三・五

 端的に言えば地獄だった。


 ふらふらと国道の中に足を踏み入れた栞は、当然の如くトラックに衝突した。


 それだけならまだよかったかもしれない。


 不幸だったのは、トラックの運転手が彼女を避けようと無理なハンドル操作をしたことだ。彼はハンドルを左に切ってしまった。つまり栞がいた安全島の側に車体を向けてしまったのだ。とっさの判断だったのだろう。運転手を責める気はない。

 しかしそれがいけなかった。結果として栞はトラックのフロントと高架の柱との間で押しつぶされるような形となり、単にはね飛ばされるよりもはるかに重い傷をおうことになってしまった。


 現場は悲惨だった。今でも鮮明に思い出せる。


 慌てて彼女のところへ駆け寄ると、すでにトラックのボンネットは真っ赤に染まっていた。戦慄する運転手をなだめてバックしてもらい、彼女の体を地面に下ろした。泣きたくて、叫びたくて、頭がどうにかなりそうだった。それでも何とか正気を保ち、すぐに警察と救急車に通報した。その後応急処置をしようと彼女の体を見て、もう処置とかそういう次元じゃないことに気づいた。


 栞の体は血と内臓でぐちゃぐちゃになっていた。高速で動く数トンの鉄の塊に押しつぶされたのだから無理もない。腹からは腸が零れ落ちていて、脚は一本無く、美しかったその顔は苦悶の表情に変わっていた。叫ぶつもりが、きっと肺が潰れていたのだろう。彼女の口からはひゅうひゅうと風が鳴るような音が出ていた。もはやどこから手をつければいいのか分からなかった。それでも僕は何かせずにはいられなかった。持っていたタオルで腹を抑えた。すぐに血まみれになって使い物にならなくなったので、今度は彼女の鞄にあったタオルを使った。それもダメになると、次は僕の体操着を。それでも無理なら僕のワイシャツを。どれだけ布を使っても、どれだけ抑えても血が止まることはなかった。

 止まれ。

 止まれ。

 止まれ。

 止まれ。

 狂ったように叫び続けた。それでも鮮血はどくどくと溢れてきた。彼女の肉が僕にへばりついてもう滅茶苦茶だった。誰も助けてはくれなかった。野次馬みたいにぞろぞろと集まるだけで何の手助けもしてくれなかった。僕は栞の命を繋ごうと必死だった。上裸になって泣き叫びながら、僕は一人で彼女のちぎれた脚を探した。だが見つからない。どこを探っても見つからない。夏の夜空に僕は慟哭した。


 それからのことはよく覚えていない。しばらくすると救急車がやってきて、救急隊員が栞に処置を施し始めた。病院への搬送では僕も同乗した。そして気がつくと病院に到着していて、彼女は救急救命室へ運ばれていった。僕の方は見た目が全身真っ赤の人食い鬼のようになっていたので、病棟のシャワーを貸してもらった。


 あの時僕が声をかけたから——。


 ほんの軽い気持ちだった。ただ話がしたかっただけだ。恋は成就しないかもしれない。栞は僕のことなんて何とも思っていないかもしれない。けど構わない。ただの友達でいいから、僕は、彼女と色んなことを話たかっただけなのだ。


 それなのに、こんなことになるなんて。


 これでは僕が殺したようなものだ。


 排水溝へ流れていく栞の血を見ながら、僕は一人うずくまっていた。


 シャワー室から出たところで、看護師から栞が死んだことを告げられた。

 何も感じなかった。

 ああそうか、とだけ思った。

 多分、その時の僕はすでに壊れていたのだろう。


 午後九時くらいに彼女の両親が到着した。先程の看護師から事故の説明と死亡宣告を受けて母親は泣き崩れた。父親は冷静さを装っていたが、看護師が去った後にやはり涙を流していた。僕はずっと待合室の椅子に座りこんで、人気のない病院を眺めていた。栞を失った悲しみと自責の念に押しつぶされて何も考えられなかった。目に映るもの全てから精彩が欠けてしまったようだった。途中で僕の両親が来て何か尋ねていたようだが、僕は壊れた玩具のようにああ、うん、としか答えられなかった。


 何時頃だっただろう、警官が二人やってきた。僕に簡単な事情聴取を行いたいとのことだった。すでに辺りは真っ暗だったし、何より僕の精神状態を鑑みた結果両親は反対したのだが、僕はそれに応じることにした。ヤケクソだったのか、あるいは何も考えていなかったのか。今となっては思い出せない。少なくともまともなメンタルではなかっただろう。ふらふらとおぼつかない足取りで、僕は警官と共に歩き始めた。だがすぐに足を止めた。病院を離れる前に、最後に栞の遺体を見ておきたかった。一人にしてくれと頼み込んで、僕は地下へ続く階段を下った。孤独な足音が、無機質なコンクリートの壁に不気味に反響していた。

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