Intermission

40.Origin


「はい、これを被って」


 裏地に銀色のフィルムが貼りつけてあるキャップを私に差し出す姿が、私が思い出せる一番古い母の姿だ。


「これで悪い爬虫類人レプトイドからあなたを守ってくれるわ」


 私が言う通りにキャップを被ると、母はとても嬉しそうに笑った。私は母の笑顔が好きだった。帽子を被った私と母は外へ出かける。世界は色んな危険があるの、だからお母さんのそばを離れないでねと言いながら私の手を引く母は、離婚した父よりも力強い人に見えていたと思う。

 その日はとても暑くて、買い物をしている途中で私はキッチンカーで売っているアイスが食べたいと言ってしまった。母は少し困った顔をしてから、私を連れてキッチンカーの前に行くと、店員に色々と聞き始めた。


 この店のアイスの素材はオーガニックか

 政府が有害と知りながら認可している添加物を使用してないか

 爬虫類人が製作し汚染された器具は使っていないか


 そんなことを聞いていた気がするが、はっきりとは覚えていない。母が店員とやり取りする時間が長くて、その時の私は熱中症寸前だったから。30分くらい母は粘りに粘って、店員から「これなら大丈夫だと思います」という言葉とバニラアイスを受け取った。


「はい、どうぞ」


 母から手渡された真っ白なアイスクリームはとても美味しかった。私の人生はこのあとも続いたけれど、これ以上に美味しいアイスクリームを食べたことはない。


 ◆


「だから言ってるでしょう! あなたの会社とあの女は爬虫類人に汚染されてるって!」


 母が玄関先にいる私の父に怒鳴っている。面会に来た父を母は追い返そうとしていた。母はとても物知りで、他の大人が知らない、世界を悪い方へ導くトカゲみたいな人間のことを知っていた。母は常にそのトカゲ人間を警戒していて、その日も父を追い返したあとに私を力いっぱい抱きしめてくれた。


「大丈夫よ。あなたをあいつらなんかに汚染させないわ」


 母の話だと父はトカゲ人間に汚染されているらしかった。私にはその違いがよく分からなかったけれど、体温が低い私は、母から受け取るぬくもりが心地よかったので何も言わなかった。

 母の話だとトカゲ人間は世界中に潜んでいるらしく、私と母の住んでいるマンションにもいるらしかった。そんなにいっぱいいるなら仲良くできないのかな、と言ったら熱が出るくらいビンタされた。私は無口な子供になった。


 ◆


「……」


 私が中学生になったころ、学校から帰宅した私を首を吊った母が出迎えてくれた。私は救急車を呼ぶ前に、近くに置いてあった遺書を読みはじめた。私の知らない世界の常識や、母しか分からない言葉がたくさんあって文章全ての意味は分からなかったけど、読み取れた内容はこんな感じだった。


 娘がトカゲ人間に汚染された。中学には行かせるべきではなかった

 この世界は既にトカゲ人間に支配された

 自分は彼らのいない世界に『脱出』する


 こことは違う世界に脱出した、吊られて腫れあがった母の顔を見上げる。とても苦しそうだったから、ちゃんと違う世界に行けてたらいいなと、私は思った。


 ◆


 母の葬儀の後、父が訪ねてくれた。父はとても優しい人で、もう別の家族がいるにも関わらず、私の養育費をこれからも出してくれると言ってくれた。学校が変わると大変だからと、今の学校に通い続けるための一人暮らしを認めてくれた。路頭に迷わなくていい私は恵まれている。学校の友達も、先生も、近所の人も私を気遣って余計な詮索やちょっかいはかけてこなかった。静かで平穏な生活が送れて、私は本当に幸せものだった。


 母の四十九日が過ぎたころ、私は母の遺品を整理し始めた。母は多く物を持たない人だったから、整理するものが少なくてそう時間はかからなかった。でもその中に興味深いものを見つけた。旧式の音楽プレイヤーなのだが、母は機械を極端に嫌っていたから少し意外に感じたことをよく覚えている。試しに充電してみると電源が入り、音楽をイヤホンを通して私の耳に届けた。アーティスト名は『ボブ・ディラン』。曲名は『Like a Rolling Stone』。ハーモニカとギターの旋律に混ざって、聴きやすい男性ボーカルの英語の歌詞が聞こえてきた。


 今どんな気分だい?

 今どう思っているだい?

 ひとりぼっちでいるのはどんな気分だい?


 叫んだ。

 私はただ叫んだ。口から出る音が、自分の声かどうか分からなくなるまで叫んだ。

 本当は知っていた。母が普通とは違うことを。自分も同じように周りから見られていたことも。父が母を不気味に思って離婚したことも。本当は今の家族と私を会わせたくなくて一人暮らしをさせてることも。母が死んだ後も、同級生や先生や近所の人たちが、私も母のようになって、自分たちを面倒ごとに巻き込むのではないかと恐れていることも。全部、全部私は知っていた。

 どうして私の人生はこうなってしまったのだ。坂道で転がる石のように成す術もなく翻弄され、最後にはひとりぼっち。音楽プレイヤーの奏でる歌の通りの人生だった。


 今どんな気分だい?


