六・五

「私には難しいことは分からない。世界がどうとか、事実がどうとか。そういうのは詳しくないから。でもね、これだけははっきり言える。こーちゃんが私を守ることは、もう無理だよ」


 不意に視界が暗くなり、止まりかけのコマのようにぐらぐらと揺れる。足元がふらついておぼつかない。今まで僕を支えていた軸が抜けてしまったような感覚。ニヒリズムとも呼ばれるそれが、僕の心を掻き暗すのが分かった。


「私を守れるのは私だけ。私を救えるのは私だけ。たとえあなたが私の肉体を守れても、それで心や未来まで守れるわけじゃない。あなたにその力はないの。あなたの力は、あなた自身の運命を決める力。私の運命を決める力じゃない。そしてそれは、誰しもが持っている力。だから私の運命を決める力は、私が、私だけが持ってるんだよ」


 自分の運命は自分が決める——。


 考えてみれば当たり前のことだ。人の意思や、行動や、運命は、全て他人には語りえないもので、僕に語りえるのは僕のことだけ。そんなことに気づくのに、僕はこんなにも長い時を費やしてしまった。


 命題六・三七三、「世界は私の意志から独立である」。


 僕の意志が世界から独立であるのと同じように、栞や、その他全ての人の意志もまた世界から独立だ。なるほどこの世には様々な不条理があり、それによって自らの運命が左右されることもあるだろう。しかしそれらは決定ではなく、結局はただの干渉でしかない。他人や世界は意志に作用を及ぼすのみで、それを決定することはできない。いつだって自らの進む道を決めるのは自らの自由意志なのだ。僕はそれを分かっていなかった。ずっと誤解していた。事実を書き換える力を持った僕ならば、栞が生き続けるという事実を確定できると。彼女が死ぬ運命も変えられると。


 だが、それは違う。


 肉体的、物理的に救えたところで、心や未来までも救えるわけではない。人は自らの手で勝手に助かり、勝手に救われる。他人はただそれを手助けし、後押しすることしかできないのだ。


 なぜなら運命を決定するのは、その人自身なのだから。


 ——俺らは主観世界の中で経験する全ての物事に、自らの意思で価値や意味を付けられる。だから俺は考えたんだ。自分で決めつけない限り、この世に無意味とか無価値なものってないじゃないってな。


 ふといつかの押井の話が思い出された。


 物事の価値を決めるのは、いつだって自分自身だ。この夏を超えられない彼女の運命を、僕は一方的に無価値とみなして改変してきた。だがそれは、あるいは消えていった世界の栞にとっては価値のあるものだったのかもしれない。僕のこれまでの行いは、つまるところただの想いの押し付けでしかなかった。彼女に死んでほしくないという僕の恣意的な願いの強要でしかなかった。


 ああ、僕はなんと愚かなのだろう。

 こんな単純なことすら気づけないとは——。


「ごめん……ごめんな、栞。僕は何にも分かってなかった。僕はお前が死ぬのが嫌で、認めたくなくて、ただお前に生きてほしくて。だから今まで世界を変え続けてきた。でもそれは結局、お前の意思を踏みにじった、身勝手で独善的なものでしかなかったんだ。本当にすまない。ああ、何で、僕は、僕は……!」


 思わず嗚咽が漏れた。絶対に泣くものか。栞が助かるその日まで、何があろうと僕は泣かない。そうやって抑え込んできた涙が堰を切ったように流れだした。最初の雫が頬を伝うと、あとはもうとめどがない。僕は人目も気にせず、その場で泣き続けた。栞はそんな僕のもとにやってくると、両腕を僕の背中に回して優しく抱きしめ耳元でささやいた。


「私の方こそごめんね。私、最近ずっと死にたいって思ってた。あなたの想いも知らないで、自分勝手な悩みで死にたがってた。ううん、実は最近じゃないのかも。もしかしたら、他の世界の私も同じように思ってたのかもしれない。でもね、もうそんなこと思わないよ。私は変わったの。だから私、生きる。生きて、もうあなたが苦しまなくていいようにする。これ以上、あなたを辛い目には合わせない」


