第32話 彼女のいる証拠

 雪奈がその身体から消えてしまったのだと聞いて、頭が真っ白になった。


 それは当人にしかわからない感覚だ。

 確証はない。

 だが、それが気のせいだという証拠もなかった。


「雪奈ちゃんはもういないの。だから、諦めようよ……」

「だ、だけど……」


 信じたくない想いと共に手を伸ばした。

 綾音は首を振り、背を向けた。


「もう少し、頭を冷やしてから帰るね。翔馬も、ちょっと冷静になりなよ」


 綾音は対岸の道を歩きだす。


「ま、待ってくれ……綾音……」


 か細い声で彼女を呼んだ。

 だが、車の音でかき消されてしまう。


 結局、雪奈は救えないのか。


 綾音の言っていることが勘違いだと証明するには、どうすればいい?

 その証拠を示せば、綾音だって考えを改めるかもしれない。

 そう考えて、首を振る。


「……いや、ダメだ。それだけじゃ、綾音を納得させられない」


 たとえ、証拠を見つける手段を見つけられたとしても、綾音が乗ってくれるとは限らない。


 綾音は忘れようとしているんだ。

 証拠を見つける『何か』を試して、もし本当に雪奈がいないことが証明されてしまえば……綾音はさらに悲しむことになる。


 それだけは嫌だ。

 もう、誰も悲しませたくない。

 俺の大切な人たちは、みんな幸せでいて欲しいんだ!


 でも、どうすれば――。


「くっ……何か、手段が……方法は……」


 考えている間にも、綾音の背中が遠ざかっていく。

 横断歩道を渡れば、今からだって彼女に追いつける。

 だが、止めたところで説得できる言葉なければ意味がない。


 諦めるしかないのか。

 せっかく、俺は大切な人たちを悲しませないって決断をしたのに……!


 歯噛みした。

 その時――。


「……あ、あれ?」


 綾音が、ふと声を発した。

 顔を上げてみれば、彼女の足が止まっていた。

 焦った様子で身体を見下ろしている。


 何かあったのか?


 疑問に目を向けていると、綾音がぽつりと溢した一言が耳に入った。


「身体が……動かない……」

「っ……」


 綾音は必死になって身体を動かそうとしている。

 だが、上半身を捻ることは出来ても足は銅像になったかのように動かない様子。


「何これ……どうなってるの……⁉」

「まさか……」


 ある可能性が、脳裏を過ぎる。


 それを綾音へ伝えようとした時、彼女の身体がこちらへ向いた。

 綾音の意思じゃないところで、身体が動いている。

 そしてそのまま、綾音は横断歩道を渡ろうとした。


「ま……待って待って! 信号が……ッ!」


 横断歩道の信号機が点滅し、青から赤へと変わっていた。

 次いで、車道の信号も青から黄色へ変わっていく。


 そこへ、大音声で響く車の音が響いてきた。


 赤信号になる前に交差点へ侵入してきた車が右折する。

 車の運転手はロクに周りを見ていなかったのだろう。


 だから、気づかなかった。

 横断歩道に、綾音がいることに。


「ッ!」

「綾音……ッ!」


 咄嗟に走り出した。

 車のブレーキ音が響く。

 綾音は身体を硬直させ、その場に停止する。


 鉄の塊は、そんな綾音に容赦なく突っ込んでいく。


「やめろぉおおおおっ‼」


 二度と、同じ事故で大事な人を失わせてたまるか!


 胸から溢れるその思いが、身体に熱を入れ、足を踏み出させた。

 腕を必死に延ばし、綾音へと駆ける。


 届け――。

 届け、届け、届け届け届け――――ッッ!


「あやねぇええええっ!」


 叫んだ。

 瞬間――、俺たちはアスファルトの地面へ転がった。


 俺のすぐ後ろを車が駆けていく。

 爆走する車は、僅かにブレーキをしただけで過ぎ去ってしまった。


 倒れた身体を起こし、安堵の息を溢す。

 俺の腕の中で、目を見開いて硬直する綾音がいた。


「た……助かった、の……?

