5

 夏の空に夕闇が広がっていた。

 公道では帰宅帰りなのか車がひっきりなしに走っていて、ときおり黒い排気ガスが空気に溶けた。

 こうして戻ってくると、都会の夜はちょっと苦手。

 アスファルトからのぼる熱気は肌に張り付くし、木々が会話する爽やかな風もない。早く帰ってエアコンをつけたい。それだけが頭に浮かぶ。

 ――昔はこんなに暑くなかった、そう祖父ちゃんは言ってたっけ。夏の夜は扇風機にスイカを食べてれば幸せだったらしい。都心で起こした地球温暖化は田舎の生活を脅かす。その祖父ちゃんはスイカを食べ過ぎて嫌いになったけど。


「月下さん、ギター上手くなったね」

 そばで歩いていた結晶くんがにこやかにいった。

「そうかなぁ……? みんなと比べれば全然だよ。死ぬ気でやったけど、アルペジオは弦見なきゃ弾く場所ずれるし、コードを抑える指も甘いし。なんか、適当に誤魔化してる感が強いもん」

 言っていて悲しくなった。

 この前のみちるちゃんは、完全にみんなに食らいついていた。お荷物じゃない、あのメンバーで彼女がいなければ成り立たない。それくらいの存在感があった。

 私は、先生のいう覚醒には程遠い。「音楽をやり始めました。ちょっと弾けます」ってプチ自慢するほどだ。玄人から見たらすぐにわかる残念なレベル。

 ――これが才能なのかなって、少ししょげるほど。

「いや、十分すぎるよ。練習しながら僕と先生を唸らせる新曲作ったんだもの。それも音楽を初めて二か月くらいの人が。すごいことだよ」

「そうかなあ? 私はコード進行に合わせて歌詞とメロディをつけただけだから。いまなら初音ミクとか素人の人もできるし、それこそAIとかだって作れると思う。歌詞を自動つなげるプログラムもあるんだし」

 結晶くんが首を振る。眼鏡のレンズが夕焼け色に一瞬反射する。

「その初心者が、経験者を頷かせるクオリティで作れるのがすごいんだよ。僕は作曲を一瞬しようとしたけど、難しすぎてすぐに諦めた。時間がかかりすぎるしね」

「それは結晶くんが音楽に詳しいから――」

 反論したけど、結晶くんの目の奥が本気だったので口を噤んだ。なぜか怒られた気分だ。私、正しいことしかいってない気がするんだけど。

 けど、結晶くんがいうことが真実なら、私としては不都合だ。

 勝手に結晶くんを傷つけようとしている。


 ぽつぽつ歩いていると、次第に暗くなってくるのがわかる。

 思えば、結晶くんと二人で歩いたのは、初めて逆風くんの家で練習した後か。

 あの日は、印象的だった、私が先生に辞めるよう説得されて、逆風くんに助けてもらって、バンド名が決定して、代表曲を作った。そんな大変な日々を終えて、いまがある。

「なんか懐かしいね。練習終わった後、結晶くんと二人で帰ったこと。あの日話したこと覚えてる?」

「あー、うん」

 結晶くんは気まずそうに言いよどむ。

「もしかしてあんまり覚えてない?」

「いや、そんなことないよ。月下さんのほうこそ、それ言い出してびっくりした!」

 はて、驚くことってあったけ? 戸惑う私をよそに、結晶くんは夕闇の空を見上げている。うっすらと輝く半月が浮かんでいる。

「あのときの結晶くんはすごく印象的だった。『ピアノが僕を呼んでいた』って台詞。いまならなんとなくわかる。おもえば、逆風くんと長距離で負けた日、私は音楽に呼ばれた。曲を作ってほしいって頼まれた。でもなんでだろう、作るのは自分なのにね」

 私は不思議そうに笑う。結晶くんの目の奥が潤んでいるのが見える。

「僕は、あの日、運命っていったっけ?」

「うん」

「そうかあ。じゃあ、いまなら訂正できるかもなあ」眼鏡を外して、夕闇の端で赤く染まる空を見上げる。「僕は音楽が好きなんだ。心の底から。いつ死んでもいいっていうくらいさ。あの日の僕は、そのことから目を背けていた」

 落ち着いトーン。でも、かすかにその声が震えている。


「それは、悪いことじゃない、と私は思う」

 迷路のようなアスファルトの溝に視線を泳がせながら、ゆっくりと、言葉を探す。

「だって、好きだけじゃ生きていけない気がするから。私はワガママだしバカだし【滅茶苦茶】だけど、私みたいな人が大勢いたら、世界、終わっちゃう。特別じゃない人は、働いて誰かの歯車になって生きることが必要だと思うの」

 辰巳は、自分は特別じゃないと自覚していた。だから、夢を託して私を支えてくれた。うちの両親は自分たちの野菜を食べてくれる不特定多数の人のために、毎日汗をかいている。それはごく自然なことだ。

「最初に逆風くんと言い争ったとき、結晶くんは、夢をずるずる引きずって何も得ていない人がいるって話してくれた。その通りだよ。私も、もしかしたらそうなるかもしれない。そんな不安から逃げたいのは当然だよ」

 最果先生もそうなんだろう。いまは落ち着いているけど、もっと若い頃は夢に向かって走って躓いてどうにもならなくて、いまこうして指導してくれる。私を辞めさせたかったのも無理はなかった。

「あの頃の結晶くんは、正しいよ」

「そう……かなあ……?」

 結晶くんは眼鏡を外して、目を腕でこすった後、うっすらと微笑んだ。

 上ずった声から、少し無理しているのがわかる。感情を我慢しているんだ。泣き顔を見せたくなくて。強い人だ。

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