第23話 当時のままで


 雪奈の様子がおかしい。


 朝起きてからずっと、その異変に気づいていた。

 朝食を作って一緒に食べているときも、家から出て学校へ向かう最中も、雪奈は俺をどこか避けているようだった。


 学校へ向かう道を歩きながら、隣を歩く雪奈を横目で見下ろした。


「雪奈、大丈夫か?」

「……何でもないです」

「でも、何だか顔色が悪いみたいだし……」

「何でもないです」


 俺が何を言っても、雪奈は同じ返事しかしない。

 ムキになっているようで、怒っているようで……。

 彼女の気持ちがよく分からない。


 結局、雪奈が何を考えているのか分からないまま俺たちは学校へ到着してしまった。



***



 放課後になり、昇降口で雪奈と合流する。


 半日が経っても、雪奈の機嫌は戻っていなかった。

 いつもは一緒に食べているお昼ご飯も別だった。


 何があったんだ……本当に。

 心配になるが、雪奈は起伏のない声で話しかけてくる。


「……ほら、綾ちゃんと入れ替わるんですよね? 早くしてください」


 雪奈は目を閉じると、顎を上げた。


「……なあ、本当になにもないのか?」

「…………」


 雪奈に無視された。

 傷つく。


 ただ、これ以上訊ねても無駄なのは確かなことみたいだ。


 俺はため息を吐くと、周りを見回した。

 昇降口には他の生徒がいない。

 それを確認してから、雪奈の唇へそっとキスを落とす。



 軽いキスをして、顔を離す。

 その瞬間に、物憂げだった雪奈の表情は消えていた。


「ん? どうかしたの?」

「え……?」

「何か、すごく顔が落ち込んでるよ?


