3

 困ったぞー。参ったぞー。どうするんだ私。

 陽東ようとう 辰巳たつみ

 我が家から四〇〇メートル離れた、の家に住んでいる幼馴染。年齢幅があるこの集落だけど、辰巳とはマジもんの同級生。子どもの頃から、かけっこや虫取りやテレビゲームなんかをした大親友。弟の一影とも仲が良く、オンラインゲームをやりに、よく互いの家に遊びにいっている。

 辰巳の両親は、月下家と違って都会から移り住んだ。サラリーマン生活にうんざりして、農家の暮らしに憧れてやってきた。性格がいいから私の両親と気が合い、互いの農場を手伝っている。

 進学するまで、私と辰巳は毎日欠かさず会って話した。学校行くのも帰るのも一緒。6歳からずっと一緒に学校へ行って、同じ授業を受けて、同じように試験勉強して、同じようなテストの点を取った。

 私と辰巳は、共依存だった。一緒にいて当たり前だったし、いないほうが不自然だった。だから――私が長距離の選手を目指すまでは、私はこのまま辰巳と過ごして結婚して家庭を作る――そんな未来設計図をお互い描いていた。

 それを恋といったらたぶん違う。

 ただ、お互いがそばにいて落ち着くから、ほんとに、自然の空気みたいに、透明な関係だった。相手を傷つけることも、相手のモノを奪うでもない。互いを尊重して、互いに寄り添う、まるで鏡に映る自分と一緒にいるような感覚だった。


 一体、いつから私と辰巳は変わったんだろう。

 小さい頃は、男子という点で、運動や遊びが辰巳のほうが得意だった。長距離も最初はそうだった。でも、私は長距離の楽しさに目覚めて、辰巳に勝ちたくて努力して、そして辰巳を抜かした。辰巳は私をライバル視したけど、勝負を繰り返すうちに熱量が下がり、私を応援する側になった。

 ……その頃からだろうか。

 いままで同じ道を歩いていた辰巳とは、少しずつ離れた。それでも、辰巳は私のよき理解者で、私が記録を縮めたことを一緒に喜んでくれたし、進学で悩んでいることも相談にのってくれた。家族より、弟よりも、親身だった。

 ――けれども、次第に長距離の才能を伸ばす私に対して辰巳は停滞した。

 それが普通のことだと、辰巳も自覚している。なんとなく私もわかる。

 私が普通じゃないんだ。他人との比較なんてどうでもいい。ただ自分の才能を伸ばしたい。その想いが、ひたすらに私を高めた。

『昔は美尋に嫉妬していた』

 あるとき辰巳に吐露されたことがある。

『俺も美尋みたいに、何かに秀でた、誰にも負けない才能を持ちたかった。そうすればお前の世界も見える気がして……。でも、俺は凡人だった。突き抜けるものを見つけられなかった』

 きっと、一緒に歩んできたからこその苦悩だと思う。

 私も逆の立場なら苦しんだのかもしれない――まぁ、一影があんな調子なら、関係ないかもわからんが。

 ……わかっては、いる。わかってはいるが……緊張するなぁ。

 そもそも、帰ってきたその日に会わないのが悪手だった。せめて次の日、私から行けば面目は立った。頭の中では音楽でいっぱい――あーすみません、半分くらい逆風くんでした――から優先順位が低かった。


 そわそわしながら玄関に向かう。

 ドアを開ける。ふてくされた顔の辰巳がいる。

 短髪で、髪を立てたスポーツマン風。目力が強くて、ときどき鋭くなる。

 身長は私より頭半分くらい上。農業を手伝っているせいか、体格は太くて筋肉質。

 うぅ……気まずい。

「あ、ひ、久しぶりだね……」

 困るあまり苦笑して迎えると、その鋭い眼光を浴びせられた。まるで蛇。

「帰ってきているなら一言くらいあってもいいだろ」

「あーうーごめん」

 まずい、一影の口癖が移っている。

「そのー収穫時期だしー、高校になって勉強とかー、忙しいかなーって」

 視線を泳がしながら、手を合わせて分厚い指をくるくる回す。

「お前の家からギターの音聴こえてきたんだけど……」

「へーはー」一影のせいにしたかったけど、ともに地元だから私たちより仲がいい。絶対に見破られるだろう。「じつは私、練習していまして」

 辰巳が目を細める。

 疑いをかける目だ。

「長距離は?」この集落で唯一、私に合わせてマラソンではなく、長距離と言う。それ故に――いまが、きつい。「辞めるかもって相談されて、一度も連絡がきてなかったんだけど」

「そそそ、その、忙しくて――」

 ううう、嘘じゃない。

 突発的に辞めるのを決めて、そこから逆風くんに絡まれて、充実した(?)日々を送ったのだ。

「で、結局どうしたんだよ」

「や、辞めました」

「それでいまは?」

「音楽やってます……」

 素直にいうと、辰巳が苦々しそうに顔を背けた。

 やっぱり怒るよね……。

 蛙の合唱がむなしく響いてくる。死ぬほど気まずい空気。

「べつに美尋が選んだことだから、俺が何かいうわけじゃないけど――」

 固唾を飲んで次の言葉を待つ。

「心配してたこっちの身にもなれよ」

「ごめん……」

 ほんとにそれ。いろいろ相談してもらって、結論を言わずいまに至った。

 ――これは言い訳になるけど。

 辰巳は私以上に長距離やマラソン選手になることを応援していた。この超田舎で全国放送で私がオリンピックになって騒がれることを、心の底から望んでいた。それが夢だと、辰巳自身が言っていた。

