第24話 前へ向いて、未来へ進んで
綾音に差し出されたネックレスを前に、俺は固まってしまった。
ベッドを背に腰を下ろしながら、目の前の綾音を見つめる。
「何を、言って……」
「翔馬に相応しくなるためには、過去と決別しないといけないと思うの」
綾音は俺の首に提げた小瓶から手を放した。
「昨日、雪奈ちゃんとのデートでネックレスを断ったんだよね? あれはどうして?」
「このネックレスを外したくないからに決まってるだろ。だって、これは綾音なんだから」
小瓶をつまんで持ち上げる。
中に入った白い塊。
それは、綾音の骨だ。
二年前、葬式に参加した俺は、雪奈と一緒に彼女の両親から特別に火葬まで連れて行ってもらった。
綾音の身体を燃やした後、骨を砕いて骨壺に入れる工程があった。
その時、骨壺に入りきらなかった骨は別で処分されると聞いてしまった。
そこで、俺は誰も見てないうちに持ち去っていたのだ。
「綾音のことを忘れるわけにはいかないだろ。だから……」
「いいんだよ。もうそんなことはしなくて」
「どうして!」
「この部屋を見ても分からないの?」
綾音は両手を広げた。
「二年前から何も変わってない……時間が止まったみたいで、何一つ前へ進めてない。私が死んじゃったせいで、お母さんの時間もあの時のままなんだよ? 私のせいでみんなが本来歩むべきだった未来を潰しちゃった……そんなの、耐えられるわけないでしょ!」
胸を押さえ、彼女は蹲る。
頬に涙を流し、震える声で続けた。
「私が死ななければ、みんなは今ごろもっと幸せだったかもしれない。翔馬だって、雪奈ちゃんからネックレスを貰って幸せだったかもしれない……そんなことを考えちゃうんだよ? みんなの幸せを壊したのは自分のせいだって、そう思っちゃうの」
「それは、違う! 綾音のせいなんかじゃない!」
「でも、みんなが過去に囚われちゃったのは事実だよ。翔馬だって、私の代わりに雪奈ちゃんと付き合ってたくせに」
「それは……」
「私のせいで、みんなの未来を奪っちゃった。でも、やり直すことだってできるはず」
「……だから、ネックレスを手放せって言いたいのか?」
綾音は首肯した。
「でも、お前だって俺がこのネックレスを持っていたこと喜んでただろ!」
綾音が雪奈として転生した時、彼女は俺のネックレスの中身に真っ先に気が付いた。同時に、俺がまだ綾音のことが好きだと分かって嬉しいと言っていたはずだ。
「ウソじゃないよ。二年前から、ずっと私のことを好きでいてくれるのは嬉しい」
「だったら……」
「でも、それじゃあ今の私を好きになってもらえないから」
「え……?」
「翔馬が好きなのは、過去の私。亜麻色の髪をして、翔馬のためにオシャレを学び始めた頃……まだ中学生だった一ノ瀬綾音だよ」
さっき仏壇で見た写真の姿が脳裏に浮かびあがった。
「けどね、今の私は雪奈ちゃんでもあるんだよ?」
目の前に座っているのは銀髪の少女だ。
俺の妹で、恋人で、何よりも大事な人。
その姿は、綾音とは真逆だ。
綾音は太陽で、雪奈は月のような少女。
「翔馬は、今の私を過去の私と同じくらいに愛してくれる?」
「も、もちろん……」
「嘘。私で興奮してくれなかったくせに」
以前、綾音に迫られてオスとしての生理現象が起きなかったのを思い出した。
痛いところを突かれて、思わず呻いてしまう。
渋い顔をすると、綾音は四つん這いになってこちらに近づいてきた。
俺の足の間に身体を滑り込ませ、密着してくる。
綾音の手が太ももに触れるが、身体が熱くなることはあっても反応はしない。
それをみて、さらに綾音が不機嫌そうに唇を尖らせてしまう。
「……これじゃあ、子供も作れないよ」
「し、仕方ないだろ……兄妹なんだから……」
「知ってる。だから、過去の私よりも好きになってもらわないといけない」
綾音の言いたいことが、ようやく分かってきた。
俺は雪奈の身体で性欲が湧くことがない。
けれど、綾音はそれを求めている。
性欲なんて、人に言えないような悪いイメージがついて回るものだ。
だが、恋愛面で見れば何よりも強い愛情表現に違いない。
綾音はそれを理解していて、俺にこうして求めてきている。
「雪奈ちゃんに迫られても何とも思わないんでしょ。でも、私は翔馬をその気にさせたい。そのためにはそのネックレスが邪魔なの。過去なんて捨てて、今の私を見て。ちゃんと前を向かないと、私との関係も進められないんだよ?」
至近距離で、綾音に見つめられる。
綾音はいつだって真剣だった。
俺との関係を進めるためなら何だってする。
雪奈だって、昨日も俺を満足させるためにデートしてくれた。
二人から、こんなにも真剣にアプローチされているのに、俺は過去に囚われたままでいいのか?
