第2話

 帰り道の途中で、夕日に照らされた大きな池を見つけると、黒斑は跳ね除けるように卯之助の後ろに隠れました。

「びゃあ!」

「なんだよ黒斑、水が怖いのか? この池は数えきれないほどの金魚がいるんだぞ」

 この大きな池は金魚池と言います。葉月の祭りに欠かせない金魚すくいは、ここで育てられた粋のいい金魚が選ばれて祭りの屋台に並びます。

「卯之助、この金魚は美味いのか?」

「知らない。金魚なんて食ったことない」

「人間は魚食わないのか?」

「魚は食うけど、金魚みたいに小さいやつじゃなくて、俺っちが取った岩魚みたいな川魚を食うぞ」

 岩魚と聞いた瞬間、黒斑の腹の虫が、ぐー、と起き上がりました。

「そんなに腹が減ってたのか。帰ったらおっかあに焼いてもらうから、それまでは我慢な」

「うう……分かった」

 倒れそうなほどではないけれど、黒斑は今すぐ食べたくてしょうがありませんでした。卯之助の目を盗んでこっそりと竹籠の蓋を開け、岩魚を一尾掴みました。けれど岩魚は逃げ出さんばかりに暴れて、金魚池に逃げてしまいました。

「ああ! おいらの岩魚!」

 黒斑は追いかけて池の中に飛び込みました。

「あ、黒斑! 戻ってこい!」

 卯之助は池に入ってはいけないことを言い忘れてしまい、ただ黒斑が上がってくるのを待つしかありませんでした。なぜ金魚池に入ってはいけないのか。それは人間の穢れたものが池に流れ込むと、金魚が黒くなるという教えがあったからです。

 ようやく岩魚を加えた黒斑が上がってくると、辺りはすっかり暗くなって蛍が飛んでいました。

「黒斑! ああ、よかった。溺れたらどうしようかと思った」

「おいらこそごめんな。勝手に岩魚食べようとして蓋開けちまった」

「ったく。食いしん坊だなー。早く帰らないとおっ母の雷が落ちちまう」

「かみなり?」

「どえらく怒られるってこと。家まで競争だ!」

「お前ん知らないぞ!」

「この道真っ直ぐー!」

 卯之助が走り出すと、黒斑も走りました。


 卯之助が先に玄関の戸を開けると、卯之助の母親が正座をして待っていました。

「げ、おっ母……」

「次こんな時間まで暇を食うなら、この家の敷居は一歩も跨がせません。普段から言うことは聞かないし、家の手伝いもせず釣りばかり。もうおっ母はうんざりです」

「け、けどおっ母! 今日は脂ののった岩魚がこんなに取れたんだ! 三日は食うに困らないだろ?」

「この家は機織りの家です。そんなに釣りがしたいなら村の端に住んでいる片蔵様のお宅の子になりなさい」

 卯之助の母親は、この世とも思えないほどに目を細くして卯之助を睨みつけました。それに恐れ慄いた卯之助は、大声を上げて岩魚を背負ったまま玄関を飛び出しました。

「俺っちは機織りなんざまっぴらごめんだい! おっ母の鬼!」

 黒斑は状況が分からず、慌てて卯之助を追いかけます。日が沈みきった道はとても暗く、かがり火がないと進む道も分かりません。卯之助は泣きながら目的地を目がけて、黒斑は卯之助の背中を便りに、走ります。

 ようやくたどり着いた場所は、たったひとつだけ建っている家でした。

「片蔵のおっちゃーん! 入れてくれー!」

 暗闇の中で響く卯之助の声は、漁師の片蔵さんにすぐ聞こえました。

「んだよ卯之助ー。今日はもう仕舞いだぞ」

「おっ母が家に入れてくれねーんだ。今日だけでいい、泊めさせてくれ。ついでにこいつも……」

 卯之助の後ろにくっついていた黒斑を隣に立たせ、一緒に頭を下げました。

「しょーがねーわらべだなー。今日だけだぞ」

 片蔵さんは戸をぶっきらぼうに開け、二人を招き入れました。

「ありがとう、片蔵のおっちゃん!」

「まーたおめえのおっ母を怒らせたのかよ。凝りねーな」

「だって、ずーっと座って機織りすんのは退屈だい。それならおっちゃんに釣り習った方が楽しいんだもん」

「釣りの良さを分かってもらえるんは嬉しいこった。ところで、そっちの嬢ちゃんはどちらさん? 村じゃ見ねー顔だけど」

 いつの間にか人間の姿になっていた黒斑は板の間を上がる手前で正座をした。

「おいらは黒斑。お父と旅をしてる途中ではぐれちまって、ひとりなんだ。だからしばらくこの村にいさせてほしい。この通りだ」

 黒斑はさらりと嘘を吐いては、深々と頭を下げました。

「俺に言われてもなあ。朝一で長に話すしかねーが、どこではぐれたんだ?」

「近くの山を越えた辺りだ」

「ええ!? おめー、ここから三日もかかる凸山でこやまを、ひとりでこの村まで来たってーかい?」

 大人の足で三日はかかる凸山を歩いて来たと、黒斑はまたもや嘘を並べて言いました。けれど片蔵さんは嘘だとも思わず驚きました。

「まあ今日は疲れているだろう。おめーのその岩魚を焼いて、食って寝な」

「ありがとうございます! このご恩、一生忘れません」

 その日の片蔵さんは、つかの間でしたがとても賑やかでした。

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