田中くんと大統領の娘 -詐欺師 vs 異国の転校生-

サン シカ

田中くんと大統領の孫

 担任から自己紹介をうながされた青い瞳の少女は、長い金髪をかき上げながら「スズキよ。ハロー」と言い放った。

 シーン

 皆ポカンと前に立つ彼女を見上げた。

「……鈴木? 本名?」

「ええ」

 たまらず質問した担任すら戸惑っていた。

 これが日本人で通るならワンチャン猿でも住民票をもらえるだろう。

「ハーフ?」

「日本人よ」

「出身は?」

「キヨミズデラ」

「なんだアメリカンジョークか。はは……」

「ジョークではないわ」

 問題なく聞き取れるが妙なアクセントのある日本語だ。清水寺がキヨミズデーラと聞こえる。

 美術彫刻のように高い鼻、身長。その華やかさは、1年生全20名が一つの教室にきれいに収まったこの田舎の高校で、絶望的に浮いていた。服装は白いTシャツにデニムパンツとさっぱりしている。

「制服は?」

「急な引っ越しで間に合わなかったの」

「教科書は?」

「急な引っ越しで間に合わなかったの」

「目上の人間への口のきき方は……急な引っ越しで間に合わなかったか?」

「あっ、ごめんなさい」

 担任は眉間みけんを指でぐにぐにしながらふーっと息を吐き、「教頭に確認する」と教室を出ようとした。

「先生。私どうすれば?」

「後ろの席が空いてる。田中の隣」

 教師おとなが出ていった途端、どっと教室がいた。突然の転入生。刺激的な外見。

 毎朝謎の鳥がピーヒョロロと鳴くような、自然豊かでのどかな日常に飽いていた生徒らが食いつかないわけがない。


 女子はわっと彼女へ群がり、男子は遠巻きにそわそわしていた。

 築ウン十年の素朴な教室にキラ星のごとく降って沸いたスズキに、ギョッとしたのはギャルたちだった。

 スカートの短さとでかい声で男子連中を支配していたところ、「ハロー」のひと言で序列カーストトップの座から撃ち落とされたのだ。

 キャンメイクのリップでは到底歯が立たないと悟った彼女らは、すぐさま態度を改め、自称スズキの親友のポジションをゲットすべく満面の笑みを浮かべた。

「みんないい人! 実は不安だったの」

 性欲が爆発した男子共の「おっぱいでけえ……」のつぶやきは華麗にスルーされた。


 イスを引き、担任に指示された席、その隣人に微笑みかけた。

「はじめまして」

 握手の手を伸ばす。

 ふと酸っぱい刺激臭が鼻先をかすめた。

 不快感を笑顔と気合いで封じ込め、それがこの男のアブラぎったボサボサ頭から発していることに気づかない振りをする。第一印象は大事だから。

「ねえ聞いてる?」

 男の目がチラリと彼女へ向いた。不躾ぶしつけな視線はつま先から太ももを通り、くびれたウエスト、そして胸元でたっぷり停止した後に顔へ。

 なんという男だろう。

 男はイスに深くもたれた格好のまま、緩やかにその視線をスマホ画面へと戻した。この歓迎ムードとは対照的な、完全な無視シカトだった。


 右手を振り男のスマホを叩き落とした。それは飴色にひび割れた木目の床にくるくると転がった。

「人と喋るときは目を見てってママに教わらなかった?」

 再び彼女を見上げてきた。目つきが異常に悪い男子だった。

「それでいいのよ」

「おまえ」

「いきなり"おまえ"呼ばわり?」

「コレ見ろよ」

 男が机から出したのは教科書だった。

「これが?」

「動画を撮らせてくれるならおまえにやってもいい」

「動画? 頭おかしいの?」

「インタビューするだけ。身構えんなよ」

「嫌。絶対嫌」

「まあ聞けって。パーちん――あの担任な、つい最近キャバクラ通いが保護者連中にバレて問題になった。田舎の町にたった一軒の"桃色バタフライ"ってイカれた名前のキャバクラだよ」

「はあ?」

「娯楽の少ない町だぜ。反抗期真っ盛りの生徒ガキを毎日相手にしてりゃ、仕事明けにふらっと入りたくもなる。そこでパーちんは20も年下のナンバーワンキャバ嬢にハマっちまった。妻と今年中学生になった娘に隠れてな」

 男はくっくと笑う。

「その一件でパーちんは学年主任を降ろされた。オマケに三カ月減給、キャバ嬢にみついだせいで貯金はゼロだ。家に帰りゃ妻と娘からの冷たい目。もし次問題を起こしてみろよ。クビ間違いなしだよなぁ?」

「なんの話してるの」

「今頃パーちんは教頭にこう言ってるだろうぜ。"あの胡散臭うさんくさいガキは何者ですか? なぜ転入を許可したんです? 問題のある生徒を私のクラスに入れられても困ります!"ってよ。あと一度でもPTAに弱みを握られりゃクビが飛ぶからだ。教職を追われたパーちんに待ってんのは、妻と娘を抱えた無一文生活だぜ。――だからパーちんは絶対におまえを追放する」

「そんなこと……ありえない」

「その外見カッコお上手な、、、、日本語。んで名前が鈴木ってんだろ? あやしさ5億倍だってのだァほ。んで制服も教科書もない。昨日の今日でいきなり友引高校の生徒。しかもそれを他ならぬ担任が知らねーときた」