小瓶を握りしめながら、瞑目する。
「……俺も、前を向けるようにならなきゃな」
閉じた目を開くと、首からネックレスを外した。
手のひらに小瓶を置き、その周りに鎖を絡めていく。
「綾音のことを忘れないのが、綾音のためになると思ってたんだ。忘れられると寂しいだろ。だからさ……」
「うん。忘れられちゃうのは寂しいよ。けどね、全部の思い出がなくなるわけじゃないでしょ」
綾音の手が俺の胸をなぞった。
「ネックレスがなくたって、翔馬は忘れたりしないよね?」
「……ああ、もちろん」
頷くと、綾音は正面で笑顔になった。
「それじゃ、こっちのネックレス着けてあげるね」
そう話すと、音符のネックレスの留め金を外した。
腕を伸ばし、俺の首の後ろへとネックレスを回す。
「っ……!」
身体が密着して、彼女の胸が当たった。
柔らかな感触に包まれると同時に、熱い体温を感じた。
「……よしっ。できた」
首の後ろで留め金をつけると、綾音は身体を離した。
「って、何だか顔赤いよ?」
「な、何でもない……」
「えぇ~? もしかして、胸が当たっちゃって赤くなっちゃったの? 一緒にお風呂に入った仲なのに~」
「いや、あの時は見てないし……」
「でも、背中を洗った時には――」
「思い出させるなよっ!」
ツッコミを入れると、綾音は笑う。
ついさっきまでのしんみりとした雰囲気は消えていた。
綾音には昔からそういう力があった。
周りの空気を一瞬のうちによくするような、太陽のような力が。
綾音の笑顔に何度も救われてきた。
けれど、過去の綾音を見るのはやめよう。
今いる彼女のことを好きになるんだ。
「……綾音」
「ん? どうかし……ひゃっ」
綾音の後ろ頭に手を回すと、こちらへぐいっと引き寄せて抱きしめた。
「え、えっと……どうしたの?」
「ありがとう」
綾音がピクリと震えた。
「綾音のこと、好きだよ」
「……うん。私もだいすき」
耳元で、綾音は囁いた。
身体を離すと、綾音は目を閉じた。
苦笑して、彼女の鼻先へキスする。
「むぅ……こういうときは普通、唇じゃない?」
「唇にキスしたら雪奈になっちゃうだろ。今はまだ、綾音との時間を過ごしたいんだ」
「えへへっ。私も」
そして、再び胸に顔を埋めてくる綾音。
「……でもね、前を向いてって言ったのは私のためだけじゃないんだよ」
「え?」
「雪奈ちゃんのためでもあるの。だって、可哀そうじゃん。ずっと翔馬のことが好きなのに、肝心の翔馬は私のことばかり見ててさ……」
「うっ……」
「雪奈ちゃんは、まだ骨になれない。それなのに、私の骨ばかり大事にしてもらうわけにはいかないもん」
「でも、綾音は雪奈と競ってるんだろ?」
「競ってるからって、雪奈ちゃんが憎いわけじゃない。むしろ、真正面から立ち向かってくれるから好きだよ」
正直、意外な話だった。
独占欲の強い綾音は、雪奈のことを邪魔者のように感じていると思ったのだけど違うらしい。
「だからね、私も正々堂々と戦わなきゃって思ったの。雪奈ちゃんが真剣なら、私も真剣になる。そのためには、同じ土俵に立たなきゃいけないでしょ」
「本当に真面目だな……」
「大好きだからだよ。翔馬のことも、雪奈ちゃんのこともね」
綾音は瞑目してそう話すのだった。
それから少しして、俺たちは帰ることにした。
玄関に立つと、綾音の母親が見送ってくれる。
「また来てね。綾音も喜ぶから」
「……はい。もちろんです」
最後に挨拶を交わして、家を出ようとする。
「あっ、翔馬君だけちょっといい?」
しかし、玄関の扉をくぐる前にそう言われた。
先に外へ出ていた綾音は首を傾げていたが、「門の前で待ってるね」と言って出て行ってしまった。
彼女が居なくなってから、綾音の母親が話しかけてきた。
「……何だか、雪奈ちゃんの様子が変だなぁって思ったの」
「え?」
綾音の母親は、顎に人差し指を宛がいながら小さく首を傾げた。
「私もよく分からないんだけど……何だか、綾音みたいな気がしてね……」
「っ!」
「……って、ごめんなさいね。そんなはずないのに……やっぱり、今の言葉は忘れて」
綾音の母親は誤魔化すように笑っていた。
でも、俺は心臓がバクバクと激しく脈打つのを止められなかった。
気づいていたんだ。
綾音が転生したことを。
言うべきか?
だけど、言ったところで信じてもらえるはずがない……。
葛藤し、やがて口を開いた。
「……あ、綾音は……きっとお母さんにも前を向いて欲しいと思ってると思います」
「っ……」
「綾音のこと、俺ももちろん忘れてません。でも、自分のためにも幸せになってください」
肉親でもないのに、生意気なことを言ったかもしれない。
「何様なんだ!」と怒られてもおかしくなかった。
けれど、綾音の母親は一筋の涙を落として。
「……そうね。私もちゃんと前を向かなきゃね」
悲しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、翔馬君。でも、私は今も幸せだから大丈夫よ」
「……はい。すみません、でしゃばったことを言って……」
俺は頭を下げてから、綾音の家を出た。
門の前で待つ綾音と合流し、帰路へ就く。
俺の首には、綾音から貰った音符のネックレスが夕陽の赤い光に照らされて輝いていた。
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