第18話 動き出す二人

 雪奈はその日の夜から既に動き出した。


「兄さん、あーん」


 夕食に作った焼鮭を箸で掴み、俺に差し出してきた。


「ほら、口を開けてください。落ちちゃいますよ」

「あ、ああ……」


 雪奈から差し出された鮭を口の中へと入れた。


「えへへっ。兄さんにあーんしちゃいましたね」

「でも、付き合う前からやってた気がするんだけど……」


 兄妹だし。

 このくらいは兄妹じゃなくてもやっている。


 雪奈はむっ、と唇を尖らせた。


「これじゃあ、綾ちゃんには勝てないってことですね」

「いや、そういうわけじゃ……」


 否定しようとしたが、雪奈には届いていなかった。

 雪奈は何か考え込んだ後、「あ、そうだ」と小さく呟いた。


 鮭を一口大に箸で切り取ると、それを自らの口へ持っていく。

 そのまま食べるのかと思いきや、唇で挟んでこちらへ向いた。


「んーっ!」

「え、ええと……?」

「はへへふははい」


 食べてください……かな。


「口移しでってこと?」


 雪奈は頷くと、唇で挟んでいた鮭を一度箸で挟んで放した。


「私の唇に当たらないように食べてくださいね? じゃなきゃ、綾ちゃんと入れ替わってしまうので」

「いやいや、そんなリスクあるなら普通に食べさせてくれれば……」

「兄さんとのキス、好きなんです。だから」


 雪奈は俺の言葉をスルーし、再び鮭を唇で挟むと。


「んーっ」


 親鳥がヒナへエサを与えるように唇を突き出した。


 これ、食べなきゃいけないのか?

