三・四

 腕時計の針が午後八時を打った時、僕は高架下の国道沿いを歩いていた。

 足取りは重かった。もやがかかったように、僕の心はどんよりと沈んでいた。分からないことはいくら考えたって分からない。それなのに、僕はこの辛い恋について考えずにはいられなかった。


 しばらく歩いていると、進行方向にある横断歩道の安全島に、ベースケースを担いだ黒髪の少女がいるのが目に留まった。栞だった。

 刹那、誰かに握りしめられたかのように心臓がドクンと鳴った。よもやこんなタイミングで遭遇しようとは。けれどいざ彼女の姿を見ると、何故だかそこまで緊張はしなかった。


 いいじゃないか、どうだって。

 悩んだって答えは出ない。

 結局はなるようになるだけだ。

 そう思うと、不思議と平静を保っていられた。


 安全島に一人佇む栞は、どこか虚空を見つめているようだった。忙しなく行き交う車でもなければ信号でもない。ここでないどこかを、何か思いつめるような表情で眺めていた。


 一瞬、彼女と話すべきかどうか迷った。長年見てきたから分かる。あの顔は、彼女が何かを真剣に考えている顔だ。

 そっとしておくべきだろうか。

 だが姿を見かけたのに無視して帰るというのも何だか不躾な気がする。僕はやっぱり一声かけてみることにした。


「おーい! 栞!」


 走り去る車の音にかき消されぬよう大きな声を上げた。それに気がつき、彼女の目が僕を捉えた。その目からは心ここにあらずといった印象を受けた。ぼんやりと何か考え事をしているような、そんな沈んだ顔だった。


「生きてるかー?」


 茶化すように言った。きっとその時の僕は笑っていたはずだ。


 だが、その笑いはすぐさま消えてなくなった。


 虚ろな目をした栞は、あろうことか横断歩道を歩き始めたのだ。


 信号機はまだ赤だった。


「おい待て! 栞——」

 僕は叫んだ。


 だがもう遅かった。


 白いトラック。

 伸ばした僕の手。

 揺れるスカート。

 栞の瞳。

 耳をつんざくクラクション。

 そして彼女は——。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る