第31話 誰も後悔させない選択をする
家に帰る頃には、夕日が住宅の向こうへ沈んでいた。
辺りは暗くなり、街灯が無ければ歩くのも困難しそうだ。
玄関のカギを開けて家の中に入ると、リビングに明かりが点いていた。
廊下を真っすぐに進んで扉を開ける。
キッチンで夕食を作っていたらしい綾音が俺に気づいて振り返った。
「おかえり~! もぉ、彼女を置いてどこまで行ってたの?」
不満げに頬を膨らませながら、IHの電源を切ってからこちらに駆け寄ってくる綾音。
速足の勢いのまま、俺の首に腕を回して抱き着いてきた。
背伸びすると、唇を触れさせてくる。
「んーっ!」
「って、帰っていきなりキスかよ……」
唇を離しながら、呆れ混じりに言う。
「不満なのぉ?」
「不満じゃないよ。ただ、ビックリしただけ」
「それじゃ、もう一回しよ?」
「え?」
「翔馬がいなくて寂しかったんだもん~。ちょっとでも離れたくないのー」
甘えるように言って、身体を押し付けるように抱きしめてくる。
「だから、いいでしょ? ……ね?」
甘えた声で囁いてくる。
その声音に、頭がくらっとした。
「……分かったよ。綾音の満足するまでしてあげるから」
「うん。でもさ、たまには翔馬から甘えてもいいんじゃない?」
そういえば、キスをするときは大体綾音から甘えてきていた。
俺の方から『キスしたい』と言ったことはない。
「うっ……でも、そういうことを言うのは恥ずかしいな……」
「自分の心に正直になるだけだよ。それのどこが恥ずかしいの」
「……そういうお前も顔赤いけどな」
「うぅ……えへへ……」
綾音は苦笑いになった。
「雪奈ちゃんの肌って白いから、赤くなると分かりやすいよね」
「学校だとクールとか言われてたのになー」
「でも、正直になれる時にならなきゃね。今すぐ消えてもいいように」
赤くなりながらも、綾音は俺を見つめてくる。
潤んだ瞳で、熱っぽい視線で。
「……綾音、キスしたい」
その熱に当てられて、気づけば言葉が漏れていた。
「うん。私も……んっ……ちゅっ……」
綾音の言葉が最後まで続く前に、彼女の唇にキスした。
一度離れるが、やはり雪奈には入れ替わらない。
綾音は綾音のまま、緩んだ笑みを浮かべた。
「えへへ……キス好きぃ」
「俺も好きだよ」
「じゃあ、明日からは行ってらっしゃいとおかえりなさいのチューは絶対やろうね」
「……ああ、やろう」
「どうしてちょっとだけ間があったの?」
綾音がジト目になって睨んでくる。
「……雪奈のこと、ちょっと思い出しちゃって」
「もう忘れよ。忘れられないなら、私が記憶を上書きしてあげるから」
「……さっき、沙織に会ったんだ。それで、雪奈のことを話した」
「っ……」
目を見開く綾音に、俺は構わず続けた。
「沙織も、綾音と同じように後悔したくないと思って生きてる。もうすぐ、自分がしぬかもしれないから、後悔しない生き方をしているんだって」
「……翔馬は、雪奈ちゃんがいないと後悔するの? 私がいるのに、雪奈ちゃんが必要だって言うの?」
「そうだ」
答えた。
綾音は身体を震わせた。
拳を握りしめ、軽く俺の胸の辺りを叩いてくる。
その背中に手を回して、抱きしめた。
「綾音のことも、もちろん大事だよ」
「だったら、私だけ大事にしてればいい。もういなくなっちゃった雪奈ちゃんのことまで背負わなくても……」