 綾音は、俺の頬を優しく撫でてくれた。

 冷たくて小さな手が、妙に温かく感じる。


「それが、雪奈の様子がおかしくてさ……」

「翔馬が何かしたんじゃないの?」

「いや、何も覚えはないけど……」


 昨日は綾音が最後に雪奈の身体に入って眠っていた。

 今朝起きると、雪奈に入れ替わっていたけど。

 それは、また綾音が俺にキスして入れ替わったからだろう。


 俺が寝ているときに入れ替わること自体は、ここ最近でもよくあることだ。

 それだけで、雪奈があそこまで怒るとも思えない。


「……ま、考えるのは後にしよっか。時間も勿体ないし」


 綾音に言われて思い出す。

 この後、俺たちはデートするんだ。

 たった二時間だけだけれど。


 綾音は俺の一歩前へ足を踏み出した。

 片足を軸にして、スカートを翻しながらくるりと回る。


「それじゃ、デート始めよっか」


 差し出された綾音の手を握り、俺たちは歩きだした。

 雪奈の異変は、ひとまず心の中にしまっておきながら。



***



 綾音に連れられて向かったのは、とある一軒家だった。

 庭の手入れが行き届いておらず、草木が鬱蒼と茂っている。

 錆びた鉄の門の向こうに、古びた扉が見えた。


 俺は、その家に見覚えがあった。


 中学生のころまでは毎日のように通い、二年前から一切行かなくなってしまった場所。


「綾音の家……?」


 綾音は俺の隣で頷いた。


「どうして、ここがデートの場所なんだ……?」

「大丈夫だよ。昨日の夜、入れ替わってる間に電話で許可はもらってるから」


 綾音は俺の質問にきちんとした答えは示さず、インターホンを鳴らした。

 少しして、玄関の扉が開く。


 その向こうから現れたのは、五十代を過ぎた女性だった。


「……久しぶりね、翔馬君と雪奈ちゃん」


 乾ききった声で薄ら笑いを浮かべた彼女は、綾音の母親だ。


 隣で、綾音は浅く唇を噛んでいた。

 今の綾音は、雪奈の身体をしている。

 たとえ、母親が目の前に居ても正体を話すことはできない。

 信じてもらえないから。


「お、お久しぶりです」


 綾音の代わりに、俺が挨拶する。

 ぎこちない声には触れず、綾音の母親は笑みを浮かべた。

 綾音とは違った、安心する表情だ。


「どうぞ、入って。綾音も、二人に会いたいと思ってるはずだから」


 そうして、俺たちは綾音の家へ招き入れられた。

 俺は綾音の背中を押しながら、玄関を通り廊下へ上がった。


 綾音の母親の先導で、俺たちは和室へと向かった。

 ふすまを開けて、一番奥に仏壇があるのを見つける。


 その正面に立ち、息を呑む。


 仏壇には、亜麻色の髪をした少女の写真が飾られていた。

 今にも動き出しそうなほどに活発な少女。


 綾音だ。

 生前の綾音は、少しだけギャルっぽい。


 それを見た途端、涙が込み上がりそうになってくる。

 俺から少し離れた位置で、彼女の母親もすすり泣いていた。


「ほら、線香をあげてやって。綾音も、翔馬君が来てくれたなら喜んでくれるはずだから」

「…………はい」


 涙を呑み、仏壇の前のクッションへ正座で座った。

 線香に火をつけ、香炉に満たされた灰に立てる。


 手を合わせて目を閉じると、堪えていた涙が溢れ出しそうになった。


 綾音は死んでいる。

 その事実が目に見える形で突きつけられ、心を深く抉るようだった。


「……ほら、雪奈も」


 綾音へ振り返り、場所を譲ろうとする。


 綾音は一歩前へ進んだ。

 仏壇の正面に立ち尽くし、小さく身体を震わせた。


「……どうした?」

「……私、死んじゃってるんだ」


 小さく、綾音は涙を滲ませて呟く。


「ごめん、なさい……何もできなくて……ごめんなさい……!」


 綾音は振り返ると、彼女の母親の胸に顔を埋めた。


「え……?」

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 綾音の母親は困惑している。

 まさか、その身体の中に綾音が転生したとも知るはずがないから。


 俺は彼女を止めないといけなかった。

 けれど、涙を溢す彼女を止められるはずがなかった。


「……ごめんなさい。取り乱してしまって……」


 しばらくして、綾音は身体を離した。

 ぐずぐずと鼻を啜っていると、綾音の母親がしゃがみこんだ。


「……ううん」


 綾音と目線を会わせて、その頬に手を添わせる。


「二年も経ってるのに、あの子のことをこんなに大事に想ってくれて、ありがとうね」

「あっ……」


 何か言いかけたが、何も言えずに彼女は口を閉ざした。

 代わりに、俺が話しかける。


「……それじゃあ、そろそろ帰ります。雪奈もこの調子なので……」

「ま、待って!」


 綾音が俺の服を引っ張って止めた。


「ま、まだ、やることがあるの……」


 綾音は赤くなった目を母親へ向けた。


「綾ちゃんの部屋を、見せてください」



***



 母親に許可をもらい、俺たちは綾音の部屋へ向かった。

 中に入ると、清潔な空気が廊下へ流れ込んできた。


「ここの部屋、私が生きてた頃と全く変わらないね」

「掃除もしてあるみたいだな……」


 まるで、綾音が死んでから時が止まったかのように、当時の姿のまま変わらず残されている。


 部屋を見渡せば、彼女と過ごした日々が脳裏に蘇ってくる。


「……ここで、翔馬とたくさんお話ししたね」

「……ああ」

「たまに、翔馬も家に帰りたくないって言った時もあったよね。私が『泊まっていけば?』って言ったら、雪奈ちゃんがいるからって帰っちゃったりもしたね」


 そんな思い出が、たくさんあった。


 綾音は小さく息を溢して、ベッドを背にしながら床へ座り込んだ。

 彼女の隣に腰を下ろし、疑問に思っていたことを訊ねてみる。


「お前、どうしてここを選んだんだ? 辛くなるだけって、分かってただろ」

「……分かってたよ。こんなところにくれば、私自身がおかしくなっちゃうってことくらい」


 小さく笑い、綾音は立ち上がった。

 綺麗に整理された机の引き出しを開けて、何かを探し始める。


「翔馬に渡したいものがあったの。二年前のあの日、最後のデートで渡す予定だったものがね……」


 しばらく待っていると、やがて「あった」と綾音は小さく溢した。

 こちらへ振り向いた綾音の手に、俺は視線を向けた。


「……ネックレス?」

「うん。デートの日、付き合った記念で渡そうと思ってたの。でも、肝心のデートに持っていくのを忘れちゃったんだ。次のデートで渡せばいいかなって思ってたんだけど、渡せなかったからね」


 綾音は苦笑しながら俺の隣に座った。

 彼女が手にしたネックレスは、音符の形をしていた。


「何で音符? 俺、別に音楽とかやってないけど……」

「綾音の『ね』だよ」

「あぁ……」


 漢字にすれば、その一文字が入っている。

 綾音の愛は、少し重い。

 その重さが、俺にとってはちょうどよかった。


「それじゃあ、これをわざわざ取りに来たってことか」

「半分正解。でも、百点はあげられないかな」


 意味深に言って、綾音は俺の首を片手でなぞった。

 指が段々と下へ降りていき、首から提げたネックレスをつまんだ。

 鎖に添っていくと、やがて彼女の手が小瓶に触れる。


「翔馬に選んでほしいの」

「選ぶ?」


 反芻すると、綾音は頷いた。


「このネックレスを着けて今の現実に向き合うか、それとも……」


 小瓶を俺の目の前まで持ち上げながら、綾音は問う。


「――私の骨を、これからもずっと着けて未練がましく生きるか……どうしたい?」


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