芸術が死んでいく瞬間


 愛を演じる物語。

 詩の読み方で読ませることが前提の小説だなと思いました。言葉の意味の繋げ方というか、文節と文節の隙間にある香気を伝えようとする書き方に、非常に近現代詩的な方法を感じます。

 共感性の高い状態から、失う。文也の持つ感覚は人間とは同一ではないのですが、人間よりも鋭敏ではないかと思われる部分もあれば「分かりっこない」部分もある。その共感性の高い鋭敏な部分ですら頼りにならなくなることで、この物語は始まったのだと思います。
 文也は幾度も試行を繰り返す中でオリジナルの演技に近づいたがゆえに遠くなり、望みを絶たれたのではないでしょうか。別にそう直接的に言及されているわけではないのですが、私はそう解釈しました。999998回目になって大きな変化が訪れるのなら、その間彼も決して変化がゼロだったわけではないでしょうから。

 この作品を読みながら漠然と、著名な詩人である谷川俊太郎と大岡信が対談で「詩が死んでいく瞬間」について語っていたのを思い出しました。彼らが語る「詩を受け取る個人の中での死」と似たような感じで、文也の中でその映画が死んでしまったのだなぁ、と。

 比喩表現の巧みさが、心の不在を表現するための方法になっているのが大変興味深かったです。確かに人間は言葉に出来ない漠然とした何かを感じようとしてうじうじする生き物ですから。もし言葉だけでその細微に至ろうとするなら、比喩表現に頼る他ないよなぁ、と思いました。
 萩原朔太郎はかつて「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」と唱えました。同時に「詩のリズムによって表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である」とも語っているので、今から私の言うことは多少その内容を歪曲することになってしまうのですが、つまり芸術は「コード化された感情」であると言えるのではないでしょうか。コード化された感情をなぞる。それが彼の機能であり、コード化できなかった部分はどう演じようと再現することはできない。なまじっか感性が鋭敏であるばかりに、それが彼には痛ましいほどに分かってしまうのではないか。私にはそういう風に感じられました。

 あとこの小説の特徴の大きなところとして私が思っている部分が、背後に莫大な物語を含みながら、それを彼らにとっての暗黙の前提、私たちにとっての想像を膨らます余地として捌ききっていることです。
 この作品の字列系、第一話は999998回目の時点の話であり、また少なくとも第二話の時点では999997回目以降の撮影であります。第三話の空白は六文字分、恐らく六桁の数字ではないかと思うので、撮影回数は多くとも999999回目の時点でしょう。1000000回目の撮影という節目を目前にした話でもあるんですよね。この試行回数は、彼らにとってどのような意味を持つのでしょうか。
 それにしても、一体どれくらいの時間が撮影に掛けられているのでしょうね。どんなに短くとも何百年、下手したら何千年何万年と掛かるはずです。では、文也に演じさせて映画を再現しようとしている存在は、何者なのでしょうか。
 そもそもなぜ彼は、本当の人間ではなく人工知能である文也に再演をさせようとしたのでしょうか。

 本作は、謎を多く含みながら、不思議な魅力をも湛えた作品です。
 ぜひとも創作に行き詰った人とかに読んでほしいなとも思いました。多分、その苦しみにこの小説が寄り添ってくれるはずです。

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