第39話.解けた魔法
数時間後である。
セシリーは大いにわくわくしていた。
あのあとは、いったん解散の流れとなった。
というのも聖空騎士団は、北の山脈から帰ってきたばかりだ。まずは王城への任務完了の報告があるし、魔獣との戦闘や移動、野営による疲労も溜まっている。彼らは水を浴びるくらいで風呂にも入れていないので、話し込むより休息の時間が必要だったのだ。
報告を終えたジークは汗を洗い流してくると言い、シャワーを浴びている。
そんなジークを、セシリーはシャルロッテの宮殿で今か今かと待ちわびている。
だがシャルロッテの姿はその客室にはない。数分前に赤い顔をして去って行ってしまったのだ。
もはやジークの居ない一秒が一分にも感じられるセシリー。
静寂の中、ノックの音が響く。
顔を上げてドアの前に駆けつけると、ジークが姿を現した。
「ごめん。待たせたな」
タオルで拭ききれておらず濡れそぼった髪。暑いのだろう、前が開けられた白いシャツ。
普段は服にほとんど隠されている鎖骨、胸板、胸筋が一目散に襲いかかってきて、きゅきゅん、とセシリーの胸が高鳴る。
「か、格好良い……っっ」
水も滴る良い男、とはよく言ったものだ。最初に言い出した人は誰だろうか。ほんとそれよ、と思うばかりのセシリーだ。
思わず口に出てしまった本音にも気がつかず、セシリーは顔を真っ赤にしてしまう。
ジークは微笑むと、後ろ手にドアを閉じた。内側からかちゃりと鍵をかけている。その音はセシリーの鼓膜にはっきりと響いたかのようだった。
(この音だけでご飯三杯いけるわ!)
すでにセシリーは興奮の極致にあった。
「ね、ねぇジーク。早くお仕置き、して!」
ジークの袖にしがみついておねだりするセシリー。
もはやお仕置きという言葉を、ご褒美と同義だと捉えている節があるセシリーだ。
想い合う恋人同士の場合、その捉え方でも決して間違いではないのだが――ジークは首を軽く振ると、そのまま足を進めてしまう。
ベッドに腰かけたジーク。じれったさにセシリーは悶えていたのだが。
「……セシリーは、俺に薬を飲ませたんだよな」
「!」
正しくは薬というより、トマトごぼうジュース(細かく刻んだ麻縄入り)である。
しかもジークは知る由もないが、七日間かけて熟成されたジュースである。素人が作ったジュースとしては最悪の部類に入る代物だ。凶器と呼んで差し支えないだろう。
「ジーク、怒ってる?」
「うん。怒ってる」
サアァ、とセシリーの顔から血の気が引く。
「ご、ごめんなさい……ジーク!」
彼に向かって、セシリーは頭を下げた。
そうすることしかできないのがもどかしい。お仕置きがお仕置きがとそればかりに興奮していた自分が恥ずかしくなってくる。
(飲ませたのが惚れ薬じゃないとしても……私がそれをジークに飲ませようとした事実は変わらないもの)
「私、ただ、ジークに私のことを好きになってほしくて……いけないことだったって分かってるの。でも」
「セシリー、そうじゃない。俺が怒ってるのは、俺自身にだ」
「え……?」
どういうことだろう。
困惑するセシリーの手を、ジークの骨張った手が包む。入浴後だからか、熱い手だった。その体温にどきりとさせられる。
「セシリーが、そんな薬に頼らなければいけないほど追い詰められてるなんて……気づきもしなかった。俺が素直に気持ちを伝えてりゃ、良かったのにな」
「…………」
「昼食会のときにも話したろ。俺を見ると女や子どもがおそろしいと泣いて逃げ出すんだ。覚えのない噂を流されて、いつも苦労してた。誰を殴っただの、殺しただの」
ジークは苦笑していたが、彼の心が冷えきっていることが伝わってくる。
「初めてセシリーに会って、可愛いと思ったけど、そんなこととても口には出せなかったんだ。怖がられたらいやだしな。だけど、そう……階段から落ちたセシリーを助けたとき、あのときから何かが変わったんだ」
「私の薬を飲んだとき?」
「グレタさんが言ったよな。セシリーが作ったのは、素直になる薬だって。あれを飲んでから、俺は心がすっと楽になるのを感じた。思ったことをそのまま口に出せて、嬉しかったんだ」
(ジークは、そんな風に感じてたの?)
セシリーはただ、自分の欲望の赴くままに行動しただけなのに。
立ったままのセシリーを、ジークが導いて自分の隣に座らせる。
セシリーは真剣にジークの言葉に耳を傾けていた。少し拙いけれど、彼がこんな風に気持ちを伝えてくれるのは初めてのことだったから。
「素直になった俺の言葉を、セシリーはありのまま受け入れてくれたよな。俺はそれが嬉しくて……でも、遠征している間に薬の効果は切れちまったみたいだ」
グレタもそんなことを言っていた。ジークには魔法の残滓だけが残っていると。
ジークがぐっと唇を引き締める。苦しげな表情に、セシリーは切なくなった。
「もう俺はこれから、素直にほど遠い不器用な言葉しか、セシリーに伝えられない。セシリーが望むような甘酸っぱい愛の言葉なんて、きっとひとつも言えなくなる。……だから本当は、セシリーにお仕置きする資格なんてないんだ。むしろ罰を受けるべきは俺で……」
「っそんなことない!」
セシリーは必死に首を振った。
そんな風に、ジークに何もかも諦めないでほしい。形作られた自分を卑下しないでほしい。
「セシリー……」
気がつけばぽろぽろと、セシリーの目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
ジークの手を、無我夢中で握り締める。二人の腕にも涙が点々と散った。
「ジークは、セシリーにお仕置きする資格あるよ! ゼッタイある!」
「セシリー……」
「あなたがたくさん囁いてくれた言葉は、私にとって宝物よ。だけどそれだけじゃないの。優しいジークが、私は好きなの。甘い言葉だけで、あなたが好きになったわけじゃない。そんなに私、軽い女じゃないんだから」
確かに出会ってから今まで、艶めかしい言霊の数々がセシリーの胸を踊らせてくれた。
けれどそれだけで、セシリーは人を好きになったりはしない。もしもこれから、ジークが言葉足らずになっても構わない。可愛いや好きの言葉を、彼が一生懸命に言ってくれるのならば、それを花束のように集めて大切にできる。
「ジークがお喋りじゃなくなるなら、そのぶん私がたくさん話しかけるわ。おはようも好きもおやすみも言うわ。毎日たくさん言う。だからジークに自分を責めないでほしいの。素直に言葉が出ないのはあなたのせいじゃない、もう自分を嫌ったりしないで」
ジークの褐色の瞳が揺れる。
「……ありがとう、セシリー。ごめん。こういうとき、何を言えばいいかもよく分からないんだ」
「ありがとうで、じゅうぶんだわ」
彼が謝る必要など何もない。
セシリーの濡れた目元を、ジークがおずおずと拭ってくれる。どうやら話したいことは、これですべてだったようだ。
そう察したセシリーは、大声で叫んだ。
「じゃあお仕置きして!」
「セシリー……?」
「お仕置き! セシリー、悪いことたくさんしたじゃない? なのにジークお仕置きしてくれない!」
「え? あの?」
「前にもお仕置きするって言ったのに、ぜんぜんしてない! ジーク、いつも口ばっかり!」
ここに来てようやく、ジークは悟る。
そう――。
いろいろ言ったものの、セシリーの隠されし本音、それは……ジークにいっぱいお仕置きしてほしい、ただそれだけだったのだ!
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