 ——なんだ、こんなに簡単なことだったのか。


 独りよがりに守ろうとするのでなく、自分の気持ちを素直に伝える。ただそれだけのことだったのだ。


 命題六・五二二、「だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である」。


 人の想いは命題によって語りえるところのものではない。感情や意思もまた言い表せないものだ。語りえぬものを無理に語ろうとすれば、必ず矛盾や問題が生じる。だからこそ、語りえぬものについて、我々は沈黙しなければならない。しかしそのことは、決してそれらを安易に切り捨てて考えなくてもよい理由にはならないだろう。語りえぬものは示されうる。言語や絵、音楽、その他様々な媒体によって写像され、像としてその存在が示される。想いや感情だって何ら変わらない。人は対話によってそれらを推測し、おもんばかることができる。たしかに主観は平行線だろう。だが社会というシステムが内包する間主観性は、その平行線の距離を縮めることを可能にしてくれる。そして互いの想いを打ち明けて対話を重ねれば、必ずそれらを示し、感じ取ることができるはずなのだ。

 全てを語り得ないとして切り捨てるのではなく、むしろそれらを精密に探求し、示す。

 そうして人は社会を形成し、文化を生み出し、歴史を紡いできた。人との関りだって同じことだ。関係性を形成し、友情を生み出し、愛を紡ぐ。十億の世界の果てまで辿り着いて、ようやくこんな単純なことに気がつくとは。僕はどうしようもない馬鹿だ。そう思うと情けなくて、また涙が湧き上がってきた。


「本当にごめんなさい。自分のことなんて自分で何とかしなきゃいけないのに、ずっと守らせちゃって。私は弱虫で臆病で、何にも決められなくて。そのせいで、あなたに迷惑ばかりかけてきた。今回もそう。全部私のせいだ。」

「それは違う。お前のせいなもんか。僕が悪いんだ。ただお前に気持ちを伝えればいいだけだったのに、とんだ遠回りになってしまった。こんな簡単なことに気づくのに、世界を幾つも無駄にして、何度もお前の意思をないがしろにして。僕はクズだ! とんだ馬鹿野郎だ! すまない栞……ああ、すまない……どうか僕を許してくれ……!」

「もういいの、こーちゃん。もういいんだよ。そうやって一人で責任を背負おうとしないで。今くらい、私のせいにさせてよ」

 すると栞は僕の体から身を離して、こちらの方に向き直った。見ると彼女の目も赤くなっている。瞳に涙を湛えたまま、それでも彼女は爽やかに微笑んでみせた。


「もしあなたに罪があるのなら、きっとすでに十分過ぎるくらいの罰を受けてる。それでも気が済まないなら私が許す。まだ足りないなら、私も一緒に業を背負う。もう私は逃げないよ。幼年期は終わったの。弱虫はこれで卒業。これからはもっと大人になるんだ。誰かに決めてもらうんじゃなくて。守ってもらうんじゃなくて。自分の意思で何かを決めて、自分自身で自分を守る。もうヒーローはいらない。だからあなたも、自分自身で自分を救わなきゃ」


 でもね、と彼女は続ける。


「今だけは私に救わせてほしい。あなたは今日まで私を守ってくれてきた。だからその恩返しをしたいんだ。お願い、こーちゃん」


 真っ直ぐな瞳が僕を捉える。瞬間、世界が止まる。流れる風が一斉に凪ぎ、人混みは消え、喧騒は砕け散る。今の僕の視界には、彼女しか映っていない。


 彼女が口を開く。


「今だけでも、あなたを私に守らせて」


 そこに、かつての栞はいなかった。

 何かあるたび僕に泣きついてきたあの頃の姿はなかった。


 今の栞は、自らの生を肯定し、祝福し、謳歌することのできる者だ。誰かにすがらず、自らの意思で価値を決めることのできる強い人だ。


 どうやら、僕が守る余地など本当にないらしい。


 彼女は変わった。今の彼女に必要なのは、もはや守護者ではないだろう。むしろ必要なのは、共に未来に歩むことのできるパートナーだ。

 それに相応しいのは僕か、それとも——。


 答えは自明だ。

 それは僕が一番、痛いほどに分かっていることだった。


 だが、僕とて頑固な本質が変わったわけではない。


 三千世界を旅してきて、一つ分かったことがある。何度世界を変えて、何度違う事実を確定せても、僕はいつだって僕だった。胸を張ってそう言えるのは、そこに僕が僕であるための何かがあるからだ。