 目が落ち着きなく左右をさまよった。

「おまえ、何者だ?」

 担任が戻ったらなにを言われるのか。

教科書こいつをやる。ほぼ新品だ。ろくに使っちゃいねーしパラパラ漫画のラクガキもない。正岡子規まさおかしきをアフロにしねーやつなんて日本中探しても俺くらいのもんだ。つまりこいつは"貴重品"だ。戻ってきたパーちんにこれ見せて"教科書あります"って言ってやりゃあいい。それでこの場は切り抜けられる」

「あなたの教科書は……」

「本一冊、後でどうとでもなる」

「私の動画なんてどうするつもり?」

「パーちんに見せんだよ」

「インタビューを?」

「さっきのはマズい。おまえ清水寺がなにか知ってんのかよ」

「もちろん! キョートにあるとっても美しい場所。本で何度も読んだのよ!」

「寺は建物だ。外国のなんちゃらストリートって住所とは違ーんだよ」

「コーエンジを知ってるわ!」

「喋れば喋るだけボロが出てんだよエセ日本人が!」

「じゃあどうしろって言うの⁉」

「おまえは俺の指示したとおり喋りゃいい。適当な台本でっち上げてやるよ。ある程度素性すじょうがわかりゃ教師連中も安心すんだろ」

「本当に?」

「オラ、教科書、いるのかいらねーのか?」

 逡巡しゅんじゅんの末、彼女は男の手からそれをひったくった。



 *



 エマに緊急事態が起きたのは翌日のことだった。

 自称鈴木――Valerieヴァレリー Emmaエマ Rickenbackerリッケンバッカーの短い動画が世界へ向けて発信されてしまったのだ。エマは登校するなりその事実をクラスメイトのギャルに教えられた。

「これ……どういうこと!?」

 見せてもらったスマホにYouTubeが映っている。

『田中ちゃんねる』とあった。チャンネル登録者数は35人。有象無象うぞうむぞうの最底辺ユーチューバーだ。

 そこには毎日7分ほどの動画が投稿されていたが、最新の動画の表紙画像サムネイルにエマが映っていたのだ。

「こんなの撮らせたの? ダメじゃん鈴木さん」

「これは、先生にって」

だまされたんだって!」

 ギャルのランが田中の席を蹴っ飛ばしながら叫んだ。

「あいつなんて呼ばれてるか知ってる?」

「なに」

詐欺師さぎし

 人間のクズ、と蘭は吐きてた。

 顔はモザイク処理されている。セリフのテロップが入っていて、顔を撮っていたはずのカメラは執拗に胸と金色の髪を追っていた。

 握りしめた手がわなわなと震えた。

「あっ、鈴木さん!」


 蘭の制止も構わず教室を飛びだした。登校してきた生徒はぎょっと驚いて道を空け、すごい形相ぎょうそうで爆走するエマの背中を見送った。

「レオ!」

 校門から少し離れた電柱に寄りかかっていた男はビクッと顔を上げた。

「お嬢様」

「大変!」

 黒いスーツの男はエマの指示どおり自分のスマホを確認した。そして愕然とする。

「これは……」

「今すぐタナカって男を捕まえて! この動画を――」

 ――言い差し、すぐ目の前をソイツ、、、が横切った。

「タナカッ!」

「んぁ?」

 レオはすっと間合いを詰め、スナップを効かせた右フックをズン、と田中の脇腹へ叩きこんだ。ひざから前のめりに倒れ込んだところへ流れるような動作で押さえ込み、「ふんぐぎぎぎ……」と無様にうめく彼の手からスマホを取り上げてみせた。

「よくやった!」

「なにしやがる⁉」

「YouTube動画を今すぐ消して!」

「このアホをどうにかしろ! クッソ、痛ぇぇぇ!」

「消すの! 早く!」

「わ、わかったから」

「お嬢様」

「ん?」

「こいつ身体洗ってませんね。臭くて限界です」

「わかった。放してあげて」


 田中に動画を停止させたとき、既に307回の再生数がついていた。一般的にはごく少ない数だ。とはいえ他の動画に比べて10倍以上の再生を稼いだわけで、田中はとても不満げだった。

「約束と違うじゃない。なんでこんなことしたの」

「カネ稼ぎだろ。決まってる」

「最低ねあなた」

「ちょろっとエロ目的の男を釣ろうとしただけだろーが。心が狭い女だぜ」

「ゲス野郎」

「最低ってのはエロがか? カネか?」

「全部よ」

 吐き棄てるように言い、担任に席替えを訴えようと決めた。



*



 二週間後、エマは中心人物としてすっかりクラスに溶け込んでいた。

 不安の種はいくつかあったのだ。担任が詮索せんさくしてこないかとか、300ほど回ったエマの動画の影響とかである。

 だが二週間経っても特別なことは起こらない。渋々レオの助言を受け入れて京都ではなくこの田舎の町を選んだことを、今は満足していた。

 都会は刺激が強過ぎるから。

 慣れていない彼女には、一本道が空と大地の境界に消える風景がとても合っていた。ギャルの蘭ともすっかり仲良し。スーパーでもらえるコーヒークーポンを親の財布からくすねてきた彼女は、無料コーヒーで喫茶店を閉店時間までお喋りするたのしさを教えてくれた。

