第2幕「愛;それを、人はたがために為す」

「ああ、セーラ。もう帰ってしまうのね」

「今日くらい、泊っていったらどうだ?」

 戸口で母と父が言う。

「ううん。もし、何かあったらいけないから」

 重くなってしまわないように、私は笑顔でそう言った。

「そうか。それじゃあ、気をつけて帰るんだぞ」

「また必ず帰って来るのよ。お父さんもお母さんも、貴方の一番の味方だからね。貴方に何があっても、お父さんとお母さんは貴方の味方だから……」

「うん。ありがとう……。来週の土曜日にはまた来るから」

「ええ。スープをたくさん作って待っているわ」

「ありがとう。楽しみにしてる。……それじゃあ、よい朝を」

「ええ、よい朝を。安全と共に」

「安全と共に」

「安全と共に」

 私は両親に見送られながら、帰路に足を落とした。

 父も母も健在だけれど、私は家族と離れて一人で暮らしている。私が悪魔にかれているからだ。もしも二人の身に何かあったらいけないから、一緒に住むわけにはいかない。

 週に一度、安息日は一緒に過ごすけれど、私が帰る時間になると二人はとても悲しそうな顔をする。私も、両親と離れて暮らすのはとてもさびしい。毎週、胸が締めつけられる思いで二人と別れる。

 でも、同時に両親といると息がつまる。

 乾いた砂を踏みしめ踏みしめ歩みを進める私の頭に、今日の夕食での一幕が思い出される。

「ああ。なぜ神様はこんな試練を、私たち家族にお与えになったのかしらね。可愛い孫の顔も見ないまま、天に召されなさいとでも言うのかしら……」

「やめないか、お前。せっかくのセーラとの食事が不味くなる。――すまないね、セーラ。だが、うちにはお前しかいないんだ。母さんを許してやってくれ」

「いいの、お父様。わかってるから。誰も悪くないわ。私が悪魔に憑かれたのが悪いんだから……」

「セーラ、貴方の言う通りよ。誰も悪くないわ。でもね、それは貴方もよ、セーラ。悪いのはみんな、貴方に憑いている悪魔なんだからね」

 お母様はそう言ってくれたけれど、でも……。

 私には六人の兄と姉、そして二人の弟がいた。けれど、みんな死んでしまった。二人の兄は成人するまで生きられたけれど、子供が生まれる前に、ユダお兄様は戦争で、アブラムお兄様は事故で死んでしまった。お父様とお母様に孫の顔を見せてあげられるのは、もう私しかいないのだ。

 なのに私は……。

 涙をこらえる私の頬を、代わりに一雫ひとしずくの汗が撫でる。今日の夜も暑い。


     *


 服を縫う手が重い。

 針も糸も布も、ハサミでさえも重くないのに、お裁縫をする私の手だけが重かった。

 私は簡単な仕立てのお仕事で生計を立てている。衣服は基本的に自分の家庭で作る物とはいえ、お裁縫はやっぱり手間暇と技術のいるお仕事だ。簡単なものであっても、仕立てのお仕事はゼロではない。

 何よりありがたいことに、私の仕事ぶりは評価していただけていて、ある程度制限をかけているくらいには依頼をいただけている。

 そして今、私は『サコーファトン・メラビス』の冬号を参考に、赤ちゃんのための服を仕立てている。

 『サコーファトン・メラビス』は、今一番人気のファッション季刊誌だ。いくつかの特集を組んで、仕立ての基本やアレンジ例などを紹介している。お裁縫は母や祖母から習うもので、こんな軽率な手段で学ぶものではないという人もいるけれど、幅広い年代の婦人に支持されている大人気の雑誌だ。