 その何かがどういうものかは分からない。そんなことは、やはり僕には語りえないことだ。それでも十億の世界において、僕を僕たらしめる何かがあるのは確かだ。栞でもなければ押井でもなく、まして見知らぬ赤の他人でもない。多少の差異はあれど、確実に他者とは決定的に異なる、僕という存在。僕という自我。僕という意識。それを魂と呼ぶかアイデンティティと呼ぶかは人それぞれだろうが、ともかく僕はいつだって僕だった。そしてその全てが栞を愛していた。栞を知らなかったり、嫌ったりする僕は一人としていなかった。きっとそれは、僕が栞無しでは成立しえなかったからだ。今の僕は、彼女がいたからこそ存在する。それくらい、彼女は僕にとって大切な人なのだ。


 ならば成すべきことは、もう分かりきっている。

 僕の想いは、ここで伝えずに身を引けるような薄っぺらいものではない。


 愛って言葉、言うべきは今だ。


「ありがとう。そう言ってくれて本当に嬉しい。でも僕はとっくに救われてるよ。お前のおかげで、僕はようやく自分の間違いに気づくことができた。あのままじゃ、今頃はもうこの世界にはいなかっただろう。こうして人間のままでいられているのは、お前が僕を守ってくれたからだ。強くなったな、栞」

「こーちゃん……!」

 嬉しさと照れくささが入り混じったような顔をして、栞が近づいて来る。僕はそれを制するように、「けど」と一言言い放った。


「けど、一つお前に言わなきゃいけないことがある」


「……言わなきゃいけないこと?」

「ああ。どうかお前に聞いてほしいんだ。僕の想いを」


 彼女は何かを悟ったらしく、驚いたような表情をした。だがすぐにこちらを向き直り、真剣な眼差しを向けてきた。その顔には、どこか寂しげな笑みが浮かんでいた。


「初めて気づいたのは、確か中二の頃だった気がする。もう遥か彼方の世界のことだ。今思えば、あの時、あの世界で伝えておくべきだったんだろうな。それでもようやく、三千世界のその先で、僕はこの言葉を伝えられる」


 その時、風が吹いた。

 青い空。

 そびえ立つ入道雲。

 宙に踊る黒髪。

 風にたなびくワンピース。

 あの日のデジャヴが視界に重なる。

 時空の螺旋に散っていった全ての僕と、全ての栞へ、この声が届きますように。

 僕は祈りを込めて、その言葉を解き放った。


「愛してる、栞」


 幾億の世界の想いが詰まった言の葉は、サン・マルコ広場を流れる風に浮かび、アドリア海を青く染める澄んだ空へ舞い上がり、消えた。

 栞は一筋の涙を流しながら、柔らかな微笑みを浮かべ、言った。


「ありがとう、こーちゃん。私もあなたを愛してる。だけどごめんなさい。私、好きな人ができたの」


 なぜだろう。

 悲しいはずなのに。

 辛いはずなのに。

 苦しいはずなのに。

 どうしてこんなに嬉しいんだろう。

 どうして嗚咽が止まらないのだろう。

 呪いは解けた。

 戦いは終わった。

 僕は今、自由だ。


「ああ、知ってる」


 涙で顔がぐちゃぐちゃだったが、それでも僕は笑ってみせた。

 さようなら。

 そして、ありがとう。

 お前もいつか、胸を張って、自分の想いを伝えろよ。

 お前なら、押井と上手くやっていけるさ。

 それは僕が、一番よく知っているから——。


「さあ、帰ろう。あなたを待ってるのは私だけじゃないよ」

「ああ、そうだな。でも……」


 栞は変わった。逃げ出さない強さを手に入れた。


 僕はどうだ。


 今までの僕は、納得がいかないとすぐに別の世界に逃げ出していた。だが今の僕は、この世界を生きていきたい。この先何があろうと、今の自分を受け入れ、認め、未来に向けて歩んでいきたい。助けは借りても逃げ出したりはしたくない。