「エマさー、制服まだ届かないカンジ?」

「そう。もうこのままでいいかな」

 エマなら絶対かわいいのにーと蘭が笑うと、周りの女子たちも次々に賛同した。

 ちなみに初めてのテストで、左手で書いたようなひらがなで名前を『えま』と書いてしまって以来、エマを『鈴木』と呼ぶ生徒は誰一人いなかった。

 レオには「あなたは……またですか」と盛大にため息を吐かれたものの、『鈴木えま』で押し通すと意外に誰も詮索してこなかった。"日本人は謙虚で空気を読む"っていうあの紹介記事は真実だったらしい。

 物事をストレートに表現する母国の文化とは違うが、とっても好ましい。人も環境も。

 約一名を除いて。


「彼はどういう人なの?」

 蘭に尋ねた。田中は今日もひょろ長い手足を投げだすように座り、難しい顔でスマホをにらんでいた。エマと違って彼の周りには誰もいない。

「みんなから嫌われてるよ! "俺はでっけーやつになる"って中二病こじらせてるバカだね。でかいのは口だけ」

 まったく同意見。

 悪口でもなんでもない、ただの事実。

 エマはじっと見つめた後、田中の席へ歩み寄った。

「なんか用かスズキ」

「あなた嫌われてるよ」

「はっ。ところで制服はいつ届くんだ?」

「友達いないの?」

「届いたら教えろよ。10000再生は固ぇ」

「私はできた。ここでたくさん」

「田舎ならチヤホヤされると思ったか?」

「ムカつく」


 エマはその日から毎日田中に話しかけた。

 誰もが嫌がる田中の隣に座り、のべつまくなしの集中砲火だった。大した会話ではない。つまらなそうに暴言を吐く田中にぷっつんキレて、エマが怒鳴り散らかすという行為が延々えんえんとくり返された。

 クラスメイトは自ら災難にぶつかっていくスタイルのエマを不思議そうに眺めていた。

「おまえさ、俺に惚れちゃった?」

「あんたに比べたら畑のカカシのほうがときめく、、、、わ」

 人によっては夫婦喧嘩にも映るようで、これをやっかんだ上級生のヤンキーが田中をおどしにきた事件も勃発した。

 恐ろしい男の乱入にクラスの皆は震えあがっていたが、エマは不良先輩の奇抜なモヒカンヘアを目撃したとき、裸に腰ミノをつければテレビの超自然ネイチャー番組に出られそうと思った。

 まあこういうやからはレオが放っておかないが。

 実際先輩は翌日学校に来なかった。裏でなにが起きたかは簡単に想像できた。冷静沈着に見えて、レオは"お嬢様"のこととなるとブレーキが壊れるのだ。

 代わりに青アザと絆創膏ばんそうこうだらけの田中が何食わぬ顔で席に座っていた。

「モヒカンにやられたの?」

「知らねーよ」

「見てるだけで痛そう!」

「ギャンギャンわめくな! 傷に響くだろうが!」

 なんだか元気そうで笑ってしまった。

「よく学校来れたね。あいつがまた絡んでくるかもしれないのに」

「だァほ。なんでこの俺の日常がニワトリヘッドに左右されなきゃいけねーんだっつの」

 あの髪型を思いだしてまた吹きだしてしまう。アホ呼ばわりはムカつくけど。

「彼はやり過ぎだけど、タナカはもう少し髪の毛に気をつかうべきね」

「髪とかどうでもいいだろ」

「大事。タナカはわかってない」

「そんな暇あるか」

「大いに暇そうだけど」

「忙しいんだよ」

 彼はいつものように視聴人数2ケタの動画投稿とにらめっこ。

「どうしてお金が欲しいの?」

「そっちこそ」

「え?」

どうして、、、、制服が、、、届かない、、、、んだ、、?」



*



 同じころ友引町の無人駅に10人の黒服の男たちが降り立った。

 サングラスの奥に表情を隠した彼らの足の運びは明らかに常人のものではなく、のどかな風景のなかで異様に浮いている。人ひとり入れそうな特大のバッグを担いでいた。

 電車が線路の上を緩やかに走りだすと、男たちは夕日が作る影の道を、音もなく歩き始めた。



*



 薄闇のなかを黒い手足が視界の四方から襲ってきた。10対1なうえ完全な不意打ちでは、いかなレオとてどうすることも叶わなかった。

 万が一を想定してか銃は持ち込まなかったらしい。

「やあレオ。探したよ」

「ルースレス……!」

「おいおい、犬がご主人を呼び捨てか?」

 ジョージ・"ルースレス冷酷"・リッケンバッカー・ジュニア。現アメリカ大統領の三男。中央情報局CIAに在籍し、肩書きでは中央情報副長官となる男が予告もなく現れた。

 低いうめき声がした。

 見ればルースレスはエマの髪を掴んでここまで引きずってきたらしい。衣服は破れ、顔には殴られたあとが――

「そのクソ汚い手を放せ! 家族だろうが!」

「家族? 娼婦の娘と私が?」

 押さえつけられ関節をめられた腕が悲鳴を上げた。さらにルースレスの硬い靴底が落ちてくると、鈍い音のあと奥歯が眼前の土の上を転がっていった。

「家族なわけないだろ。娼婦の子は娼婦だ。もっともそっちのほう、、、、、、は随分たのしめたがなぁ」

「……殺してやる」

「怖いなぁレオ。おまえ勘違いしてないか」

「その手を放――」

「これは父の命令、、、、だ。恨む相手が違う」

 レオは言葉を失った。それはあらゆる理不尽を無効化する宣告だ。

「合衆国大統領が"エマを消せ"とCIA我ら下知げじしたんだ。裏切り者のおまえに出る幕はない」

「――じゃあなんのために生まれたんだ」

「なに」

「勝手過ぎる……人間のすることか⁉」

「だったら殺すか?」

 彼は部下に命令してレオの拘束を解かせた。そして自らかがみ込み、自分の首を差しだした。

「いいぞ。この首を掻っ切ってみろよ。そしてエマは大統領の息子を殺した犯人ってわけだ? このまま人知れず死ねるものを、歴史に名を残す犯罪者として処刑させたいならなァ」