 私もお仕事の参考にしている。特に、若い男性の衣服や子供に着せる服なんて、私には馴染みがないから……。

「はぁ……」

 ついてもついても溢れてきそうなため息を飲み込むように、私はぬるい紅茶を飲み干した。

 駄目だ、集中できない。少し休憩しよう。

「んー……、はぁ」

 大きく伸びをした私は、顔の汗を拭ってから窓辺に向かった。

 外は今日もカラッとした晴天で、青い空と乾いた砂がどこまでも続いている。私の心も、いつも通りとしている。カラカラに渇いて、干からびてしまいそうだ。

「はぁ」

 止まらないため息と止めどない憂うつを振り払うように、私は首を振って窓辺を離れた。

 私は恵まれている。悪魔に憑かれて一人で暮らしていても、食べ物に困ることもなく、平凡な毎日を送ることができているのだから。これも、礼拝堂のご支援をいただいているお陰だ。

祭司さいし様……」

 かつて、礼拝堂で最もお年を召していらっしゃった祭司様。そして、私の四人目の結婚相手。今は亡きジャヒーマンユ様を思い出す。

 ジャヒーマンユ様はとても熱心に私の相談に乗ってくださって、手厚い支援をしてくださった、とても優しい祭司様だった。ジャヒーマンユ様がいらっしゃらなければ、今ほどのご支援はいただけていなかっただろう。

 それどころかジャヒーマンユ様は、最後にはアスモダイオスをはらうため、その地位を退いて、自らを危険に晒してまで私と結婚してくださった――。

「大丈夫です。怖いことは何もないのですよ。安心してください」

 ジャヒーマンユ様は、初夜のベッドで、私に優しくそう言ってくださった。

 アスモダイオスのことだけではなく、お父様よりも年上の男性と初夜を迎えることにも、私は不安や恐怖を感じていた。礼拝堂でお会いする、いつもの祭司様とは違う雰囲気、視線の感触、穏やかでない息遣いも、正直怖かった。そして何より、優しくてご立派な祭司様のことをそんな風に感じてしまう自分が許せなかった。

「大丈夫ですよ、セーラ。貴方のタイミングでいいのです。私がセーラと結婚するのは、セーラを救うためなのですから。夜は長い。ゆっくり決心を固めなさい」

「……ごめんなさい、ジャヒーマンユ様」

 こんな私に怒ることもせず、ジャヒーマンユ様は優しく微笑んでくださった。私は、私のためにここまでしてくださっているジャヒーマンユ様を受け入れる決心を固めた。

「では、脱がしますよ」

「……はい」

「大丈夫、安心するのです。何も怖いことはありません。私は貴方を救うために、神様の思し召しのままに、貴方の服を脱がせるのです。私は貴方を救うために、神様の思し召しのままに、貴方の体に触れるのです。全てはセーラ。貴方のために、神様の思し召しのままに行われることなのだから、安心して全てを受け入れるのですよ」

「……はい」

「いい子ですね、セーラ。……はぁ、セーラ。とてもなまやかですよ」

 そう言ったジャヒーマンユ様の手が、私の服に触れるその寸前、ジャヒーマンユ様はすごい勢いでベッドに押し倒された。

「うっ、ぬぅぅ……。出たな、しぶとい悪魔め! 邪魔はさせんぞ! セーラは私のものだ!」

 ジャヒーマンユ様は荒々しくそう叫ぶと、手をかざし祈り始めた。あんなジャヒーマンユ様を見るのは、それが最初で最後だった。

「……」

 悪魔は、アスモダイオスは、ジャヒーマンユ様の祈りに全く動じることなく距離を詰め。

「なっ、やめろ!」

 再びベッドに押し倒し、その首を絞めて――。

「はぁっ! はぁっ!」

 恐ろしい記憶がまざまざと蘇り、私はベッドに倒れ込むように手をついた。

「はぁっ……、はぁっ……、落ち着いて、落ち着いて……」

 何とか呼吸を整える。大丈夫、よくあることだ。大丈夫、大丈夫。

 でも。でも……。祭司様は、ジャヒーマンユ様は、私の所為で殺されてしまった。私の所為で、もう、いない……。

「なんで? なんで? ……もう、死にたいよ」

 私は耐えきれない何もかもから逃げるように、ベッドに潜り込む。とてもじゃないけれど、お裁縫なんてしていられない。お料理も、お洗濯も、ただ生きていることさえも耐えられない……。

 私は頭まで布団をかぶり、苦しさを振り払うように虚ろにすがった。

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