 私は、そんな辰巳の夢を壊すのが怖かった。

 失望させたくなかったんだ。

 …………やっぱり言い訳だよね。


「――学校続ける意味あるの?」

 痛いところをついてくる。

 再会したとき、真っ先にその話題になると思ったが、その通りになった。

「ごめん……戻れないよ……」

 嘘をつけない。元来そういう性分だ、私は。

 たとえ世界で一番大切な人でも、私は自分に嘘をついてまで優しくできなかった。

 どれほどその人が傷ついたとしても。

「なんで?」

 辰巳の口調がきつくなるのがわかる。

 いや、もう会う前から、こうなることはわかっていた。

「ほかにやりたいことができたから」

 私はさっきまで抱えたギターのぬくもりを思い出す。あのギターの空洞の中心にあるたまを想像する。あれが新しい夢だ。私を私とたらしめる核だ。

「音楽? ギター? やったこともないのに?」

 辰巳が侮蔑を込めたようにいう。

「関係ない。私がマラソンに目覚めたとき、才能なんてなかった。好きになるなんて思わなかった」

「それは美尋が出会うのが早かったからだろ。

けど、音楽は高校から始めるじゃん。世の中には小さい頃からピアノやギターをやっている人がたくさんいる。好きでずっとやっているやつはみんな上手い。そもそもスタート地点が違うんだ。美尋はそんな人たちと戦っていくんだぞ。勝てるかよ」

「そんなこと言われなくてもわかってる!」

 逆風くんも結晶くんもそばにいるからわかる! あの二人は本当にすごい。才能もある。普通に練習したって到底勝てっこない。

「でも、勝つって決めたんだから! 決めたからやるんだ!」

 自然と声を荒げる。図星だから? 悔しいから?

 ちがう。辰巳が私を理解してくれないからだ。だからこんなにも強く当たる。

「決めたからってどうなるんだよ!」

 辰巳の声が木霊する。

「俺は美尋をずっと見てきた。お前が長距離と出会って、それを才能だと信じて――その美尋は自分を信じてとんどん前に進んだ。誰も到達できない高みにだ! なのに、なんでそれを捨てるんだよ! 人が、一生賭けても見つけられないものを! お前は、自分のワガママのために捨てるんだぞ!」

 ぷつんと切れた。

 頭の中で。心の奥で。張り付いた何かが、ぶった切られた。


「才能って……何?」

 頭の中が冷たい。凍るくらいに。けど、激しく怒っているのがわかる。

 人間ってほんとに怒ると冷たくなるのか。

「私は自分のやりたいことをやっただけ! ただ走るのが好きだから続けただけ。なのに辰巳も、先生も、ほかの人も、自分ができないからって才能・才能って、ありもしない願望のせいにして。

 いっておくけどね、辰巳。才能なんてものは幻想なんだよ。自分に勝てないやつの言い訳なの。辰巳は死ぬほど努力した? すべてを忘れるほど夢中になれた? なってないよね。自分に負けてたよね。あいつは才能があるから。自分にはないから。得意じゃないから。苦手だから。

 何もかも全部っっっ言い訳!! 弱い自分を肯定したいだけの理由! わかる?

 もうたくさん! もううんざり! 人の期待を背負うのも。人の夢になるのも!!

 私が野垂れ死のうが、後悔して自殺しようがべつにいいじゃん! 他人なんだからさ!!」

「お前!!!!」

 辰巳が拳を握って声にならない声をあげようとして、私を睨んだ。

 それが――なんだというのだ。

 私はいますごく冷酷に辰巳を見下した目をしているのがわかる。

 何がわかる? ちがうでしょ。私からいわせれば、辰巳に私の何がわかる。

 ずっと一緒にいた、永遠を共にしたかもしれない相手を、最低最悪侮辱侮蔑嫌悪極まる非道な目で見下した。

 辰巳はたじろいだ。私の最も強烈な悪意を受けたのかもしれなかった。

 顔を歪ませて、無言で、がむしゃらに踵を返して、躓きかねながら、フォームも呼吸も勢いも無茶苦茶になって声を殺して、走っていった。


 ――やってしまった。

 まだ怒りが残っている中、謎の喪失感だけがあった。

 絶対に絶級に、取り返しのつかないことをした――そんな自覚があった。

 その確信は、私の心臓を茨みたいに、包み突き刺し全身に廻った。

 わけもなく泣けてきた。涙が止まらなかった。

 嗚咽が止まない。息ができない。酸欠みたいに頭の中が真っ白になる。

 膝を追って涙目で、馬鹿みたいに口をあけたまま、きらきらした綺麗な夜空を見つめた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る