「そういうわけにもいかない。雪奈だって、きっと後悔しないように生きたかったはずなんだ。でも、後悔し続けたからこそ俺の前で飛び降りた。アイツの後悔は全部俺のせいなんだよ」
「翔馬は悪くない。雪奈ちゃんが卑怯なことをしただけだから……!」
「たとえ俺のせいじゃなくても、雪奈をこのまま助けられなかったら俺が後悔するんだ」
綾音の肩に手を置いて、身体を離す。
今にも泣きそうになっている彼女へと、俺は言った。
「雪奈は俺のことを想って飛び降りた。あいつの気持ちを無視したまま、綾音と幸せになることなんてできない」
「だったら、私が雪奈ちゃんの分まで翔馬のことを幸せにしてあげるから!」
「ダメなんだって。それに、これは俺だけの願いじゃない」
桃華も、雪奈と再会したいと思っているはずだ。
自分一人のエゴじゃない。
だが、俺はいつだって二人を幸せにしたいと思っていた。
「俺には、二人が必要なんだよ! どちらかが欠けることなんて、あっちゃいけないんだ。だから、俺は雪奈を取り戻す手段を見つけようと思う。綾音も協力してくれないか……?」
綾音は首を振った。
「……ダメだよ」
「どうして!」
「翔馬にこれ以上辛い思いをしてほしくないの」
苦し気に、綾音は言った。
「たとえ、どこかに雪奈ちゃんと再会できる方法があるのだとしても、それを探すのにどれくらいかかるかわからないでしょ。もしかしたら、一生かかるかもしれない。死ぬまで雪奈ちゃんのことを忘れずに生きていくなんて……きっと辛いよ」
綾音は何かを思い出したみたいに顔をしかめていた。
何を思い出したのか、俺自身もすぐに気づくことができた。
綾音の母親だ。
綾音の死を忘れられず、部屋を二年前と同じ姿のまま保ち続けていた。
いつまでもいなくなってしまった娘を想う姿は親としては正しい在り方なのかもしれない。
だけど、それはきっと辛いことだ。
会えないのに、ずっと思い続けるなんて……。
「翔馬にも同じ思いをしてほしくない……! 本当に、忘れちゃダメなの?」
綾音が訴えるように見つめてきた。
言いたいことは分かる。
だけど、俺の答えは決まっていた。
「……俺には、雪奈も必要だ」
「そっか……」
綾音は俯いたまま一歩、後ろへ下がった。
俺の横を通り過ぎると、リビングの扉を開く。
「……ごめんね。ちょっと、外で空気吸ってくる」
「え……」
「このまま話してたら、私、翔馬と心中しちゃいそうだから」
怖いな……。
だが、冗談でもなさそうだった。
虚ろな目で言って、彼女はリビングから出て行ってしまった。
少しして玄関の扉が開き、そして閉じる音が聞こえた。
俺は重く息を吐き出し、その場に座り込んでしまう。
「雪奈だってたくさん後悔してたはずなんだ。このまま、忘れることなんてできるかよ……!」
悔しさを噛みしめ、拳を太ももへ振り下ろした。
このまま、綾音を説得できないまま終わるのか。
俺はふと、キッチンヘ振り返った。
「…………」
IHの上には、作りかけの焼きそばが置いてある。
綾音が作ってくれた夕食。
雪奈がずっと俺のことを支えてくれたように、綾音だって俺を支えてくれようとしている。
今の俺があるのは二人がいたからだ。
そんな二人に、幸せになってもらいたい。
沙織と話して、決断したはずだろ。
二人とも、幸せにするんだって!