「ああ……よかった、本当に……」


 今になって、心臓がバクバクと激しい鼓動を始めた。

 全身の毛穴から冷や汗が流れ、深く息を吐きだした。


 横断歩道に倒れていた俺たちは、震える足に活を入れて歩道へ移動した。

 安全なところへ移動しただけですぐにしゃがみこんでしまったが。

 ついさっき感じた恐怖は、しばらく消えてくれそうにない。


 しゃがみこんでいると、綾音がこちらを見上げた。


「……ありがとね。翔馬のおかげで、助かっちゃった」

「ううん。今度は助けられてよかったよ……」


 二年前、デートの帰りに事故に遭った綾音。

 あの時、俺は雪奈の夕食を作るために彼女と途中で別れて帰宅した。

 今回はちゃんと助けられた。

 逃げた車の運転手に苛立ちを感じないわけじゃないが、それでも命があるだけよかったと思う。


「でも、どうして急にあんなことになっちゃったんだろ……」


 体育座りしながら、綾音は自分の膝頭に顔を埋めて呟く。


「私の意思とは関係なく、身体が動いちゃったんだよ。まるで、誰かに操られてるみたいに……」

「……雪奈じゃないかな」

「え……?」

「綾音は、その身体に雪奈はいないって言ったけど、本当はいるんだよ。それを伝えたくて、あんなことをしたのかも」

「……そっか」


 綾音は、瞼を伏せた。


「……伝えるだけなら、あんな危ないことさせなきゃいいのに」

「まあ、それはそうだな」


 危うく死にかけた。

 もう、あんなことになるのはこりごりだ。


「まあ、私が雪奈ちゃんのことを諦めるって言ったから、怒っちゃったのかもしれないね」

「……あのさ。一つだけ思いついたんだ。雪奈とまた会えるかもしれない手段を」


 綾音は肩を震わせた。

 こちらを見つめる。

 不安げな表情だった。


「……例えばだけどさ、その手段をして雪奈ちゃんがいなくなったことが証明されたら、正気でいられる?」

「分からない。だけど、結論が出ないままよりはマシだと思うんだ。だから、協力してくれないか? 一度だけでいい。もし、それで失敗したなら綾音の言うように諦めるから」

「…………」


 綾音は顔を伏せて、答えようとしない。


 やっぱり、ダメか……。

 諦めかけた、が。


「……翔馬がそれで納得して、後悔もなくなるならいいよ」

「本当か?」


 綾音は頷く。


「だって、それで雪奈ちゃんがいないって証明出来たら、翔馬は私だけのものになってくれるんでしょ?」

「ああ。その時には、ちゃんと雪奈のことは諦める。綾音のことだけを見て、綾音のことを幸せにして見せる」

「絶対にだからね?」


 綾音は手を持ち上げ、人差し指で俺の鼻先をつついてきた。


「翔馬に世界一幸せにしてもらうんだから」

「ああ、任せとけ」


 俺は彼女の身体を抱きしめた。

 綾音も腕を伸ばして、ぎゅうと強く抱きしめ返してくれる。


 数分の抱擁の後、綾音の方から身体を離した。

 丸い二つの瞳で俺を見上げて訊ねてくる。


「それで、その手段って何?」

「それは――」


 俺は、その方法について綾音に教えた。

 そして、予想通り嫌そうな顔をした。


「……それを私にさせるつもりぃ?」

「無理にとは言わない。ただ、その方法で雪奈は戻ってくると思う」


 綾音は困惑顔で視線を揺らした。

 少し逡巡した後、小さな声で「分かった」と呟いた。


「でも、やるからにはその分、報酬をちょうだいよ」

「報酬? 何をすればいいんだ?」

「今日、寝るまでキスして」

「これから何時間あるんだよ……」

「お風呂も一緒に入ろうね」

「それは、まあいっか……」

「後は、寝るのも一緒。朝まで抱きしめて」

「うん。分かった」


 綾音の話すワガママの全部を、俺は叶えてやることにした。


「それでね、もう一つ……もし、雪奈ちゃんがいるのが分かっても、私のことを変わらずに愛してね」

「分かってるよ」


 二人とも、俺の大事な人で、大好きな恋人なんだ。

 どちらを欠かすつもりはない。

 両方を幸せにするって決めたんだ。


 それが浮気だと言われればその通りだ。


 だけど、構うものか。

 俺は、みんなを幸せにしたいんだよ。


「それじゃ、そろそろ帰るか」

「うんっ」


 俺は立ち上がると、綾音へ手を差し出した。

 彼女は俺の手を取って立ち上がり、腕に抱きついてきた。


 そうして、家に帰るまで俺は綾音に抱き着かれていた。

 帰宅するとキスして、一緒にお風呂へ入って、寝るまで抱きしめ合って、またキスした。


 やがて翌日を迎えて、またキスをした。

 二年もの間、お互いに会えなかった時間を埋め合うように。


 学校へ行く時間になっても、綾音はずっと俺にくっついてきた。

 一緒に登校する生徒たちからはバカップルだと思われたことだろう。


 でも、構わずに俺たちはイチャついた。


 学校の中でも、休み時間の度に綾音と会ってイチャついた。

 場所なんて構わず抱きしめ合い、ひと気がないところでキスを交わした。


 そうして、瞬く間に一日が過ぎていき。

 放課後になった。


「……いよいよだな」

「うん……」


 緊張した面持ちを浮かべる綾音の隣で、俺はそれを見下ろした。

 窓から差し込んだ夕日が廊下を照らす中、俺たちの目の前にあるのは階段だった。


 綾音は緊張しながら唇を震わせて、呟いた。


「私……頑張る」


 強がるように、口許へ笑みを浮かべる。

 俺を見上げ、胸の辺りで両手の拳を握りしめた。

 気合いを込めるように、彼女は言う。


「頑張って、ここから飛び降りるから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る