三・三

 それから僕は街を彷徨った。

 駅前の中心街は喧騒に満ちていて、すれ違う人々の楽しそうな声や姿が無性に憎らしかった。だからすぐに電車に飛び乗って最寄駅まで帰った。やがて家の前までやって来て、ふと栞とガレージで遊んだことを思い出した。


 記憶というのは厄介なものだ。

 忘れたくないことほど抜け落ちていくのに、忘れたいことは思い出したくないタイミングで浮かんでくる。結局それが引き金となり、彼女との思い出が意思と無関係に湧き上がってきた。僕は家に入るのがたまらなく嫌になった。

 どこでもいい、

 どこか栞のことを考えずに済む場所に行きたかった。

 だが駅前も、川岸も、公園も、どこもかしこも彼女と遊んだ思い出に満ちていた。昨日までは輝いて見えたその場所が、この日は色を失ってしまったようだった。


 最終的に僕が辿り着いたのは、隣町の神社だった。小さな山の上にあるその寂れた神社は、参拝者が少なくとても静かで、それでいて景色が抜群によかった。だから物思いに耽りたい時や静かに本を読みたい時なんかにはよく訪れた。栞にも教えたことの無い、僕だけの場所だった。


 それからは色んなことを考えた。栞と初めて会った日のこと。嫌いだった教師の教卓の中にダンゴムシを大量に詰めて二人で大笑いしたこと。親と喧嘩して家を飛び出した彼女を僕の部屋に泊めたこと。彼女が僕の小説を読んで笑顔を浮かべるのが、たまらなく嬉しかったこと。

 ぬるくなった缶のサイダーを啜りながら、もう七時を回ろうかというのに未だ真っ赤に燃える空を眺めていると、言いようのない寂寥が胸に広がった。もう夏なんだとそこで気づいた。


 恋心に気づいたのは中二の夏のあの日だ。だが実際はそれよりも前から想いはあったはずなので、かれこれ五、六年の片思いになる。それがいきなり弾けたのだから、先程あれだけうろたえたのも無理はない。むしろ発狂しなかっただけマシだろうか。だが慌てふためくだけでは何の解決にもならない。現実を冷静に見つめなければ物事は前には進まない。

 だから自分に問い続けた。

 僕は本当に彼女のことが好きなのか。彼女とどうなりたいのか。僕はこれからどうしたいのか。何をすべきなのか。

 腐りかけのベンチに座り、夕蝉の鳴き声を運ぶそよ風を受けながら、僕は思考の海に沈んだ。


 小一時間ほど経って、僕の中にある考えが浮かんだ。


 身を引こう。

 栞のことは諦めよう。


 僕はそう思った。


 確かに、押井と栞の恋愛話は単なる噂であり確定した事実ではない。だから二人が相思相愛であると決めつけるのは早計だ。けれど、それに甘えてずるずると想いを引きずることに一体何の意味があるというのだろう。まだ可能性はあると諦めずにかすかな希望にすがったところで苦しみが続くだけではないのか。


 思えばこの恋は苦しいことだらけだった。栞のことを考えると胸が締めつけられた。彼女の気を引こうとあれこれ画策するのはしんどかった。何より彼女が他の男子と話しているところを見ると、嫉妬で息が詰まりそうだった。楽しかったことだって当然ある。嬉しかったことだって数えきれないほどある。

 だが、それ以上に辛く悩ましいことばかりだった。僕はもう昔のように頑固で偏屈なままではないのだ。破滅しかないと分かっている道を、意地を張って無理に突き進むほどの阿呆ではない。それに、この道の先に栞の幸せがあるとは到底思えなかった。


 結局のところ、僕が一番に望んだのは栞の幸福である。僕が求めるのは、僕が守るべきものはそれ即ち彼女の幸福と喜びであり、僕のことなどあくまで副次的なものに過ぎない。

 では、僕は彼女を幸せにするに足る器であろうか。


 その問いに、肯定はできなかった。


 これが三年前であれば、あるいはそうであったかもしれない。だが今となっては、彼女のそばでいられるのは、幸せにできるのは、守ることができるのは、押井なのではなかろうか。

 彼は阿呆でどこか抜けている奴だ。しかし同時に素晴らしい人格者だ。それは僕が一番知っている。きっと栞以上に。ならば彼に任せない道理がどこにあろう。彼を信じない理由がどこにあろう。僕の役目は終わったのだ。これから彼女の傍を歩くのは押井の役目だ。彼ならば、僕は安心して彼女を守る任を託すことができる。だから僕は大人しく身を引こう——。


 駄目だ。

 そんなこと。

 出来るわけがない。


 だってこんなに好きなのだ。こんなに恋しているのだ。こんなに想い続けてきたのだ。今更どう諦めろというのだろう。


 これではまるで「シラノ・ド・ベルジュラック」のようだ。


 剣豪にして詩人。騎士にして学者。美しい言葉の調べを紡ぐ天才。

 シラノ。

 しかしその醜い容姿のせいで、女性からの愛を知らず、恐れていた。

 彼が恋するロクサーヌ。

 彼女は、シラノの友人である美男子クリスチャンに恋をした。

 されども無学のクリスチャン。

 彼の恋を助けるため、シラノは愛の手紙を代筆する。

 交わりながらもすれ違う、三人の儚き恋の物語。


 僕はシラノではない。

 僕はシラノにはなれない。

 僕は多才ではないし、思い人と友人の恋を手助けできる意思の強さなど持ち合わせてはいない。

 ならば僕は、これからどうするべきなのだろう。

 結局答えは出なかった。

 再び立ち上がった頃には、すでに夕日は彼方に沈んでいた。


 流れる雲を眺め思い出す。

 季節に置いてけぼりな僕の心を。

 栞と過ごした素晴らしき日々を。

 愛別離苦。

 思い人が遠ざかっていくことの苦しみを、一体どう形容したものだろう。


 背中を包み込むこの寂しさをどうすれば振り払えるのか、僕にはどうしても分からなかった。


 僕は神社を後にした。

 一羽のカラスの鳴き声が、宵の口の空に虚しく吸い込まれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る