「……こんなとこで、立ち止まってられない。綾音と、ちゃんと話し合わないと」
俺は急いで家を出た。
「綾音……ッ! どこにいるんだ、綾音!」
叫び、走る。
綾音はいない。
視線を巡らせても、あの特徴的な白髪は見えてこない。
誰もいない閑散とした住宅街の道を走り続け、やがて幹線道路へ出た。
広い道には、車がいくつも通っている。
左右を見回し、綾音らしき姿を探す。
見つからない。
心が次第に焦りを感じ始める。
このまま、いなくなるなんてことはないよな。
焦燥に包まれる。
だから、走った。
「綾音……! 綾音ぇえ……!」
走って、走って走って走って――。
ようやくその姿が見えた。
横断歩道を渡る少女。
俺が到着したころには、彼女は向かい側の歩道まで歩いていた。
歩道の信号が赤へ変わる。
目の前を車が数台通り過ぎる。
綾音が車の向こうへ消えていく。
その前に。
「綾音! 聞いてくれ!」
「ッ!」
俺の声に気づいた彼女が振り返った。
「確かに、俺がやろうとしてることは自分を追い込むものなのかもしれない。一生かけて、後悔を引きずり続けていくことなのかもしれない……」
忘れないことで、辛さを永遠に抱えて生きていくのだ。
拷問に似た所業。
前に進めず、いつまでも立ち止まって苦しみのアリ地獄へ巻き込まれるようなもの。
「だとしても……俺はやっぱり二人に笑ってほしかったんだ! 二人は俺を支えてくれた。二人のおかげで、俺は今も生きていられるんだよ!」
綾音が死んでから、雪奈は俺を支えてくれた。
そんな彼女が、悲しみを抱えたまま記憶の彼方へ消されることがあってはならない。
「でも、綾音だって後悔を抱えたまま一度は消えただろ! 雪奈にも同じように後悔したまま消えてほしくないんだ。後悔したまま消える辛さを知ってるなら、俺の気持ちも分かってくれないか?」
「…………そうだよ。私は、後悔したまま死んじゃったの」
道路の向こう側で、綾音は両手を握りしめていた。
「でも、私は死にたくて死んだわけじゃない。雪奈ちゃんとは違うの。生きていれば後悔は晴らせるかもしれない。だけど、雪奈ちゃんは自分から死のうとしたんだよ? 後悔を抱えて死ぬことを選んだんだよ? 私は、そんな雪奈ちゃんを許すことなんてできない……ッ!」
綾音の慟哭が、胸に刺さる。
一度死んでいるから、その言葉には重みがあって鋭い。
死ぬなんていう後悔を抱えていない俺が何を言ったところで無駄なのかもしれない。
綾音の後悔は、それほどまでに重いのだ。
「……もういいでしょ。雪奈ちゃんのことは、諦めようよ」
綾音が言う。
だけど、その言葉はどこか切なそうだ。
理由は分かっている。
「綾音だって……雪奈を助けられなくて後悔してるんじゃないのか?」
「ッ…………」
「綾音が後悔を抱えたまま死んでしまったのなら、自分と同じようにさせてしまった雪奈に罪悪感があるんじゃないのか? だから、そうして忘れようと……」
「ち、違う……私はそんなんじゃ……」
「綾音だって、雪奈のことが好きだったんだろ! 無理して忘れようとしているだけじゃないのか。そうして、またお前も後悔を増やしていくつもりなのか?」
綾音は身体を震わせ、僅かに身を引いた。
そして、顔を両手で覆うと、嗚咽を漏らす。
「……分かってるよ……分かってるに決まってるでしょ……ッ!」
夜中の道路に、綾音の慟哭が響く。
「私だって、雪奈ちゃんを追い込むつもりなんてなかったの! 後悔したまま死のうとしてほしくなかった……!」
「だったら――」
「でも、もう遅いんだよ! 雪奈ちゃんがいないのは私が一番分かってるもん! だって……この身体から、雪奈ちゃんの感情が消えてるから!」
「え……」
自らの胸に手を当て、綾音は続ける。
「……一つだけ、翔馬に言ってないことがあったの。私たちね、記憶は共有できないけど心は繋がってるの。雪奈ちゃんの様子、おかしなこととかなかった?」
「あっ……」
綾音と雪奈が入れ替わり始めたころから、雪奈の様子が変わっていったのを思い出した。
雪奈は元々、クールで人前でも感情を表に出さなかった。
しかし、最近では徐々に感情が出るようになっていたのだ。
「私たちの人格は、日々を過ごす度に一つに溶けあおうとしてたの……段々と性格も変わってきてるのが自分でも分かったよ」
「雪奈が表情を豊かにし始めたのはそのせい……」
綾音は頷いた。
「でもね、もう雪奈ちゃんはいないの。この身体の中には、私しかいない……」
そして、口の端を噛んだ。
「雪奈ちゃんはもう死んでるも同然なの……! こんなの、諦めるしかないじゃん……」
綾音は目を伏せて言った。
その眦から、一筋の涙を溢しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます