬が合う、という関係らしく、彼女との会話はいつだって花が咲いた。


 彼女はとても刺激的な人だ。これは後から知ったことだが、彼女は現在、世界最古の総合大学と名高いボローニャ大学で農学を専攻する大学生である。つまりは頭がいいのだ。僕の哲学の話を一発である程度理解している辺りその賢さには薄々気づいていたのだが、実際は僕の予想以上に博識で聡明な人だった。そんな明晰な頭脳の持ち主ならば当然知識と経験に富んでいるもので、彼女は僕に様々なことを教えてくれた。あれだけの世界を巡ってきた僕といえど、森羅万象を知り尽くすにはまだまだ程足りない。だから彼女のように見分を広げてくれる人間と語り合うのはとても楽しいのである。


 それから僕は去年の冬に、アレッシアと再会するためもう一度イタリアを訪れて、そこでめでたく付き合うことになった。とはいえ九七二三キロ離れた超遠距離恋愛だ。最後にリアルで会ったのが今年の四月のことだから、実に四カ月ぶりの再会となる。不安もあるし、寂しさだって感じるけれど、だからこそ、こうして彼女に触れられることの嬉しさを強く感じることができる。そう思えば、ユーラシアを隔てたこの恋とて悪いものではなかろう。それに今回は彼女の方が僕のところに来てくれた。彼女に新たな発見を提供できるというのはこの上なく喜ばしいことだ。その感慨を噛みしめながら、僕は彼女の顔を覗き込んだ。


「ところでどうだ? 初めての日本は」

「そうだね。今のところは、日本の湿気は噂以上にしつこいってことしか浮かばないよ」

「何だ、それだけか」

「それだけだ。それ以上は、これからアンタが教えてくれるんだろ?」

 アレッシアがニヤリと笑う。

「ああ、任せとけ」

「頼んだよ。さて、立ち話もなんだし、そろそろ移動しようか」

「了解だ。ウチまで連れてってやる」

 僕はポケットからバイクのキーを出してくるくると回してみせた。

「あれ、メーカーが違うね。新調したのかい?」

「よく気づいたな。ま、ちょっとしたサプライズみたいなもんだ」

「まさかとは思うが、去年のあのオンボロみたいなのじゃないだろうね? あれに乗るくらいならタクシー捕まえるよ」

「なわけないだろ。ほらあれ」

 駐輪場の入り口まで来て、僕は一台の単車を指さす。ずらりと並んだバイクの群れで、ひと際目立つライムグリーンのフルカウル。僕の愛車のスポーツツアラーだ。

「へえ、かっこいいじゃないか」

「だろ? 四〇〇㏄の最新モデルだ。乗り心地は保証しよう。さ、乗った乗った」

 僕はアレッシアにヘルメットを渡してバイクにまたがり、キーを回してスタータースイッチを押す。心地良いエンジン音がヘルメット越しに鼓膜を震わせる。それからすぐにサスペンションがもう一人分沈み込んで、アレッシアの手が僕の腰を掴むのが分かった。

「それで? これからアタシをどこへ連れてってくれるのか、聞かせてもらおうじゃないか」

「さあね。それは僕にも分からない」

「何だい、そりゃ」

「何だろな。でも、ただ一つ言えるのは、まだ見たことのない場所ってことだけさ」

 クラッチレバーを握りながらシフトペダルを押し込み、僕はアクセルをゆっくりと回していく。発進に向けて動き出すエンジンの振動を全身で感じる。

「それじゃあ見せてもらおうか。その未知の世界ってやつを」

 クラッチレバーから手を離す。スピードメーターの数字が次第に大きくなる。

「いいだろう。さあ、行くぞ」

 アクセルを力強く回し、タイヤが勢いよく回りだし、そして——。

 光の指し示す方へ、僕らは走り出した。


 未来のことなど分からない。

 それは僕には語りえない。

 僕が語りえるのは今、生のあるこの瞬間のみ。

 命題七、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。

 言語によって語ることのできないものはどうやったって語れない。それは世界の限界であり、我々がその先に行くことは不可能だ。人はそれらの事象について沈黙するか、あるいは示すことしかできない。

 だから僕は沈黙する。

 僕の、僕らのこれからは、未知で、神秘で、そして語りえないことだから。

 僕は沈黙し、この物語を去る。

 けれど最後に、一つだけ、僕はこのことを示して物語を終えようと思う。

 素晴らしき哉、人生!


 完



参考文献

『論理哲学論考』

ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳

岩波書店


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