 ああディラン、あなたは物分かりの悪い人なのね。


『最悪』に決まってるじゃない。


 ◆


 それからの私は孤独な日々を過ごした。来る日も来る日も、学校に登校し、放課後は足早に校舎を出て街を徘徊し、日付が変わるころにマンションに戻って眠る。東京のような都会ならば、繁華街の映画館横に同じような人間と留まることも出来るのだろう。だけど地方都市にそんな場所はなく、私は毎日街をゾンビのようにあてどなくさまようことしかできない。

 ある日、本屋で自分と同い年くらいの男子が、老齢の女性とレジに並んでいるのを見た。私とは違う中学の制服を着ていて、老齢の女性は男子の祖母のようだった。


「ばあちゃん、本当にいいの?」

「気にしないで。今日は年金の日だし、この間のテスト頑張ったでしょ。かわいい孫に本くらい買わせて」

「ありがとう、ばあちゃん」


 男子は手に持った物騒なタイトルの黒い文庫本を、キラキラした目で見つめている。読むのがとても楽しみなのが、傍から見ても分かる。


 羨ましい。


 正直、男子とその祖母の身なりはよくはない。男子のスニーカーはボロボロだし祖母の服も所々ほつれが見える。けれども幸せそうにレジに並ぶ二人が、私にはどうしようもなく、とてもつもなく、すさまじく羨ましかった。私の持っていないものを、その二人は全部持っていたのだから。


 ◆


 深夜に街を歩いても、誰も私に声をかけなかった。ドキュメンタリーでは警官が、ドラマなんかでは悪い大人が年頃の女子に声をかけるものだけれど。もしかしたら、長い黒髪の私は幽霊か何かに見えたのかもしれない。でもその日、私は幽霊より奇怪なものを見た。


 暗い通りの向こうから歩いてくるそれを、私は最初酔っ払いか何かに思った。しゃっくりもあげていたし、実際に酔っぱらっていたのだろう。眼前に近づいてきたそれの姿が街頭に照らされたとき、私は思わず目を見張った。

 それは確かに二足歩行をし、サラリーマン風でスーツを着ていた。けれど首から上の姿は人間のそれではなかった。

 魚。そう魚だ。スーパーの鮮魚コーナーで見るような魚の頭をもった怪異だった。その魚人間は無遠慮にじろじろ見る私を気にも留めず、仕事場の課長だか部長だかへの悪態をつきながら去っていった。私はただ呆気にとられて、その魚人間の背中が小さくなるまで見送ってしまう。


 これが私とインスマスとのファーストコンタクトだった。


 ◆


 私は魚人間を見たその夜から、その存在について調べ始めた。あまりに異様な光景を見てしまった自分の正気を疑いたかったのかもしれない。実際成果は芳しくなく、ネットで有益な情報は見つからず、いくつかの河童の画像を見ただけで終わった。深夜にパソコンの画面を見続けた私の目は眼精疲労に苦しんでいたし、やはりあれは母の死で精神が乱れていた私が生んだ幻だと結論付けて寝ようと思った時、ふと英語で検索したのならどうだろうと思い立った。


『fish human』で検索してみる。


 どうせルネ・マグリットの胡乱な絵画でも出てくるのだろうと私の考えは、意外にも裏切られることになった。

 アメリカの掲示板サイトに私が見た魚人間とほぼ同じ風貌の人物が写った画像を見つけたのだ。画像には英語でこんなコメントが付けられていた。


・やっぱりあのピザ屋の宅配人は『インスマス野郎』だったぜ!


 インスマス。聞きなれない単語だ。続くコメントもある。


・やってやれ! 正義を為せ!

・ヤるならバールがおすすめだ。自由なる男の最強の武器だ。やつらの皮膚を食い破る最高の武器だ

・陰謀の尾を掴んだな兄弟


 彼らの言っている意味が全く分からなかったが、興味を持った私は意を決してスレッドに書き込んでみた。


・私は日本に住んでいる者です。この画像のような人物を見ました。彼ら何者ですか?


 私のおぼつかない英語に、当初は荒らしか何かと思われたのか、冷ややかなコメントが多数ついた。しかし、続けて私が何も知らず、日本にはこういう情報がないことを告げると、彼らの中の親切な一人がこうコメントした。


・兄弟たちよ、日本の友人にも『真実』を伝えないと


 その人物は他のスレッドやサイトを引用ながら語ってくれた。かつてアメリカに邪神の末裔である怪物たちの住まう街があったこと。100年近く前にその街は軍の魚雷で破壊されたけど、生き延びた連中は世界中に散らばったらしい。


・どうやら日本にも逃げ込んだ個体がいるらしいな

・でも彼らは日本で何を?

・邪神の復活を企てているのさ


 この親切な名無しが言うには、魚人間は今でも邪神復活を目論んでいるらしく、その復活の条件が人々が互いに対立し争いあうことらしい。


・でもどうやって争わせるんですか?

・簡単さ、陰謀論を使うんだよ


 陰謀論。その言葉に私の脳裏に母の姿が浮かんだ。魚人間たちは荒唐無稽な噂話を流し、それを信じる人と否定する人々の間で対立を引き起こす。そうやって人々の争いを邪神復活のもう一つの条件、星辰の揃うときまで継続させる。それが彼ら魚人間の種族全体としての目標らしい。

 マウスを持つ私の手は怒りに震えた。もしこれが真実なら私の家族は、母は、平穏は、魚人間たちに壊されたことになる。絶対に許せない。


・だとしたら私は彼らに復讐しなければなりません。教えてください、こいつらを見つけて殺すための情報を

・もちろんだとも日本の友よ:)


 次第に掲示板の他の面々も、私に共感し情報を提供し始めてくれた。奴らが普段は擬態していることや、その見破り方、擬態を解除させる方法などを懇切丁寧に教えてくれた。最初に私に真実を語ってくれた名無しがこうコメントをして締めくくってくれた。


・ようこそ、アンチインスマス同盟アライアンス

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