 ならば、逃げる手立ては消し去らなければならないだろう。


「こーちゃん? どうかしたの?」

「……一つ、やるべきことに気がついた。このままじゃ何も終わっちゃいない。お前が変わったように、僕も変わらなきゃいけないんだ」

 不思議にこちらを見る栞を横目に、僕は手を空に掲げた。全神経を手のひらに集中させ、次元の狭間に感覚を繋げる。右手が青く輝きだし、眩い光輪がヴェネツィアの上空に出現する。

「こーちゃん、何してるの!」

「——いっ、おいっ! 待てよアンタ! 今度は何しでかす気だ!」

 まさかアレッシアまで止めに来るとは。流石に想定外だ。だがここまで来れば後には引けない。僕は二人に構わず右手に意識を向けた。光の柱が天に突き刺さり、光輪が幾重にも現れる。これまでで最も強く、壮大な光がサン・マルコ広場に放たれた。


 刹那、視界にノイズ。

 ここでないどこかが重なった。

 青く染まる霊安室。

 横たわる遺体。

 絶望。

 涙。

 亡骸へと伸ばした僕の手。


 ——これは、あの世界の僕だ。


 なるほど、そういうことか。

 安心した。

 これでもう、未練はない。

 僕は微笑して、腰のホルダーからナイフを引き抜き、そして——。


 ——右手を思い切り刺した。


 痛みが神経を走り抜けるまでの僅かな時間。一瞬の悠久。ゆったりと流れる刹那の無限の中で、僕はあの景色を見た。


 赤煉瓦の鐘楼。

 澄んだ青空。

 天へと伸ばした僕の手。

 ナイフ。

 血。

 栞。


 ああ。

 これは間違いなく、あの日の僕が見た景色そのものだ。


 僕は太陽に手をかざす。

 あの日掴めなかった彼女の手にもそうしたように、右手を、真っ直ぐと。

 その手の青い輝きが、光の粒子となって空へ還っていく。

 手の傷から浮かび上がるように、一つ、また一つと煌めく結晶が天へと昇る。

 それと同時に、視界に映る異世界の僕に光の粒が宿っていく。

 それを眺めながら、僕は心の中で祈りを捧げた。


 始まりの世界の、あの日の僕よ。

 お前はこれから長い長い旅に出る。

 さぞかし苦しいものになるだろう。

 数多の失敗を味わい、やり切れない悲しさに押しつぶされることだろう。

 終いには、お前は自らの行いが全てナンセンスであったことを知るだろう。

 その時きっと、お前は絶望を知るだろう。

 だが、その挑戦は決して無駄ではない。

 自分で決めつけない限り、この世に無駄なものなど何一つない。

 なぜなら僕らの歩んだ全ての時が、今の、そして未来の僕らを創るから。

 無数の僕の無数の轍が、明日の道を照らすから。


「だから頑張れよ。お前なら、必ず成し遂げられる」


 僕が呟くと、腕の輝きが一層強まり、全てが弾けるようにして空へ昇った。

 やがてその光は、空の青に吸い込まれ、混じり合い、そして——。


 ——消えた。


「こーちゃん!」

「おいジャポネ!」

 倒れ込んだ僕の傍に、栞とアレッシアが駆け寄ってくる。

 意識が朦朧として、体が重い。押し寄せる寒気が僕を包み込む。僅かに頭を右へ傾けると、血だらけの手が見えた。

 おっと、これは予想外の出血だ。

 それに何だか少し眠い。

 どうやら疲れているみたいだ。

 でも、何故だかとても気持ちがいい。

 長旅から帰って家に着いた時の感覚だ。

 もう、このまま眠ってしまおうか。

 旅は終わったんだから。

 遠くから響くサイレンの音を聴きながら、僕は目を閉じる。

 僕の意識は真っ白な光の中に吸い込まれた。

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