 無視して自分の目の前に置いてある夕食へ向き直ろうとしたが、その瞬間に頬を両手で挟まれた。


「いだだっ! 首が捥げる!」

「んーっ!」


 今度は、少し怒ったように言った。

 逃げられそうにない。


 諦めた俺は、雪奈へと顔を寄せた。

 お互いの唇へ触れないように、そっと鮭を齧る。


「っ……!」


 鼻先が触れてしまい、雪奈の身体が震えた。

 至近距離で見つめ合う。

 雪奈の瞳に吸い込まれそうになる。

 それほどに、雪奈の瞳は綺麗だ。


 鮭を唇で受け止めると、静かに身体を離す。

 口の中で咀嚼するが、もう味なんてよく分からなかった。


「じゃあ、今度は兄さんの番ですよ」

「俺も?」

「ほら、早くしてください」


 雪奈はそう言うと、向かい合うようにして俺の膝の上に座って来た。

 胸を押し付けるように身体を寄せてくる。

 雪奈の匂いで窒息しそうだ。


「仕方ないな……」


 言ったところで退いてくれそうにもないので、鮭を箸で切り分けると唇で挟んだ。

 今度は俺が親鳥となり、目の前で頬を染めながらエサを待つひな鳥へと食べさせようとした。


 しかし、あと少しで雪奈の唇に鮭が触れそうになったとき、彼女の方からグイッと身体を寄せてきた。


 柔らかな感触が唇に触れ、キスしたのだと遅れて気が付く。

 身体を離した時には、綾音に変わっていた。


「……今度は何してたのかな?」

「え、えっと……鳥の親子ごっこ?」


 ジト目で睨んでくる綾音に説明すると、「ふぅん」と不機嫌そうな声を発した。


「なら、私も翔馬に食べさせてあげるね」

「綾音までしなくても……」

「雪奈ちゃんにやって、私にはしてくれないのはズルいでしょ」


 綾音は雪奈と同じように、鮭を唇で挟んで差し出してきた。


「んーっ」

「くっ……仕方ないな……」


 それを食べようとした瞬間。


「んちゅっ」


 頬を挟まれて引き寄せられた。

 キスを交わし、二人が入れ替わる。


「むぅ……綾ちゃんにまで……」


 入れ替わった雪奈は、不満げにそう溢した。

 同じ顔だから、こうして次々と入れ替わられると混乱してしまいそうだ。


「いや、そもそも雪奈がキスしたからだろ……」

「だって、兄さんとのキス、好きなんですもん。こんなことしてたら、したくなっちゃうのは当然じゃないですか」


 俺はもう、二人に十分なくらいにキスをされている。

 だが、雪奈はそれで満足していなかったらしい。


「でも、こうしてまた入れ替わったということは、綾ちゃんともキスしたってことですよね?」

「それは……」

「なら、もう一回キスしてください」

「はぁ?」

「綾ちゃんよりもキスの回数が多くないと、納得できません」


 どうやら、そう言うことらしかった。


 その後も、二人は俺に料理を食べさせて、その度に入れ替わった。

 食べ終わる頃には、唾液で口の周りがベタベタにされていたのは言うまでもない。



***



 夕食後は風呂に入ることになった。


 最後に入れ替わったのは綾音だった。

 綾音は「食器を片付けてるから!」と言って、一番風呂を譲ってくれた。


 だけど、この光景は前にも見たことがある。

 不穏な予感に何となく気づいていると、脱衣所のドアが開かれた。


 両親はいないので、入ってきたのは綾音に違いない。

 彼女は服を脱ぐと、恥ずかしげもなく浴室へ入ってくる。


「だから、お前はいきなり入ってくるなって⁉」

「さっき雪奈ちゃんの方がキスの回数、多かったでしょ。だから、その分の借りは返さなきゃ」


 綾音は身体にバスタオルを巻いたまま、シャワーの前に座っていた俺の後ろまで近づいてきた。


「髪を洗い終えたところなの? じゃあ、身体は洗ってあげるね」

「いや、だから……」

「遠慮したらちょん切るよ」

「どこを⁉」


 綾音はにこっと笑って、片手でピースを作るとハサミの部分をチョキチョキした。

 怖いってば……。


「分かったから、その仕草やめてくれ」

「それじゃ、背中洗ってあげるね」


 綾音はボディタオルを手に取ると、ボディソープをつけて泡立てた。

 背中で行われている光景は、鏡越しでも見ることができない。

 ただ、泡立てる音だけが響く。


 やがて、泡立て終えると綾音は身体を近づけてきた。

 その胸を押し付けるように。


「って、おい!」

「洗ってあげるんだから、ジッとしなきゃダメだよ?」


 耳元でそう囁くと、綾音は身体を引っ付けたまま身体を洗い始めた。

 肩から腕を経由し、指の先へとボディタオルで洗われていく。


 腕が終わると、今度は背中だったのだが。


「……何か、タオルにしては感触が柔らかい気が……」

「あっ、こっち向いちゃダメだからね? きっと、翔馬がショック受けちゃうから」


 何してるんだよコイツ!


 だが、身体を離せば綾音の……いや、雪奈のあられもない姿を見てしまう気がする。


 俺はジッと身動きせずに耐えることに徹した。

 その間にも、綾音は柔らかなタオルで身体を押し当てて気ながら上下させた。


「翔馬、こっち向いて?」

「え……むぐっ⁉」


 そして、洗い終えた辺りで振り向きざまにキスされた。

 舌をねじ込まれる強引なキス。


 唇が離れると、綾音と雪奈が入れ替わり。


「ひゃあッ⁉」


 自分の身体を見下ろしたらしい雪奈が、悲鳴を上げた。


「ど、どうした?」

「み、見ちゃダメです!」


 雪奈は慌てた様子で踵を返すと、浴室のドアへ向かった。


「やっぱり、綾音の奴がとんでもないことしてたのか……」

「……綾ちゃんが、やったんですね」

「あ……」


 失言だった。

 鏡越しで、雪奈が胸元を押さえながら顔を真っ赤に染めているのが見えた。

 そして、彼女は再び俺の背中へと陣取った。


「負けないですから……!」

「だから、張り合わなくていいんだって!」

「張り合わなくちゃいけないんですよ!」


 俺の言葉を無視し、雪奈もその身体を背中に押し付けてきた。


「綾ちゃんに負けたくない……兄さんは私の彼氏なんです。兄さんには、私だけいればいいんですから……!」

「雪奈……」


 そうして、雪奈はボディタオルにしては柔らかすぎる『何か』で、俺の背中を洗い始めた。


 ただ、その動きはぎこちなく、綾音のようには上手くない。

 触れた身体は熱く、無理をしているのが伝わってくる。


 だが、それでも。


「私は用済みなんかじゃないんです。綾ちゃんの代わりに兄さんと付き合ってましたけど、今ではちゃんとした彼女なんです。だから、綾ちゃんにできることは私にも出来るんです。兄さんがそれで喜んでくれるなら、私だって……」


 雪奈は必死だった。

 綾音にできることが自分にはできないと認めてしまった時点で、雪奈は負けてしまうから。


 しばらく身体を密着させ、ようやく離れた。

 雪奈は胸元をタオルで隠しながら、恥ずかしそうに「ええと……」と言葉を発した。


「どう、でしたか……?」


 不安げな声をする雪奈へ振り返り、その頭の後ろへ手を回した。

 彼女の頭を引き寄せると、ゆっくりと抱きしめる。


「ありがとうな、雪奈。いつも一生懸命に、俺のことを支えようとしてくれて……」

「っ! ううん。私は、兄さんにいつも支えてもらってますから」


 雪奈は腕の中で小さく微笑んで言った。


「だから、最後に勝つのは私ですからね?」

「……ああ、そうだな」


 それで満足したのか、雪奈は立ち上がると浴室から出て言った。

 脱衣所で着替える様子がうかがえる。


 彼女が風呂場から出た後、蛇口を捻ると身体の泡を洗い流し始めた。


 雪奈は懸命だ。

 必死に俺に好かれようとしている。


 その頑張り屋なところに惹かれるわけで。


「……やっぱり、俺は雪奈のことも大事なんだよ」


 その声は、身体を洗い流すシャワーの音にかき消されてしまった。


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