 レオは倒れた姿勢のまま元上司をにらみつけた。

「だ……め、レオ」

「お嬢様」

 エマは必死に声を絞り出した。

「お願い」

 自分の頭をブン殴りたかった。エマにそれを言わせてしまったことを死ぬほど後悔し、怒りとはがゆさでエマから目を背けた。

 すると茂みの暗闇からわずかに光がこぼれているのに気づいた。

「それとね、死んでいい人間なんていないわ。でしょ、レオ?」

 腹をくくった。

 一つだけ残った冴えないやり方に賭けることにした。

「それはあなたを含めてだ。エマ様」


 言うや否やバッタのように飛び起きると、袖下に常備していたナイフで囲みの黒服らのすね横凪よこなぎに裂いた。薄闇のなか血しぶきが円の軌道を引く。間を置かずルースレスの腕を蹴り上げてエマを引き立たせ、茂みの奥に向かって叫んだ。

「タナカッ! お嬢様は任せたぞ!」

 たたらを踏むエマを突き飛ばした。すると暗がりからぬっと出てきた手が彼女の腕を掴み、そのまま全速力で疾走する。

「チッ! あの野郎勝手に」

「タナカ⁉」

 もみ合うレオの「死ぬ気で逃げろ!」という叫びが背中をかすめる。

「――死ぬとか死なねえとか。ハリウッドは撮影場所ミスってんだよだァほが!」

 田中は迷わず道を逸れ、黒で黒を重ねた森の奥へと飛び込んだ。



*



 獣道とさえ呼べない道なき道の先で、ぱっと視界が開けた。さざめきと潮風は遠く。ずっと崖下にあるようだ。海だ。土地勘がなければそうそうここにたどりつけない。

 エマの腕を握った手はかすかに震えていて、エマが「じんましんhives出てるじゃない。怖かった?」と尋ねても、田中は黙っていた。

 二人は木の幹に背を預けて座り、海の方を見ていた。

「私が本名を言っちゃったせいね。ランたちがSNSで私のことを書いて、そこから友引町を特定したんだと思う」

 違う。

 男たちがエマを襲ったいちばんの原因は田中の動画だ。それは田中にもわかっていたが、エマは一切そこに触れなかった。

「おまえは誰だ」

「盗み聞きしてたでしょ」彼女は小さく笑う。「現アメリカ大統領の娘よ」

「孫じゃなく?」

「50も歳の離れた正真正銘の娘! 驚いた? もしこれが世間にバレたら大スキャンダルね」

「マジかよ……」

「父リッケンバッカー・シニアがコールガールを妊娠させて私が生まれたの。父の家族すら私の存在を知らないわ。――ルースレスと一部のCIA職員を除いてね」

 レオは元CIAで、幼いころから自分の世話をしてくれたと彼女は語った。

「母親の名前は?」

「どうして?」

「もう隠すようなモンじゃねーだろ。俺も知っちまったんだ」

「ニッキー。今どうしてるかは知らない。ねえ……今後あなたも命を狙われる。気の毒だけど。今日見たもの聞いたものに口を閉ざすことをお勧めするわ」

「知るかそんなもん」

「へぇ、怖くないの?」

「おまえは怖いか?」

「怖くはない、と思う」


 雲間から覗いた白い月明かりがエマの身体を照らした。

 初めて異常に気づく。

 エマの素足。

 田中は息を飲んだ。

「おまえ……それ、、どうした?」

 破れたジーンズの下に見えたのは紫色の斑点はんてんが埋め尽くした肌だ。

 昨日今日できたものじゃない。

 彼女のTシャツを掴んで強引に持ち上げた。もちろんエマは抵抗したが、鎖骨から胸元、腹のなだらかな曲線が腰へと続く肌は、まるで"紫のまだら模様の服"を着ているようだ。

 日常的な虐待のあと

「……制服が一生届かないわけだぜ」言葉を吐き棄てた。「さっきのクズ野郎か?」

 ため息を吐き、エマは観念したように頷いた。

「一つだけお願いがある」

 キスをするような距離でエマの瞳がりんときらめく。

「絶対に誰にも言わないって約束して」

「オッケー」

「タナカ」彼女はおでこを田中のおでこに押し当てた。「ふざけないで。本気なの。これを他人ひとに知られるくらいなら命を差し出す」

 彼女の体温と共に、有無を言わさぬ強い意志が田中を突き抜けた。

「……わーったよ」


 リッケンバッカーは国民の支持が厚い大統領として知られている。

 前任者が歯に衣着せぬ過激なリーダーだったのに対し、彼はそんな旧政権からの脱却を旗印にアメリカ国民の、ひいては世界の人々の期待を背負う人物の"はず"だった。

「私は狭い部屋で育った。家の周りにはいつも父の私兵がいて、一度も外に出してもらえなかったの。テレビもPCラップトップもない、つまんない家よ」

「隠し子か」

「父が大統領になってからはなおさらね。警備が厳しくなって窓から外を眺めるのも禁止されたわ。あの人にとって"エマ"はこの世にいちゃいけない人間。遊びの女に産ませた娘を拉致監禁らちかんきんなんてね? バレたら支持率なんて消し飛んじゃう」

