月が綺麗だね

 逆風くんの豪邸を前に、私たちは別れをつげた。

「じゃあ、また明日、絶対頑張ろうね!」

「あぁ。月下、ガリ勉、気をつけて帰れよ」

「わかったー」「はいはい」


 ――時間は23時を過ぎている。

 住宅街のネオンが暗闇に浮かんで、夜道をはっきりと照らした。

 初夏の熱と大気が、往来する車の排気ガスと混ざりあって、ぬるく張り付いた空気で満ちている。

 夕方から始めた練習は、終電近くまで行い、そこで一区切りついた。育ちのいいみちるちゃんは、両親が車で迎えに来て、九時前に帰った。名残惜しそうな顔が目に焼き付いている。

 まだまだまだまだ練習が足りない私たちだけど、がっちり固めた結晶くんのピアノと、逆風くんのギターアレンジが、未完成の曲ながら体をなした。

 セカンドギターの私だが、演奏は活動が本格的になってからなので、いまはボーカルに専念した。初心者のみちるさんは、慣れないウッドベースで苦そうな顔をしながら淡々と太い弦を鳴らした。女子グループが足を引っ張っているのは、音楽をさして知らない私でもわかった。

 気づけば、時間を忘れるほど没頭した。

 理由はわからない。勉強一筋の結晶くんが帰りたいと言わなかった。

 逆風くんは次々とフレーズを創りだして、結晶くんに伴奏を教えたり、みちるちゃんにコード進行とテンポを伝えたりした。


 車の往来が激しい道路脇を私と結晶くんが歩く。

 結晶くんと二人になるのは二度目だ。最初は逆風くんの勧誘がしつこくて助けを乞いにきた。あの日もめちゃくちゃだったな。

 結晶くんは音楽には興味ないの一点張りで、聞く耳をもたなかった。

 なのにきょうの練習はなんだ。ずるすぎじゃないか。嫌だと言いながら、ピアノの音色は初心者の私でもわかるほど上手かった。指示されたことをすぐに弾けるのもそうだけど、逆風くんの意図を汲み取り、音の表現で返していた。

 すごかった。なんていうか、音楽を理解わかりあっている関係だった。

 割って入る余地がまるでなくて、ちょっと嫉妬する。

「ピアノ、すごい上手いね」思っていたことを口にする。「羨ましいなぁ」

「中二まで週五で習っていたから。当然といえば当然だよ」

「続ければよかったのに」

 結晶くんは眼鏡を抑えながら首を振った。

「ピアノが上手い人間は山ほどいる。将来、音楽系に進んでも仕事につくのは難しいから、早々に勉強に切り替えたんだ。そしたら、このざまだけどね」

 そういうと、道路に転がっていた小石を軽く蹴飛ばした。

 小石はアスファルトの上で小さくバウンドして、隣の家の壁に当たって跳ねた。

 一回転して止まった小石を見て、なんだか申し訳ない気分になる。


「……ごめんね? 私が変なこと言い出さなきゃ結晶くんは勉強を続けたのに」

「いいよ。僕の慢心だったし。それに負けてよかったと思ってる」

「ほんと?」

「うん。いいメンバーに巡り合えた。一人だとこんなに充実することなかった」

 不意に私を見て屈託笑う。

「何よりさ、月下さんの声がいいんだよ! 人を惹きつける声だ。もしソロの歌手だったらいろんな作曲家が君に歌を提供するんじゃないかな」

「へ、いや、そうなの? ……そんなの、いままで全然感じたことないけど」

「わいは! ……んだか」

 結晶くんが腕を組んで一人ごちる。なんで納得してるんだ?

「頭の隅に置いてもらっていいんだけど――ボーカルに必要なのは存在感だよ。こればかりは努力で作れるものじゃない」

 ヤバいなぁ、存在感だって。絶対もってないぞ……。私やっていけるのかなぁ。


 結晶くんは、肩を落とす私を見てニコニコした。

「くっそ、ずるいなぁ……。悔しいけど、あいつの人選は確かなんだ。しいていえば僕を引き抜いたのは間違いだろうけど」

「いやいや、絶対ないから!」そこは頑として否定する。「私より結晶くんのほうだよ。ピアノとても綺麗だから」

「物がよかっただけ。あいつ金持ちだし。楽器は山ほどあるし家にスタジオもある」

「確かにお金持ちかもしれないけどさ。音色は絶対関係ないよ」

 もし結晶くんの弾いた楽器がエレクトーンでもピアノでも、私の耳は彼の音を聴き分ける自信がある。音に想いが込められている。


 ――不意に会話が途切れる。

 暗がりの中、幾台もの車が通りすぎる。数歩進むごとに吸い込む息。

「僕たち、これからどうなるんだろうな……」

 不意に聞こえた、不安とも期待ともとれる声。

 わからない。やっと始まったのかもしれないし。これからかもしれない。

ほんの少し前まで、私も不安だった。いまから音楽をやって大丈夫かって。不安だから、結晶くんも安定を求めて勉強していたはずなのに。

「きょうの練習をやってわかったんだ。僕らは普通じゃ絶対満足しない」

「それって?」

「ありきたりなバンドサークルで学校生活を終われないよ」


『俺は音楽で世界平和を目指してる』

『そんなありふれて、でも到底実現不可能な夢を本気で叶えたいと思っている』


 逆風くんの志はありえないほど高い。

 正直、私もみちるちゃんも結晶くんでさえ彼についていけるかわからない。

「……わかる。だから結晶くんを変な形で巻き込んだことを申し訳なく思うの」

「いや、たぶんこれは僕の問題だから」

 結晶くんは眼鏡を外して、瞼をそっと指でなぞった。

「実際に鍵盤を鳴らしてわかった。僕はこんなにも音楽が好きだったのかって。ピアノが僕を呼んでいたんだよ。運命だった」


 ―――――――――。


「参ったなぁ……。こんな形でもう一度向き合うなんて」

 口元が笑みで緩んでいる。

 声は震えていた。

 長距離から音楽に転換した私と、一度辞めた音楽をもう一度やる結晶くんとでは、どちらが勇気を必要とするのか。

 彼のいうように、「僕の問題」で、自分なりに覚悟を決めなきゃいけないのか。


【深い深い闇の中 夢の明かりが足元を照らす】

【先の見えない一歩 踏み出そうとしてそっと 私は私を確かめる】


 私は通り過ぎる車を見ながら思いついた言葉を呟く。

 結晶くんが驚いたようにこちらを見ていた。車のライトで目がきらきらしていた。

 声に出した途端、正解が視えた気がした。

「ちょっとずつでいいんじゃないかな。まだ始まったばかり……いや、じつはスタート地点にも立ってないかもしれない。それでもさ楽しんじゃおうよ。新しいことを全力で取り組むの」

 最善かわからないけど、でも、何かがわかるはずだから。

 青春ってそういうものだとおもうから。

 結晶くんは小さく頷き、眼鏡を掛け直した。

「そうだね。終わりが来るまで付き合うよ。いまはそれしか約束できないけど」

「十分だって。一緒に頑張ろう!」

 結晶くんは応えるようにクスリと笑った。

「きょうのこと、絶対忘れない。ありがとうね、月下さん」

 その声は優しく暖かくて、胸の鼓動が止まらなかった。

「月が綺麗だね」

 結晶くんの温かい声が、初夏の夜に溶ける。

 見上げた空は、真っ黒で、実家と違って星が点々としかしていなくて、でも、そこに浮かぶ三日月がくっきりと浮かび上がっていた。

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