「それで逃げてきた?」

「レオにね、16歳の誕生日はなにがいいって聞かれたのね。それで"キヨミズデラへ行きたい"って」

 テレビもネットもなかったけど本はたくさんあった、と彼女は笑う。

「写真見て憧れたんだ。なんて美しいのって! 自由になったら行ってみたい。だからレオと一緒に日本語も覚えたわ。どう? 上手いでしょ」

「レオがおまえを連れだしたのか」

「上手いでしょって聞いてるの!」

「はあ?」

めて!」

「フツーに上手い」

「最初からそう言えばいいの」

「なんなんだよ」

「"欲しいもの"なんて聞くからついイジワルしちゃった。なにも与えないのはあなたたちでしょって。でも彼ね、"外に出たい"なんて無茶なお願いにひと言、"わかりました"って」

「バカだな」

「ね。すぐ見つかって酷い目に遭うよね」

「違ーよ。その歳まで我慢したおまえがバカ。俺だったら初日で脱走してるぜ、そんなクソ家。ショーシャンクの囚人はごめんだ」

「……うん」ひざを両手で抱いて田中を上目に見つめた。「怒ってるの?」

「怒ってねーよ」

「顔が怖いよ」

「元からだよだァほ」

「自覚あったんだ?」

 エマはくすくす笑った。


「クラスのみんな、やさしかった。いい人ばかり。でもなんでだろうね、本音で話せるのは目の前のゲス男」

「身体のアザ、あの男がやったんだな?」

「ルースレス。兄よ。母違いの」

「警察に助けを求めりゃ――」

「ダメ」

「なんで」

「州警察に頼れば保護してくれるかもしれない。正義の名のもとに国と戦ってくれるかもしれない。でもそれはできないの」

「だからなんで」

あの男に、、、、されたこと、、、、、を話さなきゃいけないからよ!」

「虐待だけじゃ……ねえのか?」

「私は娼婦の娘だよ」

 エマがそれだけ言うと、田中はチッと舌打ちして顔を背けた。16の彼女が、歳の離れた、しかも実の兄から? もしそんなことが日常的にくり返されてきたなら……

「家族は大嫌い。ううん、家族と思ったことは一度もない。少なくとも父の政権が続く間は自由はないでしょうね。でも殴られても口に無理矢理突っ込まれても、この腐った過去を人に知られるよりはマシ! もしクラスのみんなが真実を知ったら? 男子たちはそれでも私にアピールしてくれる? ランはこの汚い身体を見ても笑って話してくれるのかな?」

「そいつは」

「過去は変わんないし変えられない。その上未来まで潰されたら、私はなにを希望に生きていけばいいの?」

「そうか」

「タナカ。二人だけの秘密。いい?」

「俺がなんて呼ばれてるか知ってるか?」

「タナカ」

「ああ」

「約束して」

「俺が"約束守ります!"なんて答えて信じるのかよ」

「うーん、そうね。あなた確か……将来は"でっけーやつになる"んだっけ?」

「バカにしてんのか」

うつわの大きい人間は困った女の頼みくらい聞き入れるわ」

「勝手に決めんじゃねえ」

「"でっけーやつ"なんだったら、もうここに居れないし帰る場所もない絶望的なこの状況を、どうにかしてよ」

 からかうようにひじで田中を小突く。

「助けてよ」

 彼はスマホをじっと見つめて、やがて短く「ああ」と答えた。

「ちょっと、ジョークよジョーク! 真に受けないでよ」

 まるで子どもの約束だった。「将来お嫁さんにしてくれる?」なんてその場のノリ的な"お願い"に、真剣に頷く少年のよう。

 エマは吹きだして笑った。

「ウソウソ。レオにも不可能なこと。自分のことは自分でなんとかするわ。ごめんね」

 他人に知られるくらいなら死ぬ。そんな秘密を、よりにもよっていちばん話しちゃいけないやつに打ち明けてしまった。

 自分の行動が支離滅裂で、少しだけ愉快に思えた。

 でも田中は笑わない。

「あんまナメてんじゃねーぞスズキ」

「え」

「CIAだかなんだか知らねーが、俺の目的を邪魔するなら全部ぶちのめす」

「はいはい。そうね」

「俺は他のやつとは違う」

「へー」

「今にわかる」

「ちなみにその"目的"って?」

「カネだ」


 突然背後から羽交はがい絞めにされた。皮手袋で口を押さえられ呼吸もままならない。

 ドサッと音のしたほうに横目をやるとレオの身体が転がっていた。

「少年。"ぶちのめす"と言ったか? 今」

 黒服の男たちが二人を音もなく取り囲んだ。

 ルースレスは田中を拘束したままじりじりとがけのほうへ歩いていく。気づけば足はもう、半分がけの外に浮いていた。

田舎者いなかもののガキが」

 英語の授業などろくに聞いていなかったが理解できた。

 波が岩肌を叩く音がせり上がってくる。

 濃い潮の香り。

 びょうびょうと唸る海風が制服のシャツをバサバサと打ちつけた。

 ついに地面の感触がなくなった。

「ハエにでも生まれ変わったら挑戦するといい」

 背後で「――タナカっ!」という悲痛な声が聞こえた気がした。勢いよく押し出された身体は強風に揺さぶられながら一直線に急降下し、くらい海の中へと沈んで消えた。






 へんてこな夢を見た。

 中身がタプタプに詰まった水筒の中身を必死に捨てる夢だった。なんの意味があるんだろう? だが思考と切り離された腕は何度も何度も水筒を振った。1秒でも早く中身をからにしないとマズイ――なんて強迫観念に襲われながら、何度飲み口を下に振っても全然なくならない。

 疲れてきた。

 だいたい水筒を空にしてどうなるってんだ。アホらしい。死ぬわけじゃなし。

 ひざに手をつき乱れた呼吸を整えようとして、ふと、自分が息をしていないことに気づいた。


「グがフぁッッ」

 水道管が破裂したように大量の水を吐きだした。

 薄く開いた目蓋まぶたの向こうで月光が差している。

 強い耳鳴りと頭痛と。

 心臓は内側の骨を激しく叩き、この身体の持ち主に大量の酸素を要求した。

 それでも少しずつ身体に酸素が行き渡ってくると、人の気配に気づいた。

「平気そうだな」

 ずぶ濡れのスーツジャケットを肩に引っかけたレオは、それだけ言うとさっと立ち上がった。

 仰向あおむけの視界に映る高いがけ。あそこから落ちた。こいつが海から引き揚げてくれたのか。

「おい、どうなった?」

 歩き去ろうとする背中に尋ねた。

「スズキは」

 あれから何時間経ったのか? あせる素振りのないレオを見るところ、なんとかなったのだろうか。

 レオがゆっくりと振り返る。

 そのまま、ただ、見下ろしている。

「おい」

 海風が垂れた金髪を揺らした。

 砂浜にできた長い影は微動だにしない。

「お嬢様は」

 ああ、と直感した。

 その先は聞かずともわかった。

 こいつが、生涯守ってきた少女ではなく無関係なガキのそばにずっといた理由なんて、たった一つしかないからだ。

「死んだ」



*



 梅雨が明け夏がやってきた。

 田舎の夏は命が宿る季節。


 太陽が肌を焼き、緑は鮮やかに萌えて、赤と黒のテントウムシが麦わら帽子のふちを歩いている。

 さえぎるもののない田畑の一本道に、彼はいた。

 7月4日12時57分。

 この森の奥には秘密の広場がある。遥か紺碧こんぺきの海をのぞむ高台。そこには石柱が一本建っていた。

 7月4日12時58分。

 レオが作ったのだろう。石碑せきひにナイフで名が刻まれている。ここには遺体も魂もない。ただ一行の文字列が、彼女がここに存在した証明だった。

 Valerie Emma Rickenbacker

 7月4日12時59分。

 そのなんでもない夏の一日は、海の向こうで独立記念日Independence Dayと呼ばれている。

「3、2、1――」

 田中は人差し指をスマホの画面に打ち下ろした。

「どかん」


 薄汚れたスーツ姿のレオが森への道をフラフラ歩いていると、ふと森の道から出てきた男とすれ違った。

 そいつは無言だったし、レオはうつむいて歩いていたため、その男が知っている人物だと遅れて気づいた。

 黒い服装の胸元にギラギラと輝く金のネックレス。ミドル丈の黒髪が整髪料でツンツン尖っていて、記憶の"男"とうまく重ならなかったのだ。

「タナカ」

 彼は振り返りもせず歩いていく。スマホに夢中なその口からは低い笑いが漏れていた。

 なぜか気になってジャケットの内ポケットからスマホを出した。そしてニュースアプリが伝える"リッケンバッカー悪夢の独立記念日"という見出し記事に、度肝を抜かれた。


 13時間の時差を越えたアメリカで、ニュースメディア・各紙は一冊の本について一斉に報じた。

名無し少女の独立記念日The Independence Day of Jane Doe』という本が電子書籍・紙媒体で電撃発売されたらしい。世界経済活動のリーダーであるアメリカ、そのトップであるリッケンバッカー大統領のスキャンダルを告発した内容で、なにより内容のどぎつさ、、、、が社会に衝撃を与えた。

 不倫、隠し子、認知拒否、戸籍削除、長期監禁、DV、強制わいせつ、そして殺人。本は"名無し少女エマ"の人生をあけすけに語っていた。


「なんだ……これは」

 この手の暴露本は砂場の石粒ほどある。

 政府の反応は迅速で、1時間後には大統領自らがカメラの前に立ち、「悪質な捏造ねつぞう」と切り捨てた。それで事態は収束するはずだった。

 だがこの事件が結果的に彼を大統領の座から蹴落とし、手駒てごまだったはずの警察から身柄を拘束される原因となったのは、YouTubeに投降された一本の動画であった。

『【衝撃】名無し少女にインタビューしてみた』という動画はSNSによって瞬く間に拡散された。

 後に動画は意図的に改変編集されたものとわかったのだが、警察がエマの"家"の監視カメラから入手した音声によって、動画の"声"だけはエマ本人に間違いないことが解析専門家によって発表されたことで、いよいよ事態は取り返しがつかなくなった。


 発売3日で電子・紙媒体合わせて1000万部売れ、エマ本人が映った証拠動画は2億再生を突破した。

「あいつか――!」

 "TANAKA SUZUKI"なんてふざけた著者名にも、動画を投稿した"田中ちゃんねる"にも覚えがあった。派手なアクセサリーを身につけ急に人が変わったような16歳の少年が頭をよぎると、もう怒りでじっとしてなどいられなかった。

 下校途中の田中に横から飛びかかって10発ぶん殴った。

 確かめるまでもない。

 犯人はこいつしかいない。

「なぜ"秘密"を売ったッ⁉」

 馬乗りに組み敷いた顔をもう一発殴った。

「お嬢様が必死に守ってきた過去を……おまえはああぁぁぁぁ!」

「"なぜ"って?」

 田中は笑う。

 これだけ殴っても三白眼さんぱくがんは不敵にゆがんでいる。

もうかったぜ。これがまだ手つけ金だとよ。すげえ!」

 隠し撮りしていたのだ。なにもかも。

「お嬢様はおまえを友達だと……信用して話したんだぞ!」

「今から墓参りか? なら"サンキュー"って伝えといてくれよ」

「助けたのが間違ってた」

「おまえさ、俺がなんて呼ばれてるか知ってる?」

だまれShut the fuckin' mouth


 田中を殴った。「あやまれ!」殴った。「笑うな!」殴った。「屈しろ!」殴った。「折れろ!」殴った。

「……指図され……るくらいなら……殴られたほう、がマシだ」

 レオはピタリと手を止めた。

 なんだこいつは?

 たかがイキった田舎者の高校生を、CIAエリートだった自分が制圧できない。黙らせることもできない。

「"お嬢様"の言葉を、思いだせよ。レオ君」

 いちいち頭にくる。

『死んでいい人間なんかいないわ。でしょ、レオ?』

 そう言いたいのだ。


 そのとき、急に人の気配を感じてレオは飛び起きた。

「ルースレス……」

 それは長年に渡ってエマを苦しめ、エマを殺した張本人だった。

 部下も従えずただ一人。数日前とはまるで印象が違う。顔はやつれて生気がなく、スマートに整えてあった髪はボサボサに乱れていた。

 なにより彼が日本ここにいることに驚いた。

「――なにしにきやがった?」

 引きかけていた怒りの火が再びいた。

「のこのこ殺されにきたのか?」

「殺す、だと? ハハ。ハハハハハッ!」

 その狂気じみた目を田中へ向けた。

「そうか……おまえが"タナカ"」

 よろよろと近づいていく。

「やられたよ。なあオイ。おかげでリッケンバッカーの一族は破滅だ」

「なに言って、やがる?」

 田中が声を絞りだす。

英語ことばが通じないか? いいさ。敗北者の愚痴ぐちさ。ちょっとつき合えよ。今や国民はぜーんぶエマの味方さ。まるで映画のヒロインだ。低能のバカ共の好きそうな展開だ。やつら他人の不幸が大好物なのさ。悲しむフリして快感にひたって。自分より不幸な女がよりにもよって大統領の娘だったって、内心笑ってやがる」

 世論の非難は大統領にとどまらず、その家族までもを襲った。

 スマホ一つで繋がった世界、その結束力はすさまじい。あれほど隆盛りゅうせいを誇ったリッケンバッカーをものの数日で破滅に追い込んだ。

 そしてそれは田中も同じだった。

「お目にかかれて光栄だよ。世界一の嫌われ者」


 ルースレスの言葉は田中の現状を正確に言い当てている。YouTubeに投稿した動画で押されたBADボタンの回数、その数1200万。内部の誰かがリークしたのだ。

 田中はエマをダシに大金を得た詐欺さぎ野郎として、ネットで総叩きに遭っている。

「なあタナカ。私はおまえに会いにきてやったんだ。どうだ? 最悪の人間同士、そのカネ、、、、で一発逆転狙わないか?」

「バカなことを!」レオが割って入った。

「レオ、訳せ」

「あんた正気か」

「正気なわけがあるか。この私が庶民のガキと手を組んでやろうってんだ。捨て身もいいとこだ」

「なにをする気だ」

「エマでもうひと儲けするんだよ」ルースレスは田中にかがみ込み、ゆっくり一語一語発音した。「母親ビッチの写真もある。エマの過去を切り売りするんだ。いいアイデアだろ? なんならエマにさせた、、、ときのデータを提供しよう」

 彼はスマホをトントンと叩いた。

「全部ここ、、にある。私と組めば大金が手に入るのさ。父さんは私など切り捨てるつもりだ。直接手を汚した私を切れば乗り切れるなんて考えてんのさ。バカ野郎め! もう私に失うものはない。家族の秘密も全部カネに換えてやる。ジョージ・ジュニアは消える。なあ、二人で新たな人生をたのしもうじゃないか」


 レオのこぶしがルースレスの鼻骨を砕く音がした。血まみれの顔を何度も殴り、取り落としたスマホを拾い上げた。

「ハハハハハハハ! 無駄だ! データの予備バックアップはいくらでもある。当然だろ!」

「ルースレスッ!」

「壊したきゃ壊せばいい。データを取りだすパスワードは私しか知らない。愚かな野郎だ!」

 レオはナイフを取りだした。

 刀身にはいつかの血が黒々とこびりついていた。

「私を殺すか? いいぞ。やれよ!」

 のど元に鋭い切っ先が触れただけで、真っ赤な血液の玉が生まれ、のどを静かに下っていく。

 怒りなのか恐怖なのか、ナイフを持つ手は小刻みに震えた。

「どうせ父は私を消しにくるだろう。あのときの私の部下たちを寄越してな! 怖いものなどないんだ! 死ぬまで生きるだけだ!」


 殺してやる。

 ナイフをぐっと押し込んだ。

 お嬢様をこれ以上汚すことだけは許さない――それだけだった。

 エマの身辺警護を任された最初の日、幼い彼女が恥ずかしそうに名を尋ねてきた記憶が鮮烈によみがえる。

『エマって、よんでいいわ』


 ナイフがレオの手を離れ、カラコロと転がった。

 ルースレスは嫌らしく微笑む。

 伏せた顔、食いしばった歯からは血がこぼれた。レオは泣いていた。

 どうしてもできない。

 彼女を想えば想うほど、できなかった。

「さあタナカ。似た者同士、世界じゅうのカネを――――」

 声はそこで途絶とだえた。

 レオはゆっくりと顔を上げる。

 ばさりとルースレスの身体が崩れ落ちた。

「……タナカ?」

 田中はルースレスの胸からナイフを引き抜くと、ぞんざいに投げ捨てた。ルースレスはピクリともしない。

「タナカ、おまえ」

「死んでいい人間なんか――――目の前にいんだろ、だァほ」

 言葉をナイフのように吐き棄て、「おい」とレオを呼んだ。

「海に棄てるぞ。手伝え」



*



 なにもかも幻のようだった。

 忠誠を誓った主を失ったことも、政府が一夜にして崩壊したことも、あの憎きルースレスが死んだことも。


 行くあてもなく彼は友引町にいた。

 念のため一週間ほど身を隠し、そろそろ墓を掃除せねばと出てきたばかりだ。

 胸にぽっかり穴が空いたようだ。

 悲しみも怒りもそこから抜け落ちた。

 タイを緩めて上着を脱ぎ、水の入ったおけを持って森へ入った。

 セミが鳴いている。

 潮騒が聞こえてくる。

 森が開けて広場に出たとき、レオの視界はまぶしいほどの"白"に埋め尽くされた。

「これは――」

 花。

 一つや二つじゃない。

 花花花花花花花花花花花――

 何百という白い花束が手作りの墓標を囲んでいたのだ。この世の楽園があればこんな感じだろう。

 添えられたメモにさまざまな言語が見える。

 誰かがここを見つけ、SNSに共有し、世界中から献花に訪れたのだ。


 戸惑いながら墓標に立つ。

 一枚の写真が。

 墓石にセロテープで貼りついてる。

 他と違いメッセージはない。

 ただの絵葉書。

 はっとした。

 清水寺の、絵葉書。

 そういえばすれ違った、と記憶をたどる。

 やつはあのとき森から出てきたのだ。


 桶を放りだして来た道を駆け抜けた。

 校門をくぐり教室のドアを乱暴に開き、授業中も構わず田中の腕を引っ掴んで連れだした。

「なんか用か? 忙しいんだ」

「おまえか?」

「はぁ?」

「広場の花だ」

「あれか」

「こうなるとわかっていたのか?」

「なに言ってんだおまえ」

 田中は大きなあくびをして、シッシと手を振った。

「もういいか? 今日はこのカネでキャバクラ行くんだよ」

 臭いもしない、セットされた髪。

 派手な金色のネックレスは意外と彼に馴染んでいる。

「"桃色バタフライ"っつってな。センス抜群だろ? これがパネ詐欺らしくてよ、入口の看板にスイス人のニーナって金髪美女が映ってんだが、指名すると厚化粧のババアが出てくるらしい。"桃色ババフライ、、、、、"の間違いだろ。こりゃ再生数いくぞ」

「答えろ、タナカ」

「スズキにゃたんまり稼がせてもらったからな。花の一本でもと思ったが……花代が浮いたぜ」

「でも俺はおまえを一生許さない」

「あそう」

「お嬢様はこんなこと望んじゃいなかった! たとえ、あんな、花が……」

「そりゃ違うぜレオ君」

「なにが違う⁉」

「スズキが望んだ? 違う。俺が、、望んだんだよ。あいつは関係ない」

 ポケットから出した100万円の札束を手の上でくるくると回している。

「俺がもうけた。俺が殺した。俺がだました」

 レオは息を飲んだ。

「スズキもてめえも関係ねえよ」

 ただド田舎の詐欺師にハメられただけ。

 壮絶な過去を持つ少女も、CIAも、殺せなかった、、、、、、のを後悔している自分自身も。

「文句なら聞いてやる。許してくれなくていい。ただ俺は、気兼ねなく毎日フロに入れて、クソムカつくリッケンなんちゃら一家が破滅した――それでスカッとしたぜ」


 詐欺師と呼ばれた男は呵々かかと笑い、キャバクラのチラシを真剣に眺めていた。






 ――『田中くんと大統領の孫』



【次回予告】

 詐欺師はチート少女と命懸けのじゃんけんに挑む。

『田中くんと時かけの魔女』

 SEE YOU NEXT TIME!!!


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田中くんと大統領の娘 -詐欺師 vs 異国の転校生- サン シカ